『Solarfault, 空は晴れて』

solarfault

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 ガラスコップに、氷、無糖の炭酸水を注ぎ、『シロップ』を数滴垂らす。炭酸水は青く染まり水底から気泡が浮かぶ。気泡は水面をこまかにゆらす。そこから空気や粒子が逃げていく。

 そうなる前にすべてを飲み干す。

 瞬く間に自分も青く染まる。ただしごく淡い青。気づかれない程の青。曖昧な青。(畳。)血の気が引くようなさわやかな色。

 薄すぎて気づかないかすかな甘味。

 はじめて見た記憶にも彼女はいた。

 はじめて見た記憶は濃すぎて飲みこめなかった。濃厚すぎる嘘はすぐに嘘だと見抜けた。夢の中でも夢だと気づけた。安直な夢物語だった。嘘のつくりが脆いくせにあたかも本当づらしている嘘など受け付けなかった。ぼくは、吐きだしたような気がする。少しだけいまいましい記憶は、(白い腕)きっとトイレの便器から流れた。

 だから嘘の濃度を減らした。容量を徐々に減らした。一滴一滴減らして試すたびにだんだん嘘の嘘くささは薄まった。(午後4時)見る記憶の現実みが少しずつ増していった。(長い吐息)(洗いざらしのシャツ)

 夢を見る為の嗜好品で夢を見られるほど純朴な人間ではなかった。

 (吐息は生温く混ざりあった。からみついた指が、やはり嘘みたいだと思った。)

 

 ほんの一滴のエッセンスを炭酸水で割って飲む。ここまで薄めれば嘘と本当の境を肉眼で見ることはきっとできない。

 薄めて薄めて味のしなくなった嘘はまるで本当みたいな顔をして思い出の中に居座っている。

 その区別がつかない。

 悲観はしていないし楽観もしていない。混同した思い出のせいでみんなに迷惑をかけたこともあったけど、それはもう少し嘘の濃度が濃かった頃の話で、今は、たぶん誰も境目を見分けることはできない。「あの日履いていた靴はスニーカーかサンダルか?」ぼくのディティールはそれ程までにどうでもよくなっていた。

 もう、嘘と分かっている嘘を飲み込むことはできない。

 もはや、見るものすべてのどこかに嘘は本当づらして紛れこんでいる。

 今、君と同じものを見ていないのだろう。

 あの日のぼくは裸足だったはずだ。

 

全部嘘

@solarfault 12年8月31日

形になんないで

@solarfault 12年8月31日

つまり、ここで小説を行うことは可能だ。

@solarfault 12年8月31日

 

「夢を見たの。
 自分が迷子になっている夢。わたしはもう幼くない年なんだけど、誰かとはぐれて、きょろきょろ辺りを見回してた。迷子になってしまったんだね。遊園地みたいな場所だった。遊園地かどうかは分からないけど、とにかく特別な雰囲気で、特別なときに訪れる箱庭。
 夢って自分が知らないことでも勝手に進んでいくじゃない? 知らないことのはずなのに夢に居合わせたわたしはそのことをよく知ってたり。前に見たのは、ぜんぜん知らない人とドライブに出掛けた夢で、登場する男の人はぜんぜん知らない見覚えのない人なのに、それがあなたって設定で。わたしは何の疑いもなく、そのあなたと一緒に行くって話になってた。
 知ってるって思いこんでるの。無意識に。無意識? 夢の中だけで設定や常識が先立ってるの。それで……というより、思い出してみると、あれは遊園地みたいだった。
 そこで通りの真ん中につっ立ってるわたしはどう見ても迷子だし、通りの邪魔だと思うのに、通りすがる人みんなが無関心にわたしを避けていくの。ほかの人達はみんな家族や恋人のグループで、そんな場所にわたしはたったひとりで、でもみんなはまるでわたしがいないみたいに誰とも目が合わなかった。誰も助けてくれなかった。
 そういう様子を、わたしが、俯瞰して見ているの。迷子になっているわたしをね、わたしが見ている夢。
 わたしは、どっちかというと見ている方のわたしにいた。でも両方わたしなの。わたしが上から迷子を見ていて、その迷子がわたしだった、みたいな感じ。こういうの、一人称と三人称っていうんだっけ? 迷子のわたしの一人称と、それを眺める第三者の両方がわたしだったんだ。わたしはわたしをずっと見ていた。
 ずっと見ていたら、そのうち誰かがやってきて、迷子の私を連れて行ってくれた。人ごみの中、きっとまっすぐにわたしを見つけてくれたと思う。わたしは、わたしの気持ちが分かるから、わたしを連れて行った人がいい人だって知ってたから、わたしはわたしに、見つけてもらえてよかったねって思った。夢の中では誰か分からなかったけど、目覚めてから、彼もあなたの顔をしてたことを思い出した。
 でもわたしはどこから見てたんだろう。ビルの上? 空を飛んでいたのかな」

 

 青空が翳りはじめる。風が冷えていく。それでもなお蝉は鳴いている。千切れた綿雲が取り返しのつかない速さで流される。じりじりと、上空から覆いかぶさる。

 地表近くに太陽の熱が滞っている。

 地を這いつくばるかのよう。太陽熱や、光や、アスファルトや、蝉や、夕立ちは、空から重力をもってのしかかる。上から見ている。

 重力だ。

 この、いらだちとか、首筋や背中を湿らせる汗、頭の揺れや喉の渇きは、光と熱は、全て上空から降り注ぐ。上から見ている。ぼくらはその目から逃れられない。

 その目線と、立つという行為を、誰も疑おうとしない。今にもアスファルトが強度を失って黒い粘液に変容するだろう。ぼくたちを飲みこみながら、ずぶずぶと、低い方へ押し流される。立つことは(常識とか理由とかは)ぐらぐらしている。どうして誰もこんな当たり前のことに気づけないのだろう。

 ……通り雨。

 

 覚えている。

 天気雨だった。厚い雲の切れ間から青空が差した。滴が落ちてきたかと思えば、瞬く間に大粒の雨に変わった。アスファルトに打ちつけて、遠浅の海のように、水たまりは広がった。向こうで、雷が鳴り、落ちた。聾するような轟音をたてて。風が冷えていく。雨音がひろがる。人が走る。電車が走る。

 傘がなかった。

 雑居ビルの軒下にいた。出先だった。傘はなかった。財布と携帯はあった。タオルはなかった。雨は人を拒むように降り続けた。人を隔てるカーテンに似ていた。雨水は排水溝を走った。水滴の波紋が描かれてはかき消された。急速に流れた。コップを持っていた。

 空のコップを天へ向けた。すぐさまコップの中へ、コップを持つ半袖の腕へ、大粒の雨が注がれた。意外にもコップに水は溜まらなかった。雨はぼくの腕ばかり濡らした。しばらくそうしていても、どしゃ降りだというのに、水かさは1センチにも満たなかった。仮に水が溜まったらどうするというのか? 屋根の外に右腕を晒しながら、少し考えた。濡れた身体が冷えていく。

 軒下にうずくまった。コップの滴を少し舐めた。

 雨は幕やカーテンに似ていた。水滴が余白を埋めた。ぼくは遭難者に似ていた。黒い雲が流れた。その向こうは明るかった。

 やがてぽつぽつと小降りになりぼくはビルを出て通りを歩いた。頭に水滴が落ちた。

 空を見上げた。黒煙のような雨雲が流れた。太陽は厚い雲に隠されていた。夏が洗い流された。涼しかった。午後が明るくなりはじめた。青空が差して、水面を映した。視野は鮮明だった。鮮やかな通りを見渡した。

 地上より水中の方がものは鮮やかに映るらしい。空気中の太陽光は白んでいて、濁った灰色の影を落とすが、水中は光がまっすぐ届かず、ものの色は鮮やかなままだと、いつか誰かに聞いたからぼくは知っている。だから今、雨上がりはとても鮮やかなのだと知っている。今、水底を歩いている。鮮やかな街を歩いている。鮮やかさに確かに驚いている。

 そんな折だった。

 目の前の、マンションかビルの窓から、人が身を乗り出した。窓枠をしっかりとつかみ、同じ雨上がりの空を見あげていた。背筋は迷いなくぴんと反り、顔をくっと空へもたげる。全身でのびやかな曲線を描く。落下しかねない高さだった。通りを歩くぼくはだんだんとその人との距離を縮める。歩調をゆるめる。その人を見る。短い髪。ノースリーブを着てあらわな両腕の線は細い。カーテンが風にたなびく。建物の前に達したとき、とうとう表情が窺えた。

 とっくに雨は止んでいた。

 雨雲の隙間から空は秋の雲を呈していた。掻き傷のような薄い雲だった。真っ青に晴れていた。瓶底のような青だった。雲は刻々と流れる。冷たい風。洗い流されたぼくらの街。アパート。古本屋。駅。急行新宿行。サンダル。影。青空。ぼくという男。波。おぼつかない1秒前の記憶。

 すべてを虫ピンで射抜きそうな眼。奥二重の瞼。睫毛。白い肌。水底のぼくをやさしく咎める。それでいてすべてを秘密に沈めてしまう。

 人よりも高い鼻梁で空を仰ぐ。その影が凛としている。

 そして視線を地上に落とした。

 微笑してぼくを見た。

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『Solarfault, 空は晴れて』
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「Solarfault」

「空は晴れて」

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