fragments
……日が傾いた帰り道、急速に冷え込むなかを駅まで延々歩いて帰ったことは、記述に値するのだろうか。帰りの電車は。冷えた自宅の空気は。簡素な毎日の夕食については。
家の仕事を片付けたのち、机の上で、眠りに落ちてしまったらしい。意識を取り戻し、外は真っ暗で、慌てて画面の時計を確認したときには深夜二時をとうに回っていた。一面に映っていたのは空だった。雲の隙間から暮れなずむ空の薄色が窺えた。画面のなかの空である。
彼女と回線が繋がっていた。でも彼女は映っていなかった。いつもの浜辺と見えるものが違っていて、違和感の原因を探ろうとした。視点が高いのか、建物が見えるのに気付いた。ここは彼女のアパートのベランダなのではないだろうか。彼女の姿は見当たらない。通話の約束を反故にしてしまったことをひどく悔やんだ。物音は聞こえない。互いのマイクが外れているからだ。大声で名を呼べば彼女は現れるというのだろうか? 来客がいて手が離せないのか? 映画かパーティーに出掛けてしまったのか? 彼女はピザを食べるのだろうか。
画面は、ほとんど空だけを映していた。画面の端にベランダの手摺りかなにかの黒く小さい影らしきものが見え、見切れた他の建物が写真をいっそう粗野な構図に仕立てていた。いや、画面は写真ではない。いつもの通話のインカメラだ。目の前に映るのはライブ映像。暮れかけた空。誰も気に留めそうにないくらいかすかに流れゆく薄い雲。耳を澄ませたイヤホンからはせいぜい野音しか聞こえない。下を車が走ってるらしい。
ライブ映像。
人間のいない景色を見て、季節や時刻を判別できるのだろうか。温度も会話も知ることがないのに、季節や時刻を断定できるのだろうか。どうしてこの光景が朝焼けではないと言えるのだろうか。
視点を動かせないのは辛い心地だった。あたりを見渡す自由を奪われる苦しみと、長い長い退屈があった。ぼくは凝視し、耳を澄ませた。画面は、いかにもホームビデオという画質によって平坦に見えて、まるで本物の空に似なかった。放送終了後のなにもない画面を延々と流すような〝オフ〟への物悲しさもある。何かが起こり得る予兆もなかった。出演者がいなければ、楽しいことも悲しいことも起きるとは思えない。
なにかがはじまる予兆はなかった。ぼくが知っている限りでは。音声もBGMもない。空には、純粋に、言葉があった。言葉が空に輝いていた。それはただの言葉だった。コマーシャルでもシュプレヒコールでもジョークでもなく、何のメッセージも携えずに現れたただの言葉だった。メッセージも作者もなかった。言葉であるとしか言えなかった。だからぼくらは動揺した。気の触れた文章でもなく、ナンセンスとも思えず、しかし計算づくの一文とも思えない、そしてあらゆる詩や小説に該当作品は見つからなかった。その存在については今でもなお否定神学的な否定文でしか語れない。大掛かりな手口に関わらず一切の真意は明かされず、実体のない事件に対しみんなが混乱に陥った。陰謀論者が活躍したが、彼らでさえも、お得意の筋書き作りには難儀した。いかなる仮説を仕立てても空いたピースに合致することは一度もなかった。それはどれでもないものだった。
ぼくはそれが好きだった。ぼくはそれらの作品でもないかもしれない一介の文章を、ただ受け入れ、訳もなく惹かれただけだった。受け入れられないでいる人々をぼくは静観していた。作者であるどこかの誰かが恐らくそうしていたように。きみは画面の向こう側でその頃絵を描いていた。きみは画面に何を描こうとしたのか? 光の意味を双肩に担っていたのか? ぼくたち二人とも大きすぎるものを相手取ったために報われない夢に囚われているんだろう。潮時だ、とふと思った。ならば流れに身を任せるだけだ。
イヤホンから耳を外して、インカメラを、部屋の片側がちょうど見渡せるように向ける。そこには本棚と箪笥と片付かない色々な物を積んでいる。誰かが見ているかもしれないと思えば張り合いも湧いてくる。こちらでは誰もが眠っている冷たい時刻に。
ぼくの見る画面はずっと夏の夕方を映している。ずっと。きみが去ってからずっと。
きみが佇む海辺はいつでも夏の夕方だった。
同時に、ぼくが留まるこの場所は永遠に冷たい真冬だった。
「そっちはどう?」
「いい天気。毎日眩しいくらいだよ。街は静かだし、花もきれいだし、本当にいいところ。何より光がきれいだから。さっきオリーブとワインを頂いてきたよ。そっちは? 夕飯はちゃんと食べた?」
「ぼくはまだ、食べてないんだ」
「何かあったの?」
「途中なんだ。もう一段落ついたら食事にしようと思ってる。大丈夫。笑ってくれていいよ。決心がついたんだ。ずいぶん気楽になったんだよ」
「……そっか。それで、どうしたの? そっちはずいぶん殺風景になっちゃったね」
「うん。全部片付けたんだよ。あるもの全部。もぬけの空にした。さっきまで、夜通し音楽を流して、あるもの全部片付けたんだ。手持ちのCDを全部流した。全部。全部一度に聴いた。集めた音楽の全部。
音楽に包まれてると自分の拍動と音楽の拍動の区別がつかなくなっていった。歌っているのか叫んでいるのか自分でも何だか分からない。それでもう安心したんだ。これで終わりでいいんだって。だからもうおれは行かなきゃなんない。行こうって思ったんだ。
大丈夫。もう行くよ。そっちに行く。自分で行く。まともに生きられそうな気がする。行くよ。きみのところに。行く。会いに行く」
書籍『Solarfault, 空は晴れて』販売情報
『Solarfault, 空は晴れて』
2012年〜2016年発表の小説シリーズ「Solarfault」に書き下ろし作品「空は晴れて」を追加した再録総集編。
虚実の隙間に飲み込まれる信用できない語り手の「作家」と、「記述(エクリ)」と呼ばれた恋人が繰り返しすれ違いまた引き合う、作家の「罪」を描いた虚実のあわいの恋愛小説。
書籍情報
2022年11月20日 初版発行
新書判(110×182mm)・192ページ・小口染加工
『Solarfault, 空は晴れて』
目次
「Solarfault」
- solarfault
- 水底の街について
- fragments
- あとがき
「空は晴れて」
- fault
- 空