2020.05.06発行の『Cipher』改定第五版は、消費税増税と洋紙の価格上昇にともない頒布価格を改定しました。
納得して作品をお求めいただけるよう、冒頭から40,979字/79,200字のテキストを次のページに掲載します。
ボロボロのコートを纏った物乞いが横町に座り込んでいる。襟を立てて顔を埋める彼は通りを歩くぼくをじっと見上げ、ぼくもまたその男に一瞥を返し、髭面ではあるがぼくとさほど変わらぬ齢であることを知る。この男は何日間こうして過ごしてきたのか考える。身なりからするにだいぶ長いのだろう、よく持ち堪えた方だと驚く。通り過ぎたぼくはその男を振り返り見る。彼はもうぼくを見ていない。ぼくからの施しは端から期待していないらしい。
向こうから灰色の三つ揃いにハットを合わせた老年の男が歩いて来る。胸に懐中時計の銀色のチェーン、手にステッキ。整えられた灰色の優美な髭。前方の物乞いを一瞥するが、与えるものは何もない。
物乞いが立ちあがる。ゆらりと。懐に隠した銃を老人に向ける。驚きに目を見開き、老人は立ち止まる。
鋭い発砲音。
ハハハ! と男の笑い声が響いた。それは老人のものだった。物乞いは手を上げ、ニヤリとした様子で得物をちらつかせる。銃口から飛び出したのは鉛玉ではなく赤い花で、風にそよぐその一輪を銃口からそっとつまんで引き抜いた。物乞いがパチンと指を鳴らすと、赤い花は白色に色を変え、頭の上で花を一振りすればそれはステッキに早変わりし、それを回せば白いハンカチになる。ハンカチをくしゃくしゃに握り込んで勢いよく手を放すと、何羽もの白い鳩たちが狭い横町の空へ飛び立った。
物乞いは恭しく一礼する。老人は機嫌よく大笑いして手を叩く。ハットを脱ぎ二言三言語ると、若者を連れだって通りの向こうへ去っていった。またひとつ契約が成立した。物乞いだった若者は背筋を伸ばし悠々と歩く。近い未来にステージに立つ凄腕のマジシャンが髭を剃った彼であるとぼくは見抜けないだろう。お別れだ。いつか同じ店で働くかもしれない、ぼくより少し年長者であろうその男の背中を見た。その姿は勝者のそれだった。
こういった路上の契約の存在は知っていたが、目撃したのは初めてだった。路上の屋根無しから大スターへ、立場の一八〇度転換。しかしあのマジシャンの成功は決して運によるものではない。彼は恐らく長い間あの場に居座り成功を待ち構えていた。いつか現れる審査員を確信を持って日々待ち続け、ぼくの目の前で筋書き通りに成功をおさめただけに違いない。そうでもなければこの街で物乞いで食える筈がない。すべては実力による当然の報いだった。
出来ることがひとつあればそれでいい。ひとつでもあればそれでいい。住処も食事も娯楽の金も何だってそれで賄える。定まった自分の役割があればいい。それは街を動かす大仕事の市長も、客を楽しませる歌手でも、街の掃除婦も、要人のお抱え暗殺者にも同等に言えることだ。
建物と建物の間に自分の役割を据えること。空間を埋める積み木のパズルのように、うまく自分のピースを積み木の中に紛れ込ませて生き延びること。自分ひとり分の隙間を街の中から探し出す、あるいは自分を隙間の形に組み替えること。
役割のない人間はこの街から殺される。物乞いを助けるものはこの街には存在しない。だからあのマジシャンは生き延びた。一方で能力のない物乞いはどこかへ消えた。誰も何も与えなかった。
ぼくはここに暮らしている。ぼくは場末の小さなバーで毎夜ピアノを弾く役割を担っている。