『Solarfault, 空は晴れて』

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 夜深い、なにもない、と言ったら嘘になる。起きているものはいる。ぼくみたいに。走る車が窓から見える。虫が入ってくるからすぐにカーテンを閉める。網戸をしている。

 太陽熱は少しは引いたがまだまだじっとり停滞している。

 電気を点けないでいるのが好きで、暗い部屋の中、こうしている。電気を付けたくないぼくの家にテレビはなく、パソコンとラジオがある。パソコンも今は点けたくない。調子の悪いちゃっちいラジオを窓際に立てている。チューニングが上手くいかない。音を拾う。ここを通過する信号を。信号、今も空気中に充満しているという……流れて来る知らない邦楽。

 漁。空中をただよう波にフォーカスを当ててすくいあげる。

 偶然に似ている。

 偶然引っ掛かる。

 偶然耳に留まる。

 そよ風が吹くのに似ている。

 午前2時10分。

 蝉が鳴いている。

 とりとめのない空想。煙の時間。

 起きている価値のない。

 すっ飛ばした午後8時頃のこと。

 暑く、家にいても何もなく、妙な鬱屈に陥った。扇風機のモーター音の向こうで、米軍のヘリが北へ飛んだ。

 情緒的な癖があって、因果や実害のないことにもときどき悲しくなる。喉が渇き、500ミリペットボトルの炭酸水を一本丸々使い果たした。飲みすぎた。だから落ち着きを欠いた。とても悲しくなった。自宅に留まっていられなかった。

 衝動に駆られるまま、財布と携帯をポケットに入れ、出掛ける準備をした。追い立てられていた。窒息していた。ここに留まっていたら駄目になるんだと妄想した。その時、机上に遭った飲みかけのコップを、どういう訳か手に取った。そのまま家を出た。コップひとつを手に。

 どこへ行くかも決めなかった。単に長く家を離れていたかった。夏の夜は日が差す日中よりはずっと涼しいが、少し歩くと汗が滲んだ。財布でふくらんだポケットと手のガラスコップが煩わしい。目的地は決めていない。駅の方へ歩いた。溶けた氷と気の抜けたソーダが混じった薄青色の液体をコップの中でくるくるくゆらす。高校化学の教科書で見た液体酸素の色に似ている。喉が渇いたから、飲む。なまぬるい。不味いなあと思う。ガラスコップはポイ捨てできず利き手に掴んだまま歩いた。既に虚しかった。街灯も信号も光が滲んで見えた。充満する熱の為に空気が淀んでいるからだと思った。冬ならもっと澄んでいるはずだ。もやをまとった暑い夜空にまばらに夏の星が光った。

 駅からの人々とすれ違った。コップに一瞥を向けられる度に己の奇行に恥じらいをかみしめた。けれども人々はそこまでぼくひとりのことを気に留めない。じきにぼくへの視線は消えて、ぼくも視線を気に留めなくなった。コップを手に持っていた。割れ物だから落とさないように気を付けた。コップよりも、用もなく夜中に歩くことの方がはるかに不毛でやりきれない。長々と歩く訳にもいかず、じきに駅のそばまで辿り着いた。

 見あげた高架線の上で、下りの電車がホームに停まった。少ししてぞろぞろと人々が階段を降りてくる。人肌の色と毛髪の黒が同じようなにぶい足音を鳴らして、まだらな行列となり改札口から排出される。その光景は暑苦しいが温もりは見当たらない。向こうから来る誰もが手にコップを持っていない。

 上り線も現れ、停車し、人を排出して出発した。電車は等間隔の光の列となり、カーブしながら新宿を目指す。遠ざかっていく。

 財布があって携帯もある。改札をくぐることは許されている。その気になればどこへも行ける。終電まではまだずっと余裕があるから帰ってくることは可能だし、朝までどこかを彷徨してもいい。ガラスコップを手にしたままで、電車に乗るのも可能である。奇異の目に晒されようがぼくの乗車はどこまでも自由で、その気になればどこまでも行ける。誰かのもとを訪ねるのも、誰もいない地を歩くのも、どこまでも行ける、想像する。どこまでも連れて行かれる。今、選択を下すことが、可能なようでいて、それで。

 電車のダイヤが表す乗客の満ち引きをぼくは遠巻きに眺めていた。実のところ、そんなに長く駅に留まってはいない。どんなに感傷に耽っていようとここは単なる最寄駅にすぎないし、劇的なことは何ひとつ起こらない。人の流れも高が知れていて、ぼくも高が知れている。結局、電車に乗るには至らなかった。コンビニで炭酸水を買い足して終わった。ぼくは電車に乗れずに帰った。

 南風が吹きぬけた。それは水の匂いがして、川とか海とか夕立とか、ぼくの好きなものに似ていた。あこがれて胸騒ぎがした。どれもが、今は遠くて辿り着けない。

 こうもたびたび感傷に追い立てられて家を出るのだ。ならいっそ家を出ても心地いい場所に住むべきなのかもしれない。いつでも夜の河川や友人の元へ行けるようでないと、駄目になってしまうのかもしれない。明かりを点けたくない夜の気まぐれに付き合えるようなところに住まないと、この先やっていけないのかもしれない。

 

 用事があって隣の隣の隣の隣駅まで来ていて、5時過ぎには暇になったから誰かに会いたくなった。神原なら暇してそうだと思い連絡してみると、外出中だが30分以内には戻るとのことで、駅前のツタヤで25分潰してもう5分は改札前で待っていた。その5分の間に神原は現れた。夕食を食べたいと冗談半分で持ちかけると、材料代をくれるならいいと言うから、買い物をして神原の家に上がった。余った玉ねぎとレモンを添えてムニエルを頂いた。

 ぼくが来ると神原は呑まない。ぼくは飲酒せずシロップだけだが神原は酒しか嗜まない。この家の冷蔵庫にシロップはなく、酒を飲まないぼくがいるから神原は缶を開けない。

 神原の家のガラスコップはうちのよりも痩せて縁が薄い。水を飲んだ。グラスが汗をかいてテーブルを濡らした。神原は台所に立ち換気扇を回した。煙草の匂いが漂った。

「あれ、吸ってたっけ」

「吸うよ」

 記憶にない。しばらく話さなかったからか、それとも。

 お前は飲みすぎだよ。後ろ向きの神原が言う。甘いとも苦いとも言い難い、あの特有の匂いが鼻をかすめる。

「しばらく会ってなかったから、知らなかった」

 ぼくが言うと、神原は煙を吐いた。少し振り返り、苦笑するような表情を口元に浮かべて、

「煙草きらい?」

 そうでもない、受動喫煙はけっこう好きだ、そう告げると神原は「じゃあいい」とだけ言って、少し間があって、「俺もあれの見た目は好き」と、シロップのことを言う。

 それはぼくも同感で、ぼくも見た目から入ったくちだ。仮に赤や黄色だったら手を出していなかった。

 透き通った青い液体を湛えた小瓶は1本500円程で売買される。

 お前は飲みすぎだと神原は言う。秦野ほどじゃないと反論する。秦野の飲み方は原液だ。

「足して割って飲めば?」

「まだ濃い。飲めない」

「本当は1対5じゃなかったっけ」

「まあ、うん、秦野は1対1だった。原液だ」

「でも頻度は少ない」煙を吐いた神原も、どうやらヘビースモーカーではない。「濃度よりも回数じゃねえの」

「濃い方が毒じゃないの。薄い分には平気だよ。薬じゃないんだから、薄めてるんだ、中毒なんかにはなんないんだし。ヘリウムガスみたいなもんなんだよ。これは。あくまでパーティーグッズで余興なんだ。

 はじめて飲んだとき、1対5で作ったんだけど、濃すぎるし、極端すぎたんだよ。出てくる思い出が。どう考えても嘘だって分かるぐらいできすぎで分かりやすすぎる。それじゃ、稚拙じゃん。そんなんじゃ意味がない。それじゃ嘘くさい。もっともっと薄めなきゃいけない。変な夢よりもはっきりと思い出せて、それでいて嘘であって、本当のことじゃない状態。

 おれは、嘘でも本当でもなくて、その間の、ギリギリの線の上にいたいんだよ……」

 気づけば神原は煙を消していた。

 まあ、いいけど、飲みすぎるなと神原は忠告し、ぼくは程々にするよといつもどおりに返してこの話は終わった。

 その夜は風通しが悪く、クーラーをつけてもらった。外に出た方が涼しいかもしれない。それなら夜歩きでもしたい。

 ぼくはコップを持って駅まで歩いたことを打ち明けた。不毛で後ろめたい経験だった。神原も時々発作的に深夜散歩に繰り出すたちで、だからこの体験をなんとなく共有できると思った。共感はされたくないけど共有は好い。

 あらかた話すと、持ち歩いたのはガラスコップかと尋ねられた。ぼくは神原のコップを指しながら、ちょうどこんな感じだと答えた。すると、明らかに懸念を抱いた、諭すような口調で、「ガラスはあぶない」と言うのだった。

「持ち歩くなら、プラスチックの方がいい。ガラスは重いしかさばるし割れる。プラスチックなら軽いし安全だし、いらなくなったらポイ捨てできる」

 意外にも真面目なアドバイスをくれるので面喰ってしまった。確かにプラコップの方が持ち歩きには良いだろうけど、「プラスチックはきれいじゃないよな」「まあ、だよね」美的センスは同意する。

 それよりも、ぼくの話をひどく真面目に受けとめて貰ったことがかなり嬉しくて、それだけで神原を訪ねて良かったと思ってしまった。神原は根はすごくいいやつなのだと思う。ぼくは信じている。直接言ったら苦笑されるだろうけど。

 それから少し映画の話をして、アイスを貰って、10時前に神原の家を出た。その晩は月がよく見えた。

 帰って一杯だけやった。

 

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『Solarfault, 空は晴れて』
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