『Solarfault, 空は晴れて』

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「どう? うまくやってる?」

「全然うまくやれないよ。泣けるぐらいだ」

 ぼくは茶化して肩をすくめる。彼女は微笑んで答えない。

「ねえ、きみは今そっちでなにしてるんだっけ?」

「あいかわらず、絵を描いてるよ。アトリエにしていいっていうアパートを借りて、その人の部屋の壁に掛けるための絵を描いてるの。夕方、休憩に散歩して、あなたに電話をかけるのが日課。夜は友だちの家で軽いパーティーがあったり、映画を見たり、そんな感じ。寝るのは早いよ。起きるのは七時。朝は涼しくてほんとに気持ちがいい」

 彼女は実践している技法について口頭で教えてくれた。描かれたモチーフの意味内容よりも、画面上の色彩が見る人に及ぼす影響を重視するという。「嘘いつわりない光」を目指すと彼女は言った。モチーフの描写ではなく色彩の選択で、網膜がとらえた光を通じた人間の感性の動きをなるべく正確にキャンバスに再現しようとする。結果的にそれはよく抽象画と言われるが、キュビズムのピカソやブラックがものの形を抽出しようとした方法ではなく、彼女の抽象は形なき光を表現するための色彩の組み合わせである。パウル・クレーに似ているとある時口にしたら、それ以上の純粋性に移行するのだと熱弁された。彼女の理念には、色は不透明なペンキのベタ塗りでは配置されず、色への自問自答は彼女の思考実験であり、色の濃度や密度を細かに段階づけるための絵筆の筆跡が重要だった。筆跡が色彩の透明度を左右し、筆跡は作家の作為が絵画にはたらいた痕跡である。色と筆跡で思い出されたのは荒い筆致で戸外の光を描こうとした印象派の作家だが、それを言ったらまた苦い顔をされそうなので無知なぼくに言及できることはこれ以上ないらしい。

 最もふさわしい色彩を選択して、的確な筆致でキャンバスに乗せる。どんなに小さなキャンバスに描いても、制作にはとても神経を使う。毎日くたくたになってしまうので夕方の休息は欠かせない。

 色彩が相対的な概念であり、ある種の錯覚に過ぎないという点に関しては、当然ながらぼくよりも彼女の方が深く理解しているようだった。太陽光と室内の蛍光灯で見る物の色調は異なるし、右目で見る世界と左目で見る世界の色彩がわずかに違っているし、二人の人間が全く同じ色彩を認識することはあり得ない。例えば、緑色と青色の境界線はどこにあるのか。色彩を工業的に測定する方法はあるが、「これを緑色と定義する」ことに個人が納得できるかどうかは別の話だ。それでも、ある日常会話において二人が仲違いしないように、「納得しがたいだろうけど、ここまでは緑色とみなす」とその場で妥協することはあるだろう。

 色彩をはじめとした多くの概念をぼくらは妥協によってやり過ごしている。

 彼女がそれに対しどういった念を抱いているのか、どのような対策を講じているのか、それはここでは測り知れない。

 ぼくが彼女の絵を好きであるか、それは知れない。最近は間近に見せて貰うことはなかった。彼女がこのプロセスを始めたのは渡航先でのことだった。

 彼女の絵を好きになれるだろうか? それも知れない。

 でも彼女のことは好きだった。

 彼女と通話を交わすひとときはいつもさびしかった。彼女は遠い。距離も時間も。

 背景で犬が吠えた。黒く細い犬だった。散歩をしている飼い主と彼女は見知った仲らしい。親しげに、何か挨拶を交わしている。ぼくが聞き取ることのできない言語で。

 濤声がいつも聞こえる。彼女の言葉を遮りながら、割れたノイズとして聞こえる。マイクが拾う風の音、リップノイズ、あらゆる環境音。きみの本質ではないところが拡大される。マイクの集音、データ化、回線で伝達、イヤホンで再生、変換のプロセスを何度も踏んで、ぼくの目に映るきみは本当のきみではない。きみの目に映るぼくもきっとぼくではない。独房の面会時間よりも悪い夢だ。互いの目に映るお互いが本当の自分ではないことに関して、きみはいつもどう思っている?

「もうこんな時間……」

「気にしないで、ぼくには時間なんて在ってないようなものだ」

「それでも、夜は眠るものでしょう?」

 未だに明るい世界にいる彼女の像がぼくの一日に優しく幕を下ろそうとする。

「おやすみ、暖かくしてね」

 会話を終えて、接続を切って、眠気の訪れない眼差しは、写真フォルダのなかに彼女を探す。一枚だけ残ったそれは度重なる手違いを重ね、jpeg72dpiのブロックノイズに埋もれてしまった。通話のなかの些細な機微もきっと互いに届いていない。

 

 通勤定期が残っているので今日も海沿いへ行くことにした。思えばこの頃にはもう腹の内は決まりかけていたのかもしれない。気付かぬうちに傾く心情。工場のことは好いてはいないが、工場の街のことは好きだった。通りはやかましいが図書館が大きくてCD屋と喫茶店も揃っていた。移り住むならここかもしれないと毎日のように考えたこともある。安かろう悪かろうの異国風の怪しい雑貨屋や路上に分布を広げる下品なグラフィティにぼくは博愛的に一瞥を投げつづけた。路地の裏、自販機の陰、ほんのわずかな窪みや庇の陰、あらゆるデッドスペースに増殖し根を張る彼らをそっと観察するのが好きだった。物陰に住む小さな生物を石をひっくり返して探して遊ぶのとさほど変わらない営みに思えた。大通りのゲーセンの角を折れ、明るい活気に満ちた喧噪を離れる。マフラーで口元まで覆い隠し、コートのポケットに入れた財布と携帯を握りしめ、名もない落書きたちを見遣りながら、歩調は静かに路地を行く。

 道に迷うことは避けたい。歩調の足取りを止めたくはない。完全なる迷子に陥るのであれば構わない。排斥したいのは余計な逡巡……帰り道の心配、時間の心配、遠くに行き過ぎることや疲労の心配、金銭の心配、空腹の心配、分かれ道で選ばれなかった方の道に対する心残り。行く宛のない歩行に対し、あらゆる道は迷路と化した。歩行のリズムを継続すること、景色の変化を受け入れること、ただひたすらに思索に没頭したいと願う。回し車を回し車と知らずに走り続ける鼠たちを想像する。でもぼくは移動している。あたかも歩く身体そのものが自分の心臓であるかのように、泳ぎ続けるマグロのように、この歩行が自らの思考の歯車の回転を司っているかのように。

 現れては消える思考の数々を書き留めるのは不可能に近い。ときどきすばらしいアイディアが浮かんだような気がしても、順番を持たないそれらの思考を文章に組み替える術はない。過ぎ去る景色のように現れては消えるのを受け入れるしかないと思い知ったのはつい最近のことだったように思う。持ち帰ることができるのはほんの一握りに過ぎない。文字通り取り留めようがない。数々の思いつきのなかで、持ち帰れなかったもの、忘れてしまった考え事は今どこに消えてしまったのだろうとよく考える。人の記憶は、栞をたくさん挟んだ分厚い本に例えられるらしい。記憶喪失とは栞を失った状態で、思い出す手だてを失っただけで記憶自体が脱落することは無いという。エピソード記憶だけでなく毎日のささいな考え事も、思い出せなくても身体のどこかには染み付いていたりするものだろうか。自分が思い出せないでいるだけで、実は何年もの間、同じ考え事に思い至り続けている可能性もないだろうか。巨大すぎて傾斜を知覚できない巨大な回し車を回してはいないか。

 見覚えはないが方角を知っている道を延々と歩いて、海辺に出た。ぼくが着いたのは運河に囲まれた大きな公立の海浜公園だった。

 広い芝の上には冬場だと言うのにレジャーシートを広げて昼食をとる家族の姿が多い。駐車場の向こうにコンビニを見つけたのでパンとボトル茶を買ってしまった。昼食は屋内でちゃんとしたものを食べたかったが、外で、海を臨む遊歩道の植え込みに座り込んで黙々と食べた。指先がとても冷たかった。胸の内に沸き上がる、不毛さを嘆く感情に、ゆっくりとかぶりを振る。寂寥感を承知の上で今日はここまで来たんだろ? 家で読書でもした方がマシだと分かっていながらここにいるんだ。

 東京湾は青く凪いでいた。真昼の冬空は澄み渡っていた。水平線が濃くはっきりと伸び、貨物船が遠くを渡った。打ち寄せる小波が聞こえ、釣りをする人や犬を散歩させる人がいた。対岸の工業地帯では風力発電機の三枚の翼をもった塔が青空に溶けるようにうっすらと立ち並び、同じ岸辺には観覧車が見えた。風景のなかでぼくは石のように座り込んでじっとして、ときどき立ち上がっては海岸線に沿って歩いたり、日当りの良い場所を見つけてはまた座り込んで無言の思索に耽った。

 一面の青空と海の色のために、見えない青色が昼の光のなかに充満しているように思えた。足下に落ちた影が青色みを帯びていたためにそう思った。色彩は相対的に影響し合う。目を閉じると、青色に替わって暗闇が訪れ、しかし暗闇と思われたそれも長くは続かない。太陽は瞼の肉を透過して、薄緑色、茶色、オレンジ、黄色に映る。それらは不定にゆらめくもやであり、フォルムを持たない色彩だった。何か形を見定めようとすると、見えたはずの輪郭は急に疑わしいものになる。光のむら。瞼の裏に見たものはきっと描画することは叶わないのだとぼくはひとり勘付いた。画家はこの境地について一体どう思っているのだろうか。

 瞼の裏側が薄明るさに慣れた頃、目を開けると、外はますます目に青く映る。瞼の裏側一面に広がった肉色の残像が目に焼き付いてそう見える。オレンジに対する補色関係の青。そうやって視野を青く染める遊びを何度か繰り返しながら、彼女ととうとう行かなかった夏の海についてあてどなく思いを馳せていた。ここは冬の東京湾だった。ぼくは濃灰色の重いコートを着込んで厳重にマフラーを巻いていた。

 さて、持ち帰ることのできる思索もほんの少しだけ見つかった。思いつきの割に鮮烈でセンセーショナルに思えたので気に入って、努めて記憶した草案である。今、冷めた眼差しで検証すると、既に出尽くされたアイディアのなかの一案に過ぎないきらいがあるが、自分で辿り着いたのだから、覚えておくだけの価値はあるように思う。あの、あれら投影について。あれは、都市の上空というデッドスペースを乗っ取った詩人によるただの詩ではなかったのだろうか?

 しばらくぼくはその思いつきを楽しんだ。ぼくにとってそれが一番気楽でいられる解釈だった。やや足取り軽く海辺の公園を歩いていると、旅客機が空を横断した。あれは離陸する便なので、それで空港の方角を確認できた。

 上空に輝く文字。ぼくはその場に居合わせていた。そして釘付けになってしまった。文字が何色の光だったのか、周りの人々がどう反応したのか、そういうディティールを覚えていない。思い出せない。ただぼくはそれを見たのだ。そして徹底的に打ちのめされたも同然だった。写真を撮るという発想も潰えた。ぼくには目撃で十分だった。投影の言葉を言葉として受け入れ、ぼくはすっかり魅せられていた。決定的に意味が瓦解するのを、この目で見て受け入れていた。

 

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『Solarfault, 空は晴れて』
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