『Solarfault, 空は晴れて』

fragments

1 2 3 4

 ぼくの問題は、おおよそいつも「記述について」という点にあった。誰がこれを書いているのか。書かれたものは誰なのか。ぼくにとって、何度文章を我慢しても、それがまったく不明瞭だった。記述? 記述すらも疑わしい。

 今、繰り広げられる行為と心情の透視

 中継映像

 再現映像

 日記、または自伝

 ダイジェスト版

 エッセイ

 分裂したもう一人の自分による自己批判、離人症的、ジキルとハイド

 守護霊、沈黙して寄り添う観察者の目線、手出しはできない傍観者

 自分が主人公

 自分とよく似た主人公

 自分とよく似た主人公による自伝(とする小説)

 それとも全くの作り話

 書く。編集する。記録する。あとで思い出す。そのような操作、入れ子構造の自認、それを宣言するのか、あるいは現在まさに起こっている出来事をテレパシーで伝えているというのだろうか、ぼくはいつこれを書いているのか、ぼくは書き留めているのだろうか。コートのフードを深くかぶって、ポケットに両手を突っ込み、考えている。歩行する足の動きは止めない。海に沿って公園を延々と歩いている。日が傾き、青空の端から白と薄桃色の光に染まる。かなり寒い。ぐるぐるに巻いたマフラーで口元を覆っている。

 

 工場長に暇を貰ったせいで、出勤したその足で工場の近隣をうろついていた。深い赤色のハイヒールを履いて、毅然とした態度で操業停止を宣言した工場長は、おそらくはぼくとさほど変わらぬ年齢で工場長の座に就任したらしい。それが朝礼での出来事だった。あとで応接間に呼び出されたとき、それはぼくだけに言い渡されたのだが、ビロード張りの長椅子に向かい合いながら工場長と二人っきりで宅配ピザを注文した。工場長はぼくにピザの選択を勧めた。「私のおごりだから気にせず食べてくれまいか」困ってしまったが冬季限定発売の蟹の入ったクアトロピザを頼んだ。工場長がモッツァレラチーズのピザとフライドポテトも注文した。平日のうえに食事時でもない変な時刻だからすぐ来るだろうと工場長は語っていた。

「どうしてこういう自体に直面しているか、なんて、尋ねるのも野暮だろう」

 ぼくたち工員は既に作業着一式を返却していたので、ぼくはコートの下に着込んでいた毛玉の多いカーディガンを工場長の目にさらす羽目になった。工場長のほかに側近たちや局長や本社の役員らは同席せず、完全にぼくと工場長の対談だった。会談中にこの部屋を訪ねてきたのはピザの宅配員だけだった。工場長はぼくにポテトとコーラも強く勧めた。

「結果的に急な判断になったことは申し訳ないと思っている。特に本社の一グループでは強い反対があったと聞いている。けれどもこんなことを続けてはいけない。もし、我々に我々の倫理を自問する精神の高潔さがまだ残っているのだと信じるなら、限りある人道を棒に振ってはいけないんだ」

 そう言って苦々しい顔でモッツァレラチーズを頬張っている。ぼくには、もっとふさわしい茶請けの可能性を考えずにはいられない。例えば煎茶にようかんとか、熱いコーヒーにクッキーとか、ましな案の方が世にありふれている。

 工場の離れに建った七階建ての事務所のビルの三階が応接室だった。温かいうちに食べなさいと工場長はしきりに勧める。ポテトとぜいたく蟹マヨネーズを頂いた。応接室のビロードのソファでカウチポテトの気がしてならない。カウチポテトには酷な話題だ。頬張りながら語るので、対話は途切れ途切れになる。

「指摘されるべき点は多々あった。それらについては現場の君がいちばん熟知しているだろう。いくつでも挙げられる。いくらでも、忌むべき点は挙げられる。――本社の方々もはじめから何もかもの構造に無理があったと自覚していたはずだ。――ここに就任した時に、はじめから、私は止めるべきだった。そうだろう? あの投影を野放しにする訳にはいかない。――私は、直に見たんだ。上役には分かっていない。どうして見て見ぬ振りをする? 一連のプロジェクションの、あの夜を見届けた人間のひとりだろう? あのあと、私は赴任したんだ。毅然として臨むつもりだった。だが私はあまりに若い。

 ……申し訳ない。君のことを少しだけ調べさせて貰った。私と君は、ほとんど同い年なんだね。君が工員のなかで一番若いからさ――友人の愚痴を聞くようなもんだと思って――半分聞き流してほしい。――ねえ、私も蟹マヨを貰っていいかな」

 ぼくは生地から振り落とされたタマネギの一片を眺めていた。

「どうぞ……もちろんです」

「ありがとう。君も、もっと食べてくれ。別にビールを開けてもいいんだけど、どうかな?」

 と、席を立ちかけたので、ぼくは少し慌ててしまった。「アルコールは、得意じゃないんです。すみません。水とかで、結構です。何から何まですみません」

「頭を下げないでくれよ。私の方から君を誘ったんだ。それに雇用主として君たち全員を休職させたことを申し訳なく思っているのはこっちの方だ。調査研究がひととおり終わって健全な操業が可能であればまた全員をここに呼び戻すつもりでいる。子会社の別部門に移ってもいい。工場を離れてもらってもいい。その方が良いのだろうと思っているよ。願わくば施設そのものを解体してしまいたいものだ。次の経営は施設支部長のあのひとに一任しようと思っている。彼は私よりもずっと冷静だしキャリアもある。本社は今頃揉めているだろう。社内の対立構造は既に知れ渡っていた。だから私の離反も私たちには既に予見されていたも同然だった。あとは程度の問題だ。本社の反応は私の予想以上に感情的なものだった。手応えさえ感じてるよ。未熟者なりに一撃を食らわせることができたのではないかと思っている」

 ぼくはモッツァレラチーズの方も手を伸ばした。

 あの夜の投影を見た日のことは恐らく工場長よりも鮮烈に記憶に焼き付いている。きみがこの国を去った日だ。飛行機の上からでもきみは投影を見たんだろうか?

「私はしばらく」、コーラとプロシュート。赤いハイヒールの優美な脚を組み、「姿をくらまそうと思う。私を追う者も本社にはいるだろう。姿と名前を変えてとまではいかないが、手を引こうとは決めている。ここに着任する前にやり残したことがあった。今度こそ掛かりっきりになる」

「それは?」

 香り高い紅茶とともに繰り広げられるべき会話なのだ、これは。ピザで手をべとべとにしながら交わしていい話題ではない。

「投影を見た翌々日から、投影の解析に着手している」

「まさか」

「全投影を相手にはできない。東京に限っても、私は新宿投影文書と八重洲投影文書に対象を絞っている。この二点に徹底するつもりだ」

「ほかのエリアは?」

「――そこまで手は及びそうにない。君はなにを見たんだ?」

「羽田投影文書、臨海映像、川崎第一映像の一群……注意深くは見ていませんが、川崎第三映像も見ました。川崎三八も見ましたよ。あのとき――電車で帰る途中だったんです」

「誰もが何かを見上げていた」

「誰もが、盲人でさえ、夢に夜空と文字が浮かんだと訴えます」

「誰もが同じことを言った」

 世界中の誰もが大真面目に議論した。テロリズムの脅威だと時の政府は発表した。ハルマゲドン、ジハード、新たなる黙示録、啓示であると言われた。今世紀に一度の大サイバーテロと呼ばれた。警鐘が鳴り響いた。あるいは手の掛かったコマーシャルか、手の掛かった映画撮影か、訳の分からないアートと思われ、目撃者により深刻さは実のところまちまちであれど、誰もが注目したことは事実だった。その手口はサイバーテロどころかハッキングとさえ呼び難く、物質被害どころかデータでさえも変更や損傷の痕跡は見つからなかった。

「誰も実害を被らなかった」

 混乱状態に陥ったものの実害のなさは一昼夜にして発覚した。交通も何もかも、翌朝には平常通りに運行した。唯一取り乱されたのは繰り返し昨日の映像を放送する報道機関と、同じ映像を話の種にしつづけるぼくらのような人間だけだった。

 国家や民間団体のあらゆる機能をかいくぐり、ある夜突然世界中の都市に意味不明の文字列や図形を投影した大々的な手口と、その犯人の正体は未だ解明されていない。各国各組織は早急にセキュリティの堅牢性を向上させ、現在の対策レベルであれば模倣犯は防げると安全宣言が下された。情報漏洩も改ざんもなく、ただ夜空の雲に出処不明の怪文書等が投影された。それはただそれだけの事件だった。純粋なる愉快犯だったと、映像を見た大多数の人々はそう結論づけて感想のおしゃべりに専念している。ただし映写機を使われた国家機関や民間企業はそう簡単には食い下がれなかった。そもそも存在するのかしないのかも不明な犯人像に対し、頑に執念を燃やしている。犯人がどこかの誰か人であるとして、人として話し合うために、文章に意味を見出して暗号を解明しようとするために、動機と真意を尋ねたいがために、怪文書の解読にかかったのだった。事件があまりに膨大なため、生涯に一、二件の映写しか手に負えないと言われている。よって未だ全貌は明かされない。ライフワークになるだろうと携わるもの全員が自称している。誇らしげに、悲しげに。これを終身刑とみなすのは安直だろうか。

 受刑者がピザ食っている。

 ピザでもいいから、せめてコーラではなく茶が飲みたい。

 若き有能な解読家の左遷と逆襲劇をかいま見た。そしてぼくは仕事をなくした。好いている仕事ではなかったが、収入が無いのはとても困った。なぜなら、生活しなければならないからだ。

 最後の一口までピザにポテトにコーラを飲んで最初で最後の会食は終わった。本当に満腹だった。工場長はぺろりと平らげたようである。

「君のことを少しだけ調べたと言ったけれど」、一息ついて、工場長が語る。ピザを腹一杯食べたぼくに口を挟む権利は無い。

「君のことを調べたんだ。つまり、君の書く文章のことも。……同人誌として出された小説、WEBへの投稿、卒論も読ませてもらった。……君の文体の傾向を調べさせて貰ったんだ。君は、プロジェクションの文体に似ている」

「それは、ぼくが犯人ではと」

「いや違う。そうじゃない。疑ったように聞こえてすまない。私が言いたいのは、君なら、投影の犯人像に近づけるんじゃないかと、犯人の思想に近い思考で犯人を追体験する才能があると、そう考えたんだ。私の知る限り君の文章の傾向は一連のプロジェクションに非常に近い。……私と、手を組んでくれないだろうか? 君なら犯人の心情を察することができるのではないか?」

 差し出されたナプキンで手指を拭い、ぼくは静かに首を振るしかない。

「そういうことでしたら、ぼくには、お力にはなれないようです」

「なぜ?」

「ぼくは投影を目撃しました。目撃したということは確かに憶えているようです。けれども仰るようなことはとてもじゃないけどできません。ぼくは投影を読みました。お読みになったぼくの文章のなかには投影後に書かれたものもいくつかあっただろうと思います。たしかに、ぼくの文章に、投影との類似点があるだろうとは認められます。しかし仰ることは不可能です。ぼくは投影に肩入れしています。ぼくはあの文面に決定的に感化されてしまいました。及びません。及ばないんです。申し訳ありません。もっと優れた文筆家をあたってください」

 工場長にぼくの拒絶は予想できなかったらしい。説得と懇願のやり取りがあったが、ぼくが頷くことはとうとうできなかった。工場長はかぶりを振った。……「いずれ、また話をつけることはできるだろうか?」

「ぼくの気持ちはあまり変わっていないと思います。それ以外のことでしたら、お力になれるかも知れません」

「……構わない。いいよ。無理を言ってしまった。君には何から何まで申し訳ないと思っている」

「いいえ、これもぼくの力不足です」

 工場長はぼくに再会を誓った。「私にはまだもう一仕事ある」そう言って敷地を出るまでぼくを送り届けてくれた。懇ろに別れと礼を述べ合ってぼくと工場長は一別した。そのまま帰る気にもなれず、海浜を散歩して今に至る。

 振り返ると工場の苦々しいシルエットが暮れなずむなかに堅くそびえ立っていた。光景は受け入れるしかない。何もかも呑み込むより他はない。

 あの日、空の便に乱れがあったのか、思い出そうとしたが、全く記憶に浮かんでこなかった。つまり、無かったのかもしれない。確かめる手だてはここにはない。

 食後の長い散歩は正直言って胃がもたれた。そもそもぼくは食べ過ぎたのだ。身体が無理を訴えている。油の味を思い出しながら、工場長がなんとか場を和ませようとして宅配ピザを注文したのではないかと、そんな風に思えてならなくなった。あまりに悲しくならないように、自ら道化を演じてくれていたのかもしれない。

 疲れて帰宅し、読書等ののち、深夜に再び通話があった。

 晴天と青い海。真っ白なリネンのシャツが目に眩しい。

1 2 3 4

シェア・感想を投稿

本作へのご感想をいただけるとたいへん励みになります。

『Solarfault, 空は晴れて』
目次

「Solarfault」

「空は晴れて」

  • fault

PAGE TOP