これは物語ではない

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 久々に昇る崖への坂は、思い出の中よりも急斜で予想よりも僕を疲れさせた。軽く汗ばむ。体力低下が著しい……やっぱり運動部に入るべきだった。遠く、おそらく坂の下から、ウグイスの声がする。他にも色々鳴いている。こんな早朝にも鳥が起きているとは知らなかった。

 坂といっても崖まで一本の道が通じている訳ではない。ここを登りきると踊り場のような坂の突き当たりに出る。そこが住宅街の終わりで、先は林めいた遊歩道に続いている。僕の住む団地は踊り場までの坂の中腹に建っている。この坂を下ると派出所があり、その角を曲がると、例の、公園がある。そう、僕は当事者と言っていい距離に住んでいる。だから一連の事件については人よりも詳しい方だと思う。

 世の中の、ほとんどの怪談は匿名の上で語られる。知人の知人による体験とか遠方での出来事、だから物語としての距離は保たれている。だがこの出来事は僕の眼下で起こる事実である。僕は、というと、まだそれに出会いたくない。これ程までに隣合わせの出来事だと、もはや怪談とは呼べないのではないか。怪談というのは、結局、聴いている自分と怪異は絶対に出会わないように出来ている。怪異自体がいくら凶悪だろうとその手が画面から伸びてくることは無い。

 しかし今、僕は“それ”と地続きに立っている。怪異は僕の徒歩圏で引き起こされている。現実だ。今僕は公園を少し避けている。

 ただ、“それ”と地続きに立っているからこそ、とも、画策しているところはある。あれが自爆霊かポルターガイストかイタズラなのか、それとも別の者かは知らない。しかし、それは確かに存在している。ここに立っている僕はそれが何であるか、解き明かすことは出来なくても、末端を掴むことは許されている。手を伸ばしつま先立ちになればそれは掴める。僕は単純に(恐れていながらも)それを知りたいと願っているだけだった。

 そして僕はたった一枚だけジョーカーを隠し持っている。
 彼女がこの出来事唯一の鍵。

 踊り場に着くとまたウグイスが鳴いた。日の出前に頂上に着きたくて足を速める。そろそろもう空が水色だ。手すりが錆びて赤茶けて溶けていた。汚いな、と思いつつも、僕はこれが少し好きだった。独特の湿気が僕をつつむ。道の脇にマムシに注意の看板が立っていて少し笑った。意外にもたくさんの気配を感じた。足元でガサッと物音がして見るとカナヘビの尾が覗いていたりする。あいかわらずウグイスが聴こえる。よく息が続くものだと思う。他にもたくさん鳴いている。驚くほど。スズメとかカラスとか。いっそ鳥しか聴こえない位だった。そして、頂上にたどり着く。

 簡素な、やはり錆びた柵が立っているだけで、他には何も無い。広場めいてはいるもののせいぜいカードゲームの広さである。柵も膝位の高さだからすぐ乗り越えられる。乗り越えた先にあるのが、コンクリの硬い崖。その下に別の住宅街。落ちたら死ぬか死なないかあいまいな高さである。確実な自殺にはお勧めできない。
 日はまだ昇っていなかった。しかし、もう朝と言っていい位空は明るかった。市北の川まで見渡せた。旧地区に架かる隣町への橋にもう車が渡っているのを見た。ただ静かに僕だけがこの街を観ている。
 なぜ僕はこんな時間に起きているのだろう。今一度考えた。たったひとりここに立っていることがひどく不思議でさみしい。何もしないで僕は崖っぷちにつっ立っている。ただこの眺めを見続けている。身体が溶けて景色と同化していくような錯覚を起こす。ひどくばからしい空想だと分かっている。なのにこの空想のさみしさが僕になじんで心地よい。そして空想が僕になじむこと自体がひどくさみしい。僕の妄想癖については薄々気付いていたけれど、ここまでさびしいとは思っていなかった。

 東の高層ビルディングのすき間を、薄桃色の光がぬっている。光の帯。あたらしい予感を感じ僕はじっと光を見つめる。ちょうどそのスリットの合間から、顔を出した。朱い光。

 朝日。

 早々に見失った。戦意も喪失。
 丁度交番の前に立っている。ずっとホーホケキョの声は聴こえているが、方角は完全に見失った。公園と言えば、で、あの男のことを思い出す。結局事態がどう収拾ついたのか、おれはあまり把握していない。明るみに出なければ何だっていいのだが、矛盾があると後々面倒くさい。そもそも事態がこんなに広がるとは予想だにしなかった。おれもうかつではあったけれど正直いまだに勝手が分からない。
 実は交番まで足を運んだのはこれが最初だった。だからその交番の向かい側に上り坂を発見したのも初めてだった。ゆるやかに蛇行し先が見えず、けっこう長い。暇つぶしには良いかもしれない、と上りはじめた。時間はありあまっている。馬鹿は高い所に上るということばが身にしみる。
 傾斜はまあまあにきつく長さもあった。両脇の樹木が葉を広げ右手には団地が並んでいる。やっぱり鳥がうるさいのは、木々が充実しているからだろう。駅前のビル街とは全然違うなと思う。雨上がりのような匂いがする。嫌いじゃない。
 ひとりで歩くときはいつも物思いに耽ってしまう。昔からの癖だった。歩行の、単純作業のリズムがそういう気にいざなわせる。たんたんと自分の歩調を聴き続ける。メトロノームを思い浮かべる。

 だいたい中腹辺りまで上ったところで、前方から向かってくる人影に気がついた。四十に満たない位の男で、こんな早朝から出勤と思われる。男は眠そうに腕時計を覗いてはあくびした。
 ご苦労様だと軽い気持ちで会釈した。男は全く一瞥もせず、ため息をつき歩調を速めた。要するに気付かれなかった。当然と言えば当然の結果だが、その時感じた冷徹なさみしさにはっと息を呑んだ。相手があいさつ返してくれることに期待していたんじゃない。路上ですれ違ったら会釈するのは全く普通のことなのに、それさえお前には不可能だ、と、改めて思い知らされる。その事実の、氷のような冷たさ。今日に限ったことではないからもう珍しくはないけれど、いつまで経っても慣れそうにない。それでもまだ声が残っているだけしあわせだったのかなあと思う。糸はギリギリの所でつながっている。という訳で多少かなしくも続きを上る。それ以上通行人に会うこともなかった。

 上りきると駐車場めいたコンクリ敷の空き地に出た。下の公園とかわらない広さだが、そこ以上に何もない。道は笹で茂った雑木林に伸び、更に上へと通じていた。足を進める。再びホーホケキョを聴いた。道はずっと日陰で湿っていたが、けして不快にはならなかった。街の裏手にこんな林があったのかと少々感嘆せざるを得ない。道脇の雑草の具合を見るとほとんど人が通らないようだった。久々の土の感触はたのしかった。鳥はあいかわらずさわがしく、背後をカラスの羽音がかすめて驚いた。
 そして頂上へたどり着く。そこは展望台めいた小さな広場だった。

 そこには先客がいた。年格好十六七の少年。セレスタと同い年と見える。まさかこんな朝方こんな場所に人がいるとは思っても見なかった。少年は、当然おれには気付かず、ずっと景色を眺めている。けっこうな高さと展望に驚いた。ずいぶんと上ったものだ。
 景色の向こう側はずっと平地で、川向こうの別の街とか、さらに向こうには山脈までうっすら見えた。空はもう水色だったけど、昼の青空より淡い色だった。
 きれいだ。早起きする価値ある風景だった。素晴らしい隠れ家。少年、センスいいよ、と陰ながら激励を送った。もちろん届かないし、それは構わない。彼がひとりでいるのを邪魔したくはない。

 少年から二三歩離れた辺りに立った。足下にはいささか頼りない柵が立っている。足を掛けて靴紐を結ぶのにちょうど良さそうだった。言い換えれば単に危ない。落ちたら死ぬかなと一瞬考えが過ぎったが、すっ転がって全身骨折が関の山だろう。苦しいのは避けたい。だいたい病院にかかれない身なのだから怪我も病気もおそろしい。

 少年も何だか白い顔で病弱な印象だった。小柄で顔も細面、と、顔を堂々と観察してみる。こういう図々しさが透明人間の利点だと思っている。おれが黙っている限り相手には永久に認識されない。気付かれないと分かっているからやましさも次第に薄れていく。

 東の方が白みはじめる。おれも彼も黙りこくる。同じようなことを思いながら同じ景色を見ている気がする。いや違う、それは、そうだったらいいなあという只のねがい。
 結局おれは諦めきれずにいる。今でも願い、あがいている。まるで叶いそうにない。けれども永遠に捨てきれそうにない。そして永遠というのがいつまで続くのか、まるで予想がつかない。いつまで、なんて永遠に知りたくないとも願っている。永遠の中に閉じ込められている。それは箱というより、四方に迫り立つ巨大な壁。かろうじて天窓が開いている。あれが閉まるときが本当のおしまいなんだと思う。おしまいがそんなにかなしいとは思わない。だって今の方が色々かなしい。

 気付けば、東のビル街の上空、そこだけが特別明るみを帯びていた。きっとその真下に太陽がある。妙に静まった心地でそれを見据えている。耳に聴くのはさっきから鳥ばかりだった。人は少年とおれしかいない……おれを、人と数えていいのかな?

 光は暖色を帯びてふるえている。にわかにビル群の隙間から、光の塊が現れる。
 朱い光。

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