これは物語ではない

daylight

 トンネルを抜けると雪国であった。
 目を覚ますと毒虫になっていた。

 帰宅すると、自分のスーツがコーラを啜っていた。

「おかえり」
「何、やってんですか」

 目の前にいるであろう男は、居間のカウチソファに、僕のスーツ僕のシャツ僕のネクタイ僕のサスペンダーを付け、客人用のグラスで悠々とコーラを飲んでいる。本来ならば卒倒すべきシーンではあるが、悔しいことに正体を知っている為、平然と会話が進んでゆく。自分はきっと何かの毒に麻痺している。

「なぜ僕の服を着ているんですか」

 服は着ているって、貴方言ってませんでしたか。

「洗濯したんだよ。で、あれしか服持ってないから、借りた」

 コーラ片手に僕のスーツは釈明した。同じ服装で向き合うのもなかなか気分が悪い。片や僕、片や服のみ。

「換えが無い時はどうしていたんですか」
「それを聞くかあ? ぜったい喋ったら怒るのに。まあ、なるべく人がいないコインランドリーを使って、何回かに分けたりして、洗ってる間は隅に逃げてた。誰か来るとすげー嫌な気分になる。特にね、たまに一人暮らしっぽい女性が」
「もういいです」
「ほら見ろ怒った」

 僕のスーツは大袈裟に肩をすくめた。一言一句ジェスチャーが大きい。前日までの会話もこの動作で行っていたのか。最も透明人間に向かない人間ではないかと思う。……本当は、透明人間なる存在を僕はまだ信用しきっていない。信用しきっていないのに彼は勝手に上がり込み、冷蔵庫も箪笥も物色して人の衣服を着用している。そのうち財布も漁られそうだ、と考えたが、金銭目的なら財布でも通帳でも持ち出してとっくに逃亡している筈。
 それに一方的に寄生されているとは言えなかった。彼が勝手に食事を作るとき必ず僕達の分も作った。そして僕の料理よりもはるかに品数が多く美味であった。どうにも家事は好きで行っているらしい。ギブアンドテイクは成立していた。
 ザムザは一方的に僕を信用しているのではないかと思う。

「では、今、洗濯中だと」
「そうだね。あー、でももう干してるし、そろそろ取り込む」

 ベランダに洗濯挟みが釣り下げてあった。一見空白の空間だが彼に言わせると「ある」らしい。

「服も透明なんですか」
「そうらしい。ってことはおれは、今、服だけ見えてるの?」
「そうですね」

 納得いったのかいかないのか、腕組みして考えている。
 僕も何か飲もうと冷蔵庫を開けたが、麦茶も炭酸もことごとく空だった。仕方なく水道水を汲んだ。

「ああ、そうそう」と、最後の炭酸を飲み干した男が言う。

「ホウホケキョって何?」

 藪から棒に何を言う。

「法華経……南無妙法蓮華教」
「いや、たぶん違う」
「……ウグイス?」
「ああー、たぶんそれ」

「今朝、聞いたんだよ。公園とかで、すごい鳴き声でさ、朝五時ぐらいで、うるさくて驚いた。名前が分からないから訊いてみたんだけど」

 ウグイスくらい知っているものじゃないかと思ったが口には出さなかった。
 彼はグラスを置いた。視線の先は、衣服を干したバルコニーらしい。日中はよく晴れて暑かった。

「すると博学な方なのか、君は」

とザムザは僕へ呟いた。

「無学とは言いませんけど」

 博学と言うまでには及ばないし、博学という語は響きが悪い。たった今の問答は常識問題の範疇だ。

「じゃあ、今後色々訊くかもしれない」
「自分で調べた方が確実ですよ」
「辞書じゃ駄目なこともあるんだよ。今は常識の方が問題だろう?」

 否定は出来なかった。

「貴方自身、常識の存在とは呼び難いですし」
「……けっこう傷つくなあ」
「すみません」
「でも事実だもんなあ」

 ソファの上に僕のスーツは頭を抱えた。ザムザの葛藤はかなり深いらしいが、彼自身がそれを語ることは無かった。名前すら明かさない彼が身の上を語る筈が無い。
 氷を入れても水道水は生温かった。浄水の筈なのにその味はほのかに鉄臭い。味わわずに一口に飲んだ。

「でも帆来くんも十分非常識だと思うよ」

 むせた。

「貴方に、言われたくないです」
「いやいやいやいやいや。
 だって、何でいっつもスーツなんだよ。どう見てもそれが私服だし、他の服着てるとこ、見たこと無いし」
「……それだけで非常識とは呼べないでしょう」
「それもあるって話だよ」
「他に、何が」
「いや……なんか、渦巻いてるんだよ。君にさ。空気からちょっと違った気がする。少なくとも平均値は外れているって、初対面で分かった。」
「平均値?」
「だからこそ今お邪魔させてもらってる訳だけど」

 彼はカウチソファを立った。その背丈は僕と同じ位だった。そのまま僕の横を素通りして冷蔵庫を開ける、が、

「何にもないじゃん……!」
「誰が空にしたんでしょうね」
「おれだけじゃない」
「単純計算で消費が三倍になりましたからね」

 諦めた彼がカウチに戻った時、玄関のチャイムが鳴った。返事を待たないうちに扉が開かれた。いつもの学生服、セレスタだった。

「セレスタ、おれのアイス食べた?」

 彼女はNOを示した。

「“おれの”ではなかった筈です」
「え、そうなの」

 ザムザの隣に腰掛けた彼女は足を投げ出して遊んでいた。プールサイドで水に戯れるようだった。
 ふと彼女は透明人間を見た。そして彼の衣服だけの肩に寄りかかった。

「なんだよー」

 彼女は頷きノートを取り出した。

『ずっと服着てればいいのに』
「毎日着てるよ? 透けちゃってるけど」
『見えるっていいね』
「セレスタは、いっつも見えるからいいなあ」

 みんなそうだ、とは言えなかった。

『ほらいくんの』
「洗濯したから換えに借りてるんだよ。……鬼のいぬ間に洗濯」
「それ、どういう意味ですか」
「冗談、冗談」
『スーツかっこいい』
「礼は帆来くんに言いなさい」
『ありがとー』

 返答に困った僕に『てれた?』と彼女は笑った。
 かの一件以来セレスタも僕の家に居つきはじめた。一階下の彼女の家には就寝の為くらいにしか帰らず、専らこちらで過ごしていた。依然として彼女もまた何も語らなかった。名前も声も聞いていない。それで特別不自由しているかと言えば、そうではない。語りたくないのであれば語らなければいい、というのが共通の見解だった。それは、それぞれの自衛の意味でもあった。

 ふと彼女はメモ帳に書き連ねる。

『What’s 夕飯?』
「ああそっか……買いに行かなきゃだ。誰か、希望ある?」
「特に」
『あげだしどーふ』
「なにそれ?」
「それは主菜になりませんよ」
『あげどうふ+めんつゆ+ねぎ とか』
「いいね、爽やかだ。で、メインは?」
「魚は」
「赤身? 白身?」
「白身で」
「たら?」
『◎』

 簡単に献立が決定される。合意する。まるで親密な関係みたいだと錯覚する。互いの名前すら知らないのに。

「行きましょうか」

 僕は席を立った。セレスタも手ぶらで立ち上がる。ザムザのみ慌て、ベランダの服を取り込む。

「ちょっと待って着替える!」
「必ず畳んで下さい」
「分かってるよ……ああ、着替えるから、向こう行ってて」
『見えないのに』
「見えないのに」
「気分的にヤなんだよ」

 奥の部屋に入った男は数分のうちに「おまたせ」と声だけの存在に戻った。

 セレスタが頷き先頭に立った。僕には彼らが兄妹めいてみえた。彼らはちょうど対のような存在だった。

 玄関を出て、鍵をかけ、エレベーターではなく非常階段を使う。こちらの方が誰にもすれ違わずに済む。
 湿気を孕んだ南風に包まれる。水の匂いがする。彼女が、行こう、と言わんばかりに、僕の手を取る。もう片手には彼を掴んでいるのかも知れない。

「雨みたいな匂いがする」

 ザムザが呟く。セレスタはふと、空を見上げる。雲一つないし、明日もきっと晴れる。明日は月曜日。
 それは水の匂い、とは答えなかった。みなもは風に揺れていた。

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