『Solarfault, 空は晴れて』

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 エクリさんと海へ行かなかった。

 朝7時に駅で待ち合わせて急行で海に行かなかった。

 エクリさんは洗いざらしの真っ白なシャツを着なかった。エクリさんはカンカン帽をぼくにかぶせて遊ばなかった。ぼくはさっき買ったペットボトルのお茶を飲まなかった。エクリさんはぼくにレモンのキャンディーをくれなかった。

 人のいないところがいいねって、わざわざ遠くの海を選ばなかった。日なたのエクリさんを歩く首筋に汗が滲まなかった。ぼくは白いうなじにひそかに見とれなかった。

 ふたり並んで電車に揺られなかった。会話は時々途絶え、そのたびにぼくはいつか聴いた曲を思い出さなかった。かすかに口ずさまなかった。電車を乗り継いでバスに乗ってやっと辿り着かなかった。暑く鮮やかで晴れていなかった。さざ波が押し寄せなかった。カモメが鳴かなかった。海は青く透きとおらなかった。

 人はいなかった。

 ぼくたちはサンダルを脱がなかった。エクリさんが日傘を差さなかった。暑いよねって、ぼくに帽子を貸さなかった。日差しは眩しかったけど海からの冷たい風が吹いて涼しくなかった。ぼくたちは波に足を浸さなかった。水はやわらかになびいて光の網を反射しなかった。きれいだねって言わなかった。足元を流れる感触が心地よくなかった。カメラを持ってエクリさんははしゃがなかった。

 浜に、ところどころ、緑色の海藻が打ち上げられていなかった。目玉をついばまれた魚が横たわっていなかった。波にのまれて丸くなったガラスの破片が落ちていなかった。水平線の果てへ長く薄い雲が伸びていかなかった。空を仰いでは静かにしあわせな気持ちにならなかった。来てよかったな、と思わなかった。

 海岸線を自由に歩いていくエクリさんの背中を追いかけなかった。エクリさんは時々振り返っては日傘をひるがえして笑わなかった。物静かにもたのしそうにするエクリさんをぼくは初めて見なかった。エクリさんに追い着いたぼくはその手を取ろうとしなかった。欲しいだなんて、思わなかった。

 涼しい海風が吹きつけるたびにうれしいとかなしいの両方であの感傷にざわつかなかった。

 海はあの液体のように青くなかった。

 ぼくは青が大好きではなかった。

 服の裾を濡らしながらもっと深いところを歩かなかった。水の抵抗と浮遊感をただこの身に染み渡らせようとしなかった。まとわりつく砂や灼けるような真昼の日差しさえ記憶したくなかった。剥きだしのエクリさんの腕がひどく色白でなかった。赤く焼かれていなかった。言うことがなくなっても合言葉のように、たのしいね、たのしいねと確かめあわなかった。

 あの感傷は引いていかなかった。何故かは分からなかった。

 また来ようね、と、終わってもいないのに彼女が語らなかった。

 その微笑に見覚えはなかった。ぼくたちは海に行かなかった。

 

 蝉時雨が静まった外を見ると音のない雨が降っている。ぱらぱらとまばらにしめやかに、白い糸のように透明な雫が降っている。少し涼しくなる。涼しくなる。冷える。ぼくは冷える。

 人肌を思い出す。瞬間、波のように、冷たい記憶が、脳を(胸を)急速に浸した。(人肌。畳の上。)

 忘れないべきだとぼくは思った。けれども忘れるべきだと信じた。(畳の上の白いシャツ……)違う。青。寄りすがった冷蔵庫から小瓶とサイダーを出す。ほんの数滴である。ほんの数滴だ。何も入っていないに等しい。ゆっくりと喉に流したらいくぶんか落ち着いた。飲み干してコップを洗い、のろのろと窓辺に腰を下ろす。

 

 飲みすぎだよ と神原は言った。

 

 テーブルの向かい側でエクリさんはぼくが勧めたクッションの上に正座していた。ぼくが割ったカルピスソーダに口を付けた。ぼくもエクリさんの前ではシロップを控えた。ぼく好みのカルピスソーダだから、薄味だね、と言った。エクリさんは既製品のカルピスソーダを買う。それに比べたらぼくの配分は味気ないものだろう。ぼくは、薄かったら足してもいいと勧めた。結局自分の分は自分で作るのが一番だった。エクリさんが注いだ原液の多さにぼくは驚いた。シロップでなくても、好みがどんどん薄味に変わっている。

 ついこの前エクリさんは髪を切った。肩までつく長さだった髪をばっさり切った。短い髪は真夏によく似合っていた。とてもよく似合っていたから、はじめから短髪だったような気もしてきた。それを、本人に言ったら、笑いながら、違うと言われた。よく似合う髪型だった。

 ぼくはエクリさんの家を知らなかった。エクリさんがぼくの家にあがった。ぼくは窓を開けて風を通した。

 さっきまでふたりで出来あいの冷やし中華を食べていた。夕食だった。家に具材に見合うものがなかったからスーパーで出来あいのものを買って来た。ふたりで。それと、デザートに葛切り餅を食べた。

 そうして食後のカルピスソーダ。

 エクリさんは先月見た劇のことを話した。ぼくも少し前に見たある劇団のことを話した。エクリさんも目を付けていた劇団だった。どうだった? と尋ねられたけど、ぼくは、良かった、と答えられずとてもあいまいに返した。公演が面白くなかったのではない。良いか悪いかで言えば良い劇だったはずなのに、今、思い出してみると、本当にそうだったのか、何を面白いと思ったのか、確信し難かった。エクリさんはその劇団に友人がいるからぼくの煮えきらない答えで気を悪くしたかもしれない。自信がなくても「よかったよ」と言うべきだった気がして、ほんの少しだけ申し訳なかった。エクリさんは用事があって行けなかったのだ。

 借りていた本の話になった。読み終わった? といたずらっぽく訊くのは、ぼくが手を付けていないのを見越していたからだろう。机の上のその本は栞が1ページ目から動いていない。なぜか読みにくいんだとぼくはこぼした。だから待ってほしいと伝えた。

「感想を聴かせてね」と彼女は言った。「わたしもまだ読んでないの」

「読んでない?」

「笑っちゃうよね、どうしても途中で気がそれちゃって」

 読んでみる、とぼくは言うだけ言った。

 話題は流れた。何を話したのか、忘れてしまったしどうでもよかった。心地いいという感想だけが身体に残った。エクリさんの少し低い声が気持ちよかった。同い年とは思えない。同い年ではないのかもしれない。

 写真を見せてくれた。エクリさんはカメラを持ち歩いていた。撮るのは風景写真ばかりで、彼女自身やぼくが写ったことはない。彼女がお気に入りと言ったのは透き通った水面の写真だった。波打際も水平線も撮影者の足もなく、浅瀬の水面だけを写していた。ほのかに空色が反射しているかもしれない。

「ほら、あのときの」

 そして写真をぼくにくれた。

 夜は更け、エクリさんは帰り支度をはじめ、ぼくはエクリさんを駅まで送った。送ってくれるの? エクリさんが意外そうにしたのが意外だった。それぐらいやるよ。ほんと? うん、いいよ。

 道はエクリさんも知っているから、彼女はすたすたと迷わず歩いた。夜風が涼しい。ずっと夜ならいいのにと半ば本気で思う。もやをまとった真夏の夜空にまばらに夏の星々が覗いた。そんな夜をエクリさんは見上げていた。不意に、あ、と呟いた。

「新月。」

 空を仰いで言う。新月?

 今夜は新月なんだよ。月光に照らされない彼女は教えてくれた。

 どうして新月だと分かるの?

 そう思ったけれど、ぼくは、そうだね、と呟いた。

 沈んでいるのではなく、新月。

 弁当屋の前を通り、踏切を渡り、じゃあ、またね。別れの挨拶を告げてエクリさんは改札を抜けた。そのまま去っていくと思われたが、彼女は、ふたたび「あ」と思いだしたようにぼくへ振り返った。自動改札機がぼくと彼女を隔てる。ぼくは分からないでつっ立っていた。

「わすれてないから」

 微笑を浮かべた低い声がぼくを咎めた。ぼくは改札の方に一歩あゆみ寄っていた。白く細い腕がのびた。ぼくに触れることはなく、宙を撫でて手を下ろした。

「だから、逃げないで」

 ぼくが意味を思い出すよりずっと早く、電車の到達を告げるアナウンスが鳴る。まばたきをした時、もう彼女の姿はなかった。急行が駅を発つまで、ぼくはそこにつっ立っていた。彼女が遠のくさまを見ていた。

 帰り道、もう一度夜空を見上げても、月は見つからない。

 

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『Solarfault, 空は晴れて』
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「空は晴れて」

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