Cipher

2020.05.06発行の『Cipher』改定第五版は、消費税増税と洋紙の価格上昇にともない頒布価格を改定しました。
納得して作品をお求めいただけるよう、冒頭から40,979字/79,200字のテキストを次のページに掲載します。


[ Cipher ]

 ボロボロのコートを纏った物乞いが横町に座り込んでいる。襟を立てて顔を埋める彼は通りを歩くぼくをじっと見上げ、ぼくもまたその男に一瞥を返し、髭面ではあるがぼくとさほど変わらぬ齢であることを知る。この男は何日間こうして過ごしてきたのか考える。身なりからするにだいぶ長いのだろう、よく持ち堪えた方だと驚く。通り過ぎたぼくはその男を振り返り見る。彼はもうぼくを見ていない。ぼくからの施しは端から期待していないらしい。

 向こうから灰色の三つ揃いにハットを合わせた老年の男が歩いて来る。胸に懐中時計の銀色のチェーン、手にステッキ。整えられた灰色の優美な髭。前方の物乞いを一瞥するが、与えるものは何もない。

 物乞いが立ちあがる。ゆらりと。懐に隠した銃を老人に向ける。驚きに目を見開き、老人は立ち止まる。

 鋭い発砲音。

 ハハハ! と男の笑い声が響いた。それは老人のものだった。物乞いは手を上げ、ニヤリとした様子で得物をちらつかせる。銃口から飛び出したのは鉛玉ではなく赤い花で、風にそよぐその一輪を銃口からそっとつまんで引き抜いた。物乞いがパチンと指を鳴らすと、赤い花は白色に色を変え、頭の上で花を一振りすればそれはステッキに早変わりし、それを回せば白いハンカチになる。ハンカチをくしゃくしゃに握り込んで勢いよく手を放すと、何羽もの白い鳩たちが狭い横町の空へ飛び立った。

 物乞いは恭しく一礼する。老人は機嫌よく大笑いして手を叩く。ハットを脱ぎ二言三言語ると、若者を連れだって通りの向こうへ去っていった。またひとつ契約が成立した。物乞いだった若者は背筋を伸ばし悠々と歩く。近い未来にステージに立つ凄腕のマジシャンが髭を剃った彼であるとぼくは見抜けないだろう。お別れだ。いつか同じ店で働くかもしれない、ぼくより少し年長者であろうその男の背中を見た。その姿は勝者のそれだった。

 こういった路上の契約の存在は知っていたが、目撃したのは初めてだった。路上の屋根無しから大スターへ、立場の一八〇度転換。しかしあのマジシャンの成功は決して運によるものではない。彼は恐らく長い間あの場に居座り成功を待ち構えていた。いつか現れる審査員を確信を持って日々待ち続け、ぼくの目の前で筋書き通りに成功をおさめただけに違いない。そうでもなければこの街で物乞いで食える筈がない。すべては実力による当然の報いだった。

 出来ることがひとつあればそれでいい。ひとつでもあればそれでいい。住処も食事も娯楽の金も何だってそれで賄える。定まった自分の役割があればいい。それは街を動かす大仕事の市長も、客を楽しませる歌手でも、街の掃除婦も、要人のお抱え暗殺者にも同等に言えることだ。

 建物と建物の間に自分の役割を据えること。空間を埋める積み木のパズルのように、うまく自分のピースを積み木の中に紛れ込ませて生き延びること。自分ひとり分の隙間を街の中から探し出す、あるいは自分を隙間の形に組み替えること。

 役割のない人間はこの街から殺される。物乞いを助けるものはこの街には存在しない。だからあのマジシャンは生き延びた。一方で能力のない物乞いはどこかへ消えた。誰も何も与えなかった。

 ぼくはここに暮らしている。ぼくは場末の小さなバーで毎夜ピアノを弾く役割を担っている。

 

 街の隙間を掻い潜り、途中の青果店でレモンを買っていく。うらぶれた通りにあるこじんまりした露店で、鮮やかなイエローが不思議に輝いて見えた。目の前にいる、指の節々に黒い油が染み着いたようなこの老人、露店の庇の下でちゃちな折り畳み椅子に座り込んでいる干涸からびた影のようなこの人物がいったいどうやってここに並んだ色とりどりの果実を仕入れてくるのだろう、男がいつからここに店を構えているのかも定かではない。

 色鮮やかなものは街にはない。真昼の空は白んで薄曇り、街は埃っぽく色褪せている。色鮮やかなものは広告や看板やパレードや演劇、着飾った人々の服や化粧だ。ぼくはレモンに思い入れはない。ただ裏通りでは思い掛けない色鮮やかさに立ち止まってしまった。

 にわかに表通りの喧噪が高まる。街を貫く大通りは劇場が建ち並び人出で賑わい、街の大動脈といっても過言ではない。お客たちでごった返しているその通りから、オルゴールの音が、聴こえてくる。定時を知らせる巨大なからくり時計は劇場の正面に象徴的に掲げられていて街を見下ろし、その古きぜんまい仕掛けの音楽とともに人形たちが劇を演じる。

「あんた、外から来た客か」店主が尋ねる。ぼくは茫然と店の前に立っていた。客ならこんな所から離れろ、表へ帰れ、ここにお前を満たすものはない、と言わんばかりの物言いだった。

「お客のように見えたんですか?」ぼくもなかなか垢抜けないものだ。「これでもけっこう強かに上手くやれてると思ってたんですが」

「いつからここにいる」

「はじめからです。気付いたら」

 眉間に刻まれた、油とアルコールが染み着いた皺。

「劇場の人間か」

「いや」、「酒場の音楽屋だよ」

 オルゴールの荘厳な音色と人形の役者の一挙一動に喝采が上がる。でもまだまだこれは余興に過ぎない。お客たちはこの夜に開かれる劇のためにここに来る。街では毎夜かならずどこかで演劇が繰り広げられる。

 娯楽の街。そういうことだ。街そのものが娯楽を提供する機構で、街は舞台装置そのもので、ぼくらは裏方に相当した。ぼくは表に立つ役者ではない。裏方たち、街の人間のための店にぼくは勤めている。客を楽しませる者を楽しませるという役割。それはこの八百屋も同じ。

「まあ、ありがとう。きれいなレモンだね。表に売ってる品みたいだ」

 彼はもうぼくへの関心を失ったようで、顔も上げず品の整理を始めていた。でも「表よりも品は良い」と小さく呟いたのが聴こえ、なぜだかそれで奇妙に晴れやかな気分になり、また来るよとぼくは言った。表通りを経由せず、細道を伝って店に着く。真っ昼間の店ではバーマンのJとウェイトレスのPが気だるげに掃除をしている所だった。ぼくは適当なまかないの昼食をカウンターに掛けて食べた。

 四十を越した頃合いのJが殆どこの店のマスターに等しい。本物の店主に任されて今は店を切り盛りしている。なかなか無愛想な人物で、気の利いた会話で客を立てるようなパフォーマンスは行わない。Pははたちにも満たない若い女の子で、つい最近やって来た。ここで働きながら小劇場で役者をやっていて、いつか大女優になることを夢見ている。大きな黒い瞳に引きつけられるが、そのほかには特別色気のない平々凡々な女の子に思える。ほかにMというウェイトレスがいて、MはJ以上に愛想のない氷のような女の子で、まあそのふたりの看板娘がこの店を回している。ほかに雇ったり雇わなかったり、厨房係もいるものの、名前を挙げる必要があるのは彼らぐらいではないかと思う。

 昼食を済ませたらミュージックボックスの点検にあたる。ピアノマンがいる店にもミュージックボックスは必要で、箱に入っていないレパートリーを人力で賄っていると言ってもよかった。

 カウンターに置いていたレモンにPが目を付けたようだった。「X、レモンちょうだい?」

「いくら払う?」

「ギブアンドテイクでしょ?」丸椅子に座ったPが大仰な身振りで脚を組み直す。「X、最近さびしいんじゃない?」

「きみとデート一回って? やだよ、勘弁してくれ」

 Pは愛想の振りまき方を間違えている。妙なことになる前に、レモン半分を切って、それぞれグラスのソーダに搾って飲んだ。

 ミュージックボックスが終わったら今度はピアノの点検に当たる。ぼくは店内の音楽の全部の面倒を見なければならない。しばらく調律師を呼んでいないのが気に掛かっている。毎日聴こえない程少しずつ調子を狂わせていくこの機械。これを弾くピアノ係はこの店にはぼくしかいない。天板を布できれいに磨く。夜の水溜まりのように黒くつやめいているのが好きだ。一人のピアノ弾きとして、この機械には愛情を寄せていた。

 椅子に浅く腰掛けて鍵盤に指を添える。定位置。指も身体もなにもかも。ややこしい凹凸を備えたパズルのようなこの身体が、白黒の凹凸に組み合わさる。この場所にぴったりと収まっている。店の奥、グランドピアノは一段高いステージにあり、客席からは少しだけ隔てられている。音楽のために設けられた空間に、ぼくの身体を滑り込ませる。

 カウンターのJに声を掛ける。

「ときどき、ソーダをさ、そこのレモン搾ってこっちにくれないか」

 ピアノ弾きのわがままをバーマンは受け入れる。

 さて、何を弾こうか。考えているうちに、気付けば演奏が始まっていた。指が回る、ペダルを踏む。楽譜を知っている。ぼくの手業は半分ぼくのものではない。ぼくではない何かが表出してぼくに弾かせている気がしてならない。だって、ぼくが全身全霊で演奏に没頭しているとしたら、こんなにくどくどととりとめないことを考えながら弾ける訳がないのだ。

 そうしてぼちぼち、人が入ってくる時間になる。Mもフロアに現れる。劇場じゃあるまいし開店時間なんて決めていない。客が集まることと店が開くことはどちらがどちらの理由であるでもなく、毎日なしくずしに始まりを迎えた。でもあとから聞いた話だが、おおよその客が、ぼくのピアノが聴こえるのを合図にしていたそうだった。

 日暮れ頃から客足が増え、店は喧噪に包まれる。ガチャガチャと食器がぶつかり合い、客の笑い声、トマトソースでべちゃべちゃな軽食、MとPは大忙しだがPはスマイルを絶やさない。

 ぼくはピアノを弾いている。同時に店内を眺めている。どちらかがおろそかな訳でもなく、行為は完全に並立している。ピアノを弾かせるぼくの手は立ち止まらない。でもぼくは演奏を続けながら、ひどく冷静に店内を見回せる。自分の音色を確かめながら雑音に耳を傾けることが出来る。ぼくはミュージックボックスに伴奏を与えたり、時に自分で歌えたりもする。リクエストがあればすぐに応じる。楽しげなのを弾いてくれよ! 喧噪の中から要望を聞き分けて、ぼくはちょっと微笑んで見せ、今奏でている旋律から軽快に次の曲へ音符を繋げられる。お客は喜ぶ。拍手と賞賛。時々心付けも貰う。この店は裏通りの中でも品の良い方で、なじみの客は皆良い奴だと思う。品の悪い話は止めよう。Mは、一度そっちで働いていたらしい。あの界隈はぼくだって足を踏み入れようとは思わない。

 ミュージックボックスが盛り上がればぼくは演奏を休む。喉の渇きを感じていたので、カウンターでレモン水を貰ってくる。その繰り返し。そうやって夜が更ける。演奏に没入する自らを自覚する。演奏の喜びに興奮を隠せないぼくがいる。でも頭のどこかでは、ぼくは身を引いて熱気の現場を眺めている。いつもどこかは冷静なのだ。やはり、自分が弾いていないみたいだった。例えばぼくはミュージックボックスの外枠に過ぎず、なかで音楽を奏でている機械が別に存在するのではないか。ぼくと演奏者のぼくは別人なのではないだろうか。悲観的な思考ではない。ただ、こういったことをくどくど考えながらも満足に演奏をこなせるので、やはり仮説は正しいのではないかと常々思い至っていたのだ。ぼくはピアノを弾かされながら、ピアノを弾くぼくを観察していた。ピアノを弾くぼくが座るこの場所を観察していた。店内、もう遅い時刻、ひとりの男が来店した。コートがうっすら濡れていた。

「やだあ、雨降ってるんですか?」

 Pが尋ねるのが聞こえた。

「霧雨だよ」

 返事をする男の声が小声の割によく聞こえたので、そこではじめて、おや、と思った。それが0だった。彼はピアノの傍に席を取った。Pと少し会話を交わす。

「待ち合わせですか?」「いや、ひとり」……「教えて貰ったんだ。悪くない店だってさ」そして呟くのが聞こえた。「本当に悪くない」

 ミュージックボックスが盛り上がってきたので、ぼくは手を止めて水を貰いに席を立つ。いま劇場でやっている演目のメインテーマが流れる。やたら荘厳なラブバラードである。悲恋の物語らしい。

「なあ」

 カウンターへ向かおうとしたその時、その男がぼくを引き留める。手を出して押し留めるとか、そういった動作は伴わない。声を張り上げた訳でもない。でもぼくに対して発せられたことは疑いない。

「どこ行くの?」

「水をもらいに」

 彼がウェイトレスを呼んで、現れたMに「水2杯」と告げた。彼は彼で自分が飲んでいたモヒートをもう1杯注文した。それをぼくにも勧めたのだが、ぼくは酒が飲めないので遠慮した。Mはグラス2杯にミネラルウォーターを瓶で持ってきた。その男は水を注いで、向かいの席に座るようぼくに促した。年頃はぼくと変わらぬ位だろうか。

「ピアノ弾いてるのはあんただけか」

「あいにくね」とぼくは答え、はじめて男の外貌に注意が向いた。観察の余地が生まれたからではない。否応なく惹きつけられた。やたらと異様なほどに美しい目鼻立ちをしていたからだ。

「ピアノが良いって聞いてきた。おかしいぐらい上手い奴がいるって」

 そして彼に惹きつけられる原因は美貌ではないことにはっきりと気が付く。彼は目の前に座るぼくを見据える。その目がどうにも刃物を思わせ、人を殺せそうな程に鋭い。店内の薄暗い光を一点に集めギラギラと反射している。目線が突き刺さるのがわかる。刃物を宛てがわれているも同然だ。

「この店、あんただけで回しているのか」

 とんでもない重圧だった。「回しているのはマスターですよ」

 男の顔がニヤリと歪む。悪意なく笑ったのかも知れないが、美貌に反して目つきだけが不釣り合いに恐ろしく、その目に惹きつけられるうちに笑顔にさえも恐怖心を抱く。

「ずいぶんご謙遜なさる」

「そう買い被らないでください」

「本当にそうお思いなのか?」

 目線をテーブルに落としても、彼の両眼から逃れられそうにない。青灰色の虹彩が輝いている。難癖付けられているに等しい。

「ぼくは一人のピアノ弾き。雇われてピアノを弾いているだけです」

「つまり自分は音響装置、と?」

「そう、主役はぼくじゃない」そう言って黙り込もうとしたが、まだ問いただされている気がする。「アルコールかな」と付け加えた。

「なるほどね」彼は目を細める。「するときみはどういう気持ちでピアノを演奏しているんだろう?」

「たのしいですよ」少し考え、「最近は思うところが色々とありますが」

「それは今度聞かせて貰えるのか?」

「実際に今、お聴かせしますよ」

 グラスをテーブルに残して、席を立ち一礼。「ご希望はありますか?」

「何でも?」

「装置ですから」

「じゃ、悲恋の劇の主題歌以外で頼む」

「かしこまりました」

 ステージに戻り、定位置に指を添える。同時に意識もそこに据える。装置。それが悪いこととは思わない。

 ぼくの内の演奏家が鍵盤に没頭する。客の幾人かがそっと目をつむるのが分かる。男はあらぬ方を見つめながら耳を澄ませているらしかった。もう、ずいぶん遅い頃だろう。ぼくの判断に十指はしずかに従う。落ち着いた、甘い旋律。眠りについてしまうような曲。ぼくは別に自分の演奏で人が寝てもいいと思っている。ぼくは誰も聴いていなかったとしてもピアノを弾けるのかもしれない。それも好い。ぼくは、本当にぼくが弾いているかはさておき、自分の演奏は好きだった。

 立て続けに2、3曲を弾いて、最後の1曲はハミングした。もうとっくに深夜だった。弾いた音が、余韻の震えが、静けさを取り戻した店内に伸びて消える。

 また来るよと彼は言った。「あんた、名前は?」

「X」

「X、おれは、0」

「0?」

「劇場の役者だよ」

 そう言って弾みすぎなチップを握らせた。彼はひとりそっと店を去った。

 潰れた客を起こして回るPが、怖くなかった? とぼくに尋ねる。ぼくは残り物を夜食に食っていた。そりゃあ怖かったと正直に話した。「それだけ?」とPは言う。「もっと他に言うことあるでしょ?」

「おそろしく奇麗な顔してたね、顔も体格もやたら奇麗だった。そんで目が怖い」

 そんなの知ってる、とPは苛立たしげに「他には?」と言う。

「役者だってさ」

「ねえ、レモンのこと根に持ってる?」

「ちがうよ。ふざけてる訳じゃない」

 大げさにため息をついてみせるP。「あたし、あなたのことも相当ただ者じゃないって思ってる」

「ちがうんだよ、P」食器の片付けを厨房に任せて、ピアノを閉め、コートを羽織り外を伺う。外は霧雨に濡れている。

「ぼくはただピアノを弾いてるだけなんだ」

 おやすみP。深夜の街を歩いて帰った。街灯は水溜まりに反射して、街は黒く輝いている。ピアノみたいな色の夜だった。

 翌日、Pの呆れの理由を知った。たまたま表通りを歩いていて、劇場の前を通り掛かった。この街に劇場は大小合わせると数え切れないほど点在し、歌劇に古典に大衆娯楽にフリークショーまで演目はあまたに渡るが、なかでも最も古く巨大で威厳をもつ、街の顔と言うべき劇場があった。お抱えの劇団、お抱えの脚本家、お抱えの美術家、技師、音楽家を持ち、街の頂点に君臨するその劇場に名前はない。街を代表する存在が固有の名を冠する必要はない。ただ劇場と呼べば通じた。あの、オルゴールのある劇場である。

 午前なので人もまばらで、ぼくは用もなく劇場に入った。エントランスまでなら誰でも入れる。チケット売場、クローク、売店がある。エントランスだけでも劇場の巨大な構造は見応えがあった。街の中央にそびえる城といったところで、市議会よりも立派な造りである。こんな街にも政治はある。しかし劇団の座長といえば、市長以上の権力を有するとも噂に聞いたことがある。

 歩き回れる範囲をひととおり眺め、売店に立ち寄った。劇場見学者なんて街の外の人間ばかりで、表通りに並ぶ店はそういう外の客を相手にしているので、どこも揃って愛想が良い。店内も品物も明るく小奇麗だ。記念品の菓子や装飾品に並んで、役者の目録があったので、ぱらぱらと立ち読みした。女優は、言うまでもなく誰もが美しい。高嶺の花、造形の奇跡。誰もがそれぞれに意味ありげな微笑を湛えている。目録は劇団公認の月刊誌で、男女別、注目人気順に番付されている。1位と10位と30位の美貌の違いが分からない。そこは外貌の差ではなく演技力による判断だろうか。

 女優写真集ほど本腰入れずに手に取った男性版番付に昨日の男の名があった。劇団。Pの態度と、そういえば彼が所属を名乗らなかったことに合点がいった。ぼくは泰然とした男ではない。驚くときは驚くし、たいがい他人より話題に疎いだけだ。劇団所属というだけで、それだけで、目録の順位に上がらずとも相当の実力者である。驚くなかれ、彼は月間番付で、劇団第2位の座を獲得していた。劇場2位とは街にあまねく俳優たちの上から2番目、若年の大天才に他ならない。

 写真の彼は暗がりに黒い衣装でじっと見る者を見つめ返す。目は昨晩目撃したとおりギラギラと異彩を放ち、写真に閉じ込められてもなお遜色ない。暗色の毛髪は暗がりに(ほど)け、いっそ瞳だけが闇に浮かび上がるように思わせる。写真の明暗のなかからまず始めに両目が現れて、瞼や眉を手がかりに顔の存在を思い出し、それがいやに整っていることをはじめて自覚するという具合だった。顔から首、手、胴、足の爪先へ、中心から周縁へと視点が拡散し、全身像を頭のなかで結ぶ。その頃にはもう写真を舐めるように見つめている。身体の周縁は黒い衣装で闇に溶け、目を凝らしても輪郭は見えそうにない。そして彼を見つめるぼくらのことを写真の彼が冷たく見据える。その目は見間違えようもなく鋭い。

「お気に召しましたか?」

 隣に大柄な男が立っていた。

「大判ポスターもございます。しかし直に観て頂くのが一番。いかがですかな、3階席なら本日のチケットもご用意がありますよ」

 黒の外套に黒い帽子、黒い鳥の仮面をまとった得体の知れない人物がぼくに触れんばかりの傍らに立っていた。

「芸達者な男でしてね。何でも出来る。何にでも変化する。芝居の霊が彼の身体に宿り彼を介して現前するように。演劇が秘めるタマシイが彼の口をついて溢れ流れる。愛された男だ。それでいて素顔にも魅力を湛えている。見ましたでしょう、彼の眼。その真価は舞台上で発揮されます。最後列からでもきっと銀の輝きをご覧いただけましょう。どうです」

 と男が肩を叩きかけたので身を引き、

「お客じゃないんです。失礼、似た顔を見たもので」

 と図録を閉じて棚に戻す。

「この男に似た者などおりませんよ」

 奇抜な仮面の出で立ちだというのに売り子は気にしていない様子だった。

 その足元を見るとかなり踵の高い靴を履いていることに気付く。大柄な男とばかり思っていたが、外貌をごまかしているのか? しかし全身黒の格好からもとの身長を推察することは難しい。重厚な見た目の仮面の割に、声は曇りなく聞こえる。

「あなたのことは存じ上げております、ピアニスト様」一礼し、「それでは。今度は是非とも芝居を観てください。世界一の劇場で世界一の芝居をご覧に入れましょう」

 と、高らかに靴音を鳴らして鳥の仮面の男は大階段を昇り扉の向こうに見えなくなった。

 そそくさと劇場を出ると通りは賑いに満ちている。

 大道芸人が火の輪を宙に投げ空中で組み合わせる。拍手喝采が湧き起こる。ある者は路傍に即興で絵を描いてみせる。またある者は歌い踊る。極彩色の道化師が太鼓を鳴らしながら風船を配ってまわる。赤鼻の代わりに黄色いクチバシを付けて。上げ底の靴でとても背が高い。通りの誰もを見下ろせる。頭上からその道化の手が伸び、ぼくにピンクの風船を促す。客じゃあるまいし、ぼくには無用の長物だが、三日月形に笑う道化の目が数歩歩いても着いてきて離れない。諦めて風船を受け取ると、道化師は肩をすくめ、眉を落とし、『困っちゃうよね』のポーズ。風船の紐には劇場の催しのご案内が吊るされていた。その小さなチラシにもやはり暗闇から覗く銀色の眼が浮かび上がる。

 昼間は毎日どこかで必ずパレードが繰り広げられる。劇団主催だったり、どこかの商店が取り仕切っていたり、パレードだけで暮らしを立てる者もいるらしい。壁面にはコンサートや演劇のポスターが隙間を埋め合い、重ねた紙で壁を塗りつぶすかのようにポスターの地層は厚みを獲得している。色鮮やかな印刷、看板に広告。『観劇のためのドレスはいかが?』『特別な一着』『日々を忘れて愉しいひとときを』印刷屋の下請けらしい男が新しいポスターを壁に貼る。『ようこそ、ここは魔法の街』古いのがぐしゃぐしゃになって吹き溜まりに転がっている。誰かのゴミ。破れた半券。ショーウィンドウに紅色のタイトなドレス。宙に飛んでいってしまう誰かの風船。喧騒。客は皆羽振りが良い。ピンクの風船を持たされてまるで客のような面持ちのぼく。

 ぼくの仕事は真昼の華やかなパレードを彩ることではなく、今パレードをしている人々、さっきの鳥鼻のチラシ配りやダンサー達や、その化粧師、チラシの印刷屋、昨日の役者、そういう街のために生きる人のために夜に開く、裏道の小さなバーで、酒のつまみになるようなささやかなピアノを弾くほうだ。ぼくはきっと生きた音響装置だった。名声には縁も関心もない。ぼくは番付に乗らないし、乗ることもないし乗る気もしない。好いて貰う分には、褒められる分には嬉しいが、それだけだった。過大評価は必要ない。ある種の人が無欲と呼ぶ生き方でぼくは上手くやってきていた。それ以上のことは望まない。

 鳥頭、知っている。劇団の座長は代々決して他人に姿を明かさないと聞く。もし仮面を外して他の衣装でうちの店に来ていたとしたら、お手上げだ、誰にも分からない。ぼくの存在が知られていたことも筋が通る。

 ぼくはただピアノに弾かれているだけだろう。きっと自分で弾いていない。音響装置は芸術家(ピアニスト)ではないのだ。

 風船を持て余し、パレードを冷やかしながら歩いていた。極彩の群衆の中で舞台衣装でもないのに薄暗い服を着ているぼくはひどく場違いであった。

 子供が、走り回る。黄色や水色の華やかな服を着て。父親らしい人物が、離れたところで煙草を吸っている。たくさんの紙袋。母親は見当たらない。買い物に夢中なのだろう。通りを歩く杖をついた老夫婦。尊大な夫の後ろについて歩く妻。男の2人組。女の2人組。家族。ひとり。なんだってあり得る。連日の大盛況。レストランから溢れ出る客。

 隣に女の子がいた。ひとりで。真っ黒いワンピースを着て。走る子供たちを見つめている。気付いたのは、ぼくの裾をちょっと引っ張ったからだ。

「あなたがしにがみなの?」

 ちがうよとぼくは言った。ぼくは風船をその子に持たせた。

「わたし死んじゃうの?」

 みんな死ぬって聞いてるよ。

「ひとりで死ぬの?」

 それはどうだろう。

「わたしを連れてってくれる?」

「出来ないよ。仕事があるから」

 風船が高く飛んでいった。

 なんだってありえた。

 適当な路地から居住区に入り、市場に向かって歩いた。大通りに程近いこのあたりなら治安も良い。楽しい街にだってしかるべき所には暴力と抗争と貧困があるし、それらを含めてこの街は回っている。互いを軸にして回り合う欲望と快楽の渦に自分の役割を確保できれば、どのようにも生きられる。

 市場は客向けではなく街の永住者のために開かれ、露店も屋台も飾り気なくそして安い。

 なじみの店で軽食を取った。

「X、どうした。やつれてんのか?」

「いやだな、こんな街」

「泣きごと漏らすとカラスが聞いてるぞ」

「なにそれ」

 鳥頭?

「おれの田舎の口癖だよ」

 噂話は鳥が聞いていて、しかるべき所に告げ口するらしい。カラスは悪行しか話さないのだという。

「劇団の公演を見たことはある?」

「あるわけない。おれらが行くわけねえだろう」

「劇場に知り合いは?」

「劇場の控室の掃除やってる奴らならいるよ。売店の売り子や古い衣装の管理係や。どっかの小劇場の役者ならうちにも飯食いに来る。劇場の役者? うちに来るわけねえだろ。劇団専属の食堂があるって噂だ。街の地下道で繋がってんだとよ」

「噂するとカラスが来るんじゃないの?」

「とっくに知られたことさ。あんた役者でも目指すのかい」

「んな訳ないだろ」

 影みたいな人たちがめいめいに飯をかっ込む。表通りとは似ても似つかない客層。はりぼての裏側に装飾はいらない。店を出てまた歩いた。横町の掃き溜めでカラスが地面をつつくのを見た。

 ぼくの気がかりは劇場第2位の俳優の来店によって、あの天才がお忍びで現れる店、などと劇場の客がうちの店になだれ込むような事態だったが、そんな兆しはほんの少しも現れることなく、常連の間でも彼は気に留められていないようだった。Pは興奮を隠せなかった。少なからずミーハーなのだ。0に出会って話をしたと、うっかりアパートの隣人に言いふらしたそうだが、その女子寮の住人は半数ほどが劇場従事者のため、さして騒ぎもしなかったという。何でもなく何も起きなかった。何ということはなくピアノを弾いた。翌日の遅くに0が来た。ぼくの休憩時に声を掛け、彼のテーブルに座らされてオレンジジュースを奢って貰った。

「なんでまたわざわざうちの店に?」

「そりゃピアノが好いからだ」

「ピアノ聴きたきゃコンサートホールに行けばいいんじゃないですか?」

「コンサートはさ、お酒飲んだり口遊んだり出来ないだろ?」

「だからってこんな安い店に?」

「あんた、なんでそんなに卑屈なんだ」

 明らかに気を悪くしたらしい。

「ちがう。不釣り合いだなって思っただけさ。自分のピアノは好きだし好いて貰えるんだったら嬉しい。でもいくつか気になっててさ」ぼくは、言おうとしたが口ごもって、「仕事終わりに仕事場の話をあれこれ訊かれるのは嫌かな?」

 ミュージックボックスの流している曲が、彼の舞台のテーマソングだと気付いた。悲恋の物語。彼は愛に破れる方の男を演じる。

「昼間に劇場に散歩に行ったらあんたの上司に会ったよ。全身黒の鳥の仮面の」

「ありえない」冷たい顔の彼は言う。

「うちの0を宜しくってさ」

「それは、見間違えだ」

 見間違うことなどないだろう。

「ぼくは、別に詮索しないけどさ。あんたが言うなら見間違えでもいいよ。でもこの件でちょっと心穏やかでないのは本当。あんたに来てほしくないって言うんじゃない。けどさ」

「おれがきみのことを知ったのはね、劇団の先輩からだよ。俳優。Dっていう人。知ってるかな。まあいい。とにかく、役者同士から聞いたんだ。役者だって下町の食堂で飯を食うんだよ。でもあの人は、いや、とにかく違う。

 ……じゃああんたの聞きたい答えを言おう。おれは、仕事とは関係なしに、気晴らしにここに来ているだけだ。背後には何にもついていない。これは本当。今は素の状態。ゼロの状態さ。これ以上はオンになるからここでは話さないし話せない」

「いや、それならまあ、いい。分かった。そろそろ弾きに戻るよ」

「歌ってもいいかな?」

「テーマソングを?」

「それは商売用。今は自分のために」

 上着を脱いだ彼は同色のグレーのジレに細い臙脂色のタイを結んだ出で立ちで、四肢は長く背筋が良く、最後列の客席からでも見栄えしそうな身体だった。のびやかであり、かつ均整が取れている。見苦しさや欠点が見付からない。これは劇場2位にもなる逸材だと、ぼくは感心して彼を見ていた。

「オペラ俳優なんですか?」

「いや」

「番付にあんたを見ましたよ」

「意外だろ? 自分でも信じちゃいないんだ。2位。良くして貰っているのは嬉しいが、だからってどうということは本当は無いんだ。名声に対する価値観はあんたと共有したいと思ったんだけど」

 椅子に上着を置いて、「さて、どうすればいいかな」彼をステージに招いた。もともとセッションが出来るようにと少し広く設けられている。「スタンドマイク、ろくなのがないと思うけど」

 人もまばらで、お喋りもおとなしくなる時刻だった。誰かが音楽を止めた。0がピアノの隣に立つ。「歌謡でいいかな?」

「合わせる。合わせられる」

「頼もしいな」と彼は笑んだ。

 一礼。まばらに拍手。様子を見に来るウェイトレスたち。

 本当に彼に任せることにした。ぼくが選んだのはいつか見た映画の主題歌で、それは女優が歌っていたのだが、ふと思い出したその歌を、それは夜の郊外の外灯とわずかな星明かりの下で女優が誰からも離れてひとりで歌うシーンだった。歩調がだんだん歌に転化していき、彼女は誰にも聴かれない歌をたったひとりで口ずさむ。頼れるものもなく疲れ果てるまで。彼女の意識は星を見ている。街にいながら彼女は街を見ていない。浮世離れした奇妙なシーン。

 彼、ここにいる俳優はそれを歌ってみせた。あの寂しい夜の抑揚をここに再生してみせた。声量を開放していないだろうが、よく通る声だとはっきり分かる、上手く震える、音程も間違わないし、即興を加えることができる。全ては彼の声だった。しかしあの女優を思い起こさせた。彼と彼女が二重写しにここにいるような、倍音のなかに女優の声が重なっているような気がしてならず、思えば彼の伏した目にかかる睫毛の影が彼女の憂いに見えてきて、すると0、彼はいったい何者なのだろう。

 目配せはとても上手くいった。転調も溜めも文句なし。ひどく気持ちよく弾けたのは、なにより相手が巧すぎるからだ。冗談みたいに始まったセッションでぼくも彼も大変気分が良くなって、客は物珍しさに湧き、続けて数曲歌ったためにまるでミニライブといったところで、いよいよ彼は凄い男なのだと確信せざるを得なかった。歌う彼の眼からは平常のあるいは舞台用の殺気立った不穏な輝きは姿を消し、代わりに現れたのはささやかなバラードのための愁い、優美さ、それらは彼の持ち物ではなく歌に宿された感情で、すると彼はいまここであの女優を演じてみせたのかもしれない。

 演奏終了とともにお開き。優美に何の無駄もなく一礼してみせた0は、歌の残響なのかどことなく穏やかさを漂わせていて、わずかな笑みを浮かべている。ぼくは水を1杯奢った。「気分転換にはなりましたか?」

「最高だよ。また付き合って貰えるかな」

「練習しときますよ」とぼくはちょっと笑う。

「休暇になったら色々付き合って欲しいな。あんたが嫌じゃなければ」

「休暇って?」

「公演がひとつ落ち着いたらさ」

 その後も彼は時折訪れた。舞台公演の()(なか)だというので訪問の時刻は遅いし、疲れたような面持ちで、うちの大して美味くもない軽食をとりに来るのだった。ぼくは努めて静かだけど悲愴ではない曲を演奏した。往年の名曲。疲れに寄り添うのがうちのやりかただとあのひとが語っていた気がする。想像しろとかれは言った。そうだね、夜も遅いことだし。

 ぽつぽつと話を聞いた。

 劇団専属の食堂は本当に存在するらしい。しかも場所が表通りの、劇場にほど近い高級レストランの来賓席を改造したという個室で、でもそれは上位の役者や舞台監督しか使うことができず、しかもそんな大仰であるので毎日の利用なんてできない。劇場のバックヤードにもっと気軽に使える食堂があって、たいてい皆はそこで済ませる。クリーニング屋も理髪店も必要なもののおおよそ全てがバックヤードに揃っている。街の中にもうひとつ街があるようなものかもしれない。顔見知りばかりで息が詰まる。だから飽きてくると外の店に食べに行く。休憩室、仮眠室は十全に宛てがわれていて、泊まることもまあ可能だという。疲れきった日はそこで寝てしまう。

「そういう楽屋事情って、話してもいいのか」

「公然の秘密だろ、言いふらしても余所者は入れはしないんだし」

「泥棒が入ったことは?」

「冗談みたいな話だけどさ」刃物的な笑みに身がすくむことはなくなった。恐怖感に変わりはない。とても昔、動物園で、牢の向こうの獣に抱いた畏れを思い出す。無害な存在にも畏怖は忘れない。「冗談みたいな話だけど地下に牢屋がある」

「それ本当笑えないよ」

「今はワインセラーに変えたと聞く」

 街にも警察組織はある。しかし劇場は私設の警備隊を有している。女優につきまといがあれば一撃で退治する。

 彼は昔々に借りた屋根裏部屋に今も住んでいるという。稼ぎからすればすぐにでも出られるのだが、引越の手間を考えると関心が湧かないと語った。

「駆け出しの頃の家で、そんなんじゃ格好つかないって言われたんだけどさ、でもどこに住もうが勝手だろ。使えるキッチンと寝床がある。シャワーもつけて貰った。これ以上何が必要なんだ」

「暖炉?」

「暖房はある」

「アップライトピアノ」

「きみは持ってるのか?」

「この店の前の奴を貰ったんだよ」

 先代の奏者、師匠とでも言えばいいんだろうか、かれ、Iはやり手だった。どこからかこのグランドピアノを持ってきて店に置いてしまったのだ。そして古い方のアップライトピアノをぼくに与えた。開店前の店でジャズを教えて貰って、仕事終わりに練習して、かれがいなくなってから店を継いだのがぼくだった。

 0が聞いた店のピアノの評判はぼくではなくかれだったのではないかと思う。

「防音がさっぱりだし、今は店のこれを好きに弾けるから、あっちは全然弾いてないんだけど」

「売ればいい」とJが口を挟む。できないと分かっていてJは言う。

 ぼくがJに頼んで0のボトルをキープして貰っている。

 PやMも時折0と話す。

 彼はくつろいでいるし、時々ぼくと歌うし、他のお客は彼のことをさほど気にはしなかったし、ぼくは毎夜ピアノを弾いていた。

 劇場を通りかかるときの感慨が少し変わったのは本当だ。巨大な城の中に成り立つ大きな機構。エントランスは豪勢で、警備隊は劇場お抱えのプロで、あれから鳥の仮面には出会っていない。一度だけ、劇場の裏手で0を含む一団と出くわした。ぼくと0は目配せしたが特に声は掛け合わず、他の役者も気付かぬ様子だった。役者たちはそうそうたる顔ぶれで、男も女も美しさを持て余すばかりによく出来ている。彼らは誰も人形ではない。端正な表情の裏に、誰も彼も野心や信念が炎となって浮かんで見える。ある種の腹黒さでもある。0が言葉を交わしていたのはVという劇団第1位の俳優だった。金髪碧眼の精悍で端正な人物で、お芝居のなかでの恋敵だった。

 大舞台には立たないのかと0には何度も問われている。Pにも訊かれる。お客たちにも。

 競い合う暇があるのならぼくはピアノを弾いていたい、以前ならそう語っただろう。今は、それぞれに適する舞台があるということだ。大舞台が大勢を満たすのであれば、ぼくは場末で大勢の輪に入れなかった人々を癒やそうとしているだけ。そこには癒やす人を癒やすことも含まれている。例えばまさに役者たちを。

「それじゃ、あんたはどこで癒やされるんだろう?」

「相互にさ」とぼくは答える。「ぼくにだって楽しみはあるし、ピアノが弾ければそれで楽しい」

「本でも貸そうか?」

「本?」

「異国の小説」

 聞くに、たいへんな読書家であるそうだ。

「脚本だって最初は読み物だ」

「譜面みたいなものかな」

「アドリブがある。間違いも生じる」

「再生されるたびに姿が変わる」

「公演のたびにあり方が変わる」

「一度きり」

「いいだろ?」確信に満ちた鋭い眼。「生きているんだ」

 なら、オルゴールやミュージックボックスは死んだ人形なのだろうか。

 路地裏の果物売りに再会した。繁盛している様子はないが、相変わらず品揃えが良い。レモンとライムを買ったらおまけして林檎まで貰った。

「あんた本当にピアノ弾きだってな」

 とにかく無愛想な男で、もしかしたら何か買わないと口も利いてくれないのかもしれない。

「Jって知ってる?」

「いや」

「そこの店だ。本物の店主がどっか行っちゃったところ。先代のピアノマンもどっか行っちゃったんだ。だからぼくしかピアノを弾かない」

「どこかに消えた奴なんてここにはいくらでもいるだろうさ」

「能無しは消えるよ」でもIは決して能無しではなかった。

「能無しは消される。だがな、出来過ぎた人間も消えていくのさ」

「流行り廃りと受け取っていいのかな」

「いいや」、深く厳しい否定。

 口をついて言葉が出た。

「あんた、何か知ってるのか」

 口をついて言葉が出たけれど「何か」が何であってほしいのか、いかなる回答を求めているのかいないのか、ぼくは全然自分の考えを知らない。

 転調した気がする。

 翳りのなかで老人が笑う。

「ピアノ弾きよりは知っているさ」

 そう。

「消えるだけじゃなく消されていく。鴉が見ている。輝くものを鴉は盗んでいく。連中は巣に引き寄せられてる。

 それでなくてもある日突然穴は足元に空くものさ。

 劇場、あれはダメだ。あいつらは魂を売り渡している。客もそうだ。魂を売った連中を信じて、ここは欲望で自転するまやかしと自滅の街だ。都合よく端正に歪んだ奇跡的な鏡、装飾過剰、大いなる虚像さ。

 街が崩壊したらおまえも仲間に入れてやろう。今は鴉が見ている」

 鳥の仮面で?

「もし瞼が2枚重なっていたらどうする。おまえはまだ目を閉じている。もういちど目を開けてみろ。眩し過ぎて目が潰れる」

 彼は果物ナイフで林檎を切った。反射した光が老人の目をかすめ、彼の目がいやに充血しているのを知る。半分をぼくに寄越し、つまり帰れと言う訳だ。長居は無用。袋いっぱいの果物を持たされ、林檎をかじりながら道を行くとMに出会った。男たちに言い寄られてもめている。そいつらが道を塞いでいる。

「通してくれないみたいね」

 Mの冷淡さが事態を引き起こしたようだが。

 間に入ったらぼくまで何だか囲まれたようで、凶悪な視線と一笑を受け、両手に果実ゆえ手も足も出ず、というか手など出ません、ぼくはピアノ弾きですよ、柄の悪い連中を前にして、手など踏みつけられたらお終いで、ああぼくは今日失脚するのだろう。あっけないお終いだ。というか彼らも彼らで昼過ぎに何やってんだ、こんな裏道でナンパなんてまさかお客じゃあるまい、と、だんだん自棄になってきた。そうだ。捨て台詞のひとつでも吐いてやろう。ぼくが打ちのめされている間にMが逃げ果せたら嬉しいな、と、足りない頭で浮かんだ淡い期待の実現可能性を吟味すること殆どなしに、

「鴉が見てるぞ」

 と、ぼくは言った。

 場が凍り付いた。決定的な一撃の合図。銃声がもたらす類の沈黙が、場を一撃で鎮めたのだった。ぼくにはそんな自覚もなしに、しかし、決定的に血が流れた。

 とにかくその無言によってぼくらはあぶれ者から逃げ果せた。走ってなどいない。膠着した現場をすり抜けただけ。誰も追って来ない。Mが黙って隣を歩く。鴉が見ている。この冗談を?

「あなた、どこで呪文を知ったの」怪訝な気配が場を満たす。

「ちがうんだ」、「そういうんじゃ、全然ない」

「あんまり外で言わない方がいい」

「もちろんそれはそうだろうね」

「ねえ」

 きれいな顔をしたMがぼくを見る。またこの感じだ。またこの感じなのか?

「あなた自分がどこから来たのかちゃんと思い出して」

 どうしてそんなに哀切な顔をするの。

 ぼくはMのきれいな顔をまじまじ見据えていたと思う。

 彼女を見る自分を自分が見ているとぼくは知っている。

 どうでもいい物音ほどすぐ傍で聞こえている。

「誰の身の上話も聞きたくないよ」

 ぼくの声はぼくにとびきり優しい。

 ぼくは毎夜ピアノを弾いた。0のほかにはお忍びの役者などは来なかった。時々のお喋りがある。顔なじみも見慣れない人も時折ぼくに話しかける。ぼくは音楽を調整し、弾き、時々歌を乗せる。ルーチンでありながら疲労にはいつでも快楽を伴った。満足していた。でも相変わらず没頭しきることはない。演奏の熱の中に突入し、髪を振りながら、十指とペダルが引き起こす音への作用を確実に知っている。冷静さと演奏の興奮はせめぎ合ってすらいなかった。完全なる並立。スピーカーの左右から違う音楽を流したとして、そのどちらも同等に聴こえているように。

 ぼくはふざけたり達観している訳ではないと思っていた。ぼくはたぶんピアノに愛着があるし、演奏することはきっと好きだ。師のことは慕っていた。いや、慕い過ぎていたんだけど。往年の奏者にも敬意を寄せている。師がぼくを演奏会へ連れ出してくれていたんだった。

 何かがいつも冷めているのは、身を捧げる気がないからか? 命が掛かっていないからか? そういうことではないと思う。ピアノを弾けなくなるのは怖い。でもいつか終わりは来るのだろうと、ふとした時に思い出した。

 いずれ来たる死を自覚しながら熱の中に身を投げ出す。前線で剣を振るい血を流し手柄を立てる。戦場に自分ひとりという訳ではない。敵も味方も兵も市民もそこかしこに散らばっている。今できることをしなければすぐに誰かに殺されてしまう。ぼくたちは上手く立ち回らなければいけない。それがこの街の姿だったり演奏するぼくの心情なんだけど、ぼくは前線の一兵士で、しかしその自分自身をどんな砲弾も届かない高台から見下ろしている感じをいつもどこかで自覚している。ぼくの本体が宙にあるかといえばそういうことでもなく、前線の自分に弾が当たればどちらの自分も死ぬのだけれど、でも戦場で死にたくはないな。

 どっちがゼロのぼくなんだ。ピアノ弾きのぼくなのか。そうじゃないぼくなのか。ぼくの役割はピアノ弾き。ならば生きて生かされるのはピアノを弾いている演奏者のぼく。ぼくが、頼まれてピアノを弾く店の音響係のぼくがぼくの本性であるというのに、この没頭出来ないでいるぼくは、じゃあ一体誰なんだ。

 メランコリーは演奏のあとに訪れる。ピアノに向かっているときは、他人の目に現れるのはピアノ弾きの方だった。かといって四六時中塞ぎこんでいることはなくて、多分何も考えていない日の方がずっと多い。深夜家に帰る短い道程と眠りにつくまでの暗闇のなかでの自問自答が内省のピークなのだが、大抵の場合寝たら忘れた。

「そうじゃなきゃとっくに折れてたと思う」

 0とは遅い時刻に話し、閉店間際に時々セッションした。

「今日から休暇でさ、前に言ってたやつ」

「千秋楽?」

「いいや、キャスト替えさ。公演期間を前中後に分けてて、前期の終わり。1役を2、3人で回す。おれは前半後半に出る。間はお暇」

「なにして過ごすの?」

「それがまあ結局稽古なんだがな」

 もはや指定席みたいなピアノ傍のテーブルで0は椅子に深く身を預ける。手足は長くしなやかで、疲れた目は伏せ、鼻筋に影が落ちる。間違いなく美人であると、それは言い逃れできない。“愁いを帯びた男”として張り合ったらぼくなど噛ませ犬にもなれない。彼の姿は建築のように整然と美しい。誰かが意図して作ったのではないかと疑うほどにその目は今日も鋭いが、疲れていくぶんかおとなしい。

「見惚れてんの?」

 グラスから目も上げず彼は言う。

 まあ、そうなる。

「羨ましいとも思わないんだよね。あんた見てると。格が違いすぎて妬む気も起きないんだ。そもそも分野も相手も違うけどさ。よく出来た服を見てると自分は着れなくても何だか嬉しくなるみたいな。そういう風に見てたんだ」

「よく出来たマネキン」唇を湿らせる。「まあ、マネキンじゃねえけどな。見惚れたかったら劇場においで。滅茶苦茶安く用意してあげるよ」

「でもしばらく休みなんだろ?」

「そう。それまでなにをする?」

「1曲聴いて帰りなよ。今日はもう休みな」

 目が据わっている彼に冷たい水を1杯やった。みんながみんな疲れている。

「あんたのさ、そういう優しいところ、おれは羨ましく思ってるよ」

「でもこれが仕事なんだよね」とぼくは苦笑。

「いいんだよ、仕事でも」

 甘く繊細で撫でるようなスタンダードナンバーを奏でた。

 ぼくだってちょっとは疲れている。いつもいつでも。生きていることは死に向かっているんだし、ぼくは一生のうちあと何曲弾けるのか想像もつかない。この身体の動きだけを今は知っている。店の中にぼくがいて、ぼくがピアノを弾いている。それだけ分かっていればいいんだよ。時々ぼくは誰に対しても言い聞かせたくなった。ぼくがぼくじゃなくたっていいんだったら、誰も、彼らじゃなくていいんであってさ、だから、疲れてまで無理に続けるなよ。追い詰められてまで傷の舐め合いなんかするなよ。するけどさ。

 帰り道、ぼくは彼に送って行こうかと提案した。

「いや、お気遣いありがとう。大丈夫。それより明日来てくれないか」

「仕事終わりに?」

「それは、あんたが疲れてるだろ。もし良ければ昼に。昼食でも作ろう。昼前に店にいてくれないか。勿論きみが嫌じゃなければ」

「いや、喜んで」

「それは嬉しい」

 暗色のコートを引っ掛けて、彼は深夜の裏道に帰っていく。

「仲いいね」とP。

「ありがたいね」とぼく。

「X、ピアノだけじゃなくてさ、何でもうまいと思ってるよ。あたしは。話も上手いし、優しいし、顔だって悪くないと思ってるよ」

「おだててもデートはできないな」

「冗談じゃなくて、ほんとに。みんなXのこと好きだよ。仕事中にピアノ聞けるの、すごく嬉しいから」

「それは、どうもありがとう」

「あたし、まだ0のこと少し怖いの。あの人、人殺しとか悪人とか狂った人とか、そういう役ばかりやらされてるみたい。本人の顔立ちも怖いけど、なんていうのかな、お芝居の役があの人につきまとってるように見えるの。お芝居のどす黒い感情が全部あの人のまわりに渦巻いている感じ。あの人には良くして貰ってるの、あたしもMさんも。お世辞でもあたしのことを褒めてくれる。嬉しいのに、でもやっぱりどこか怖い」

「それでもいいんじゃないかな」とぼくは言った。「誰にも悪気はないんだし」

「優しすぎるよ、X。……昔は何をしていたの?」

「誰の思い出話も聞きたくないよ、P。それにこれからのことも考えたくない。

 これは正しい逃亡だと思ってた。正しいっていうか、上手いやり口。賢いって思ってた。ぼくはただここにいるだけだし」

「よく分かんないけど」とP。「似てるんだと思う。Xと0。なんだか、天才肌ってこういうことなのかな」

「ぼくにもよく分からないけど、そうだといいかもしれないね」

 Pのアパートまで彼女を送った。店から遠くはないのだが一応といった所で。

 雨が降らない日の夜空は薄明るくて、赤い光が滲んでいる。街中の大劇場が夜間照明で自らを照らしだす。それらの光があちこちで薄もやのように滲んで広がっている。昼は薄暗く夜に明るいこの街。うちみたいなバーはいくつもあって、まだ開いている店もあって、そういう所は朝まで酒宴が続いている。明かりとともに音楽が漏れてきたり、笑い声が聞こえてきて、そういう夜を歩くのも悪い気分ではない。

「あたしミュージカルがやりたいな」

「歌の練習なら付き合ってもいいよ」

「でもあたし、大舞台じゃなくて、このまま小劇場の歌姫でもいっかなあ、なんて」

「うん」

 そうだね。思っても、あまり言えることではない。

 ありとあらゆる役割があり、当てはまればその枠組のなかで生き延びていけることが約束されている。でも大抵の場合望んだ枠に立ち入る隙間はない。望まなかった結果、形の合わないパズルの一片を穴に無理やり押し込んで、図形の全体像が歪に傾き始めていると知っていながら歪みを正さず、歪んだままゲームが進行したから、もう誰にも修復できない。建築の土台が間違っていた。でも歪んだ土台の上にぼくも皆も立っていて、枠がそもそも歪んでいるから、誰の思惑もきっと上手くいかない。ちいさな歪みを積んだ上に次の歪みをめいめい勝手に乗せていくものだから、歪んだ怪物みたいなこの有様を誰も制御することはできなくて、ぼくは、眺めているのだろう。ぼくも歪みの内側にいて、次の一片を積みながら。

 歪みを正そうとした人物もなかにはいた。でも皆どこかに消えてしまったようだ。彼らも諦めたのかも知れない。誰の手にも負えないのである。

 黙りこんで歩いていたらあっという間にPのアパートの前に達していた。

「送ってくれてありがとう。おやすみX。明日もよろしくね」

「おやすみP。いい夢見るといいね」

「なにそれ」と笑うP。「おやすみ」と手を振って別れる。

 叶わなかった人々や消えてしまった人のことを考えていた。消えたオーナー。代理人としていつまでも店から出られないJ。それからぼくにピアノを教えてくれたあの人は、歪みに呑まれて消えてしまったんだろう。跡形もなくいなくなってしまった。

 物乞いは消える。良い奴も消える。好きだった人も自分自身もいずれ消えてしまうのだろう。

 ぼくが消えるとしたら、例えばある日、ぼくのなかのピアノ奏者が跡形もなく消え去ったとしたら、残されたぼくに何が出来るだろう。今さっきPを送り届けたぼくは、ピアノ弾きのぼくだった気がする。Pが優しいとか話が上手いと褒めたのも、人々が見ているのも、ピアノを弾けるぼくだろう。すると今のぼく、ピアノを弾いていない、自分のことを考えているぼくは、誰なんだ、いや、役割なき人間は消される、だとしたら消されるのはこのぼくだろう。

 そんなことはあり得ないがきっとそうなのだろう。

 

 ぼくの生活はおそろしく雑だった。寝るために家に帰っているようなもので、家に帰っても着替えて寝ることしかしていない。食事は店のまかないや屋台や知人の店で済ませているから、キッチンなんてせいぜいお湯を沸かすことにしか使っていない。ぼくは極端な方かもしれないが食事は誰もがだいたい外食で済ませている。

 翌日待ち合わせた0と市場へ赴いたときも、屋台で済ませるものとばかり思っていた。彼はいくぶんかカジュアルなジャケットを羽織り、前髪で目を隠すようにしている。

「休日に見付かって騒がれたことはある?」

「大通りを歩かない限りはない。前髪? 根が卑屈だからさ。隠れてた方が落ち着くわけ」

「うそだろ」

「まあ怖がられるっていうのもあるし」

 本人も気にしているようである。

「眼鏡でも掛けたら落ち着いて見えるかもね」

「成程なあ」

 市場はぼくがふらついている辺りではなく、もっと規模の大きい、大通りの料理人が買い付けに来るようなマーケットだった。表通り並に往来が激しく、それでも顔ぶれを見るとやはり全員街の人間なのだと分かる。身振りが、客とぼくらで何かが違う。一目見ればだいたいどちらか見分けが付く。街に住むようになれば区別は誰にでも付くようになる。

「肉、魚?」

「魚なんて入ってんの」

「あるよ、向こうに」

 色とりどりで目移りするような果実を眺めていた。それから鮮やかな野菜。

「こんなのどこから仕入れてくるんだ」

「運び屋がいるんだ、街の外から仕入れてくる」

 正直言って街の空気はよどんでいるし、農地なんて見かけない。食べ物は輸入に頼っている。

 彼に任せて、彼を見失わないようぼくはただ後ろについて行った。彼は手際良く諸々の食材を揃え、値切り(目が怖いから成功する)、良い魚が入っていると言うのでそれを買った。ぼくは一連の買い物をやはりどこか引いた目で眺めていて、彼の作る料理の味が果たしてぼくに分かるものかとひそかに危惧を募らせていた。

 彼の自宅は市場からさらに歩き、丁度ぼくの店を挟んでぼくの住まいと反対側であろう界隈にあった。ただでさえ複雑で表の客を寄せ付けない裏通りからさらに横町に入り込むと、道は曲がりくねり坂道を上り下りするので、見通しが悪く方向感覚を失う。同じようなアパートメントが通りの左右に続いている。霧雨を浴びて薄汚れた同じ色の建物と、石畳の風景である。

「どこ連れて行かれるのさ」

「遠くはない」

 確かに遠くはなかった。でも入り組んで似通った道順を一度に覚えることはできそうにない。わざと迷わせるために用意された道筋なのかもしれなかった。ぼくら住人でさえ街のすべてを熟知は出来ないのである。

 程なくして辿り着いた奥まったエリアに建つそこそこの大きさのアパートメントの、聞いていた通りに屋根裏部屋が彼の住まいだった。どこが屋根裏部屋かと笑いたくなるくらい、そこは居心地良く改造されていた。黴が息を潜める日陰の薄暗さはあれど、ゴミはなく、快適さは保たれている。

「劇場で古くなった家具を貰ってくるんだ」

「安上がりだね」

 椅子は古めかしくも作りが良く、深く身を預けられる。

「良くして貰ってる。まあ休んで。風通しが悪いから窓を開けてもいい。終わった公演の台本も、読んでいいよ。コーヒーも紅茶もご自由に」

「水でいいよ」

「ボトルがその辺にある」

 お言葉に甘え棚に並んだ以前の台本を手に取った。これは彼が主人公で、善なる存在だった若者が行き違いから失脚し堕落し始め肉欲と憎悪と狂気に溺れるさまを描く、全台詞が悲劇に彩られた救いのない物語である。書き込みで埋め尽くされた台本を紐解いていくに、恐らく彼ははまり役だったのだろう。ほかいくつか流し読みした。悲劇の王、悪霊、魔女、殺人者、狂人、人ならざる者や唾棄すべき人物、色物の専属といった所、そんな役ばかりだった。目を見開いて劇場に響き渡る声で長い呪詛のセリフを吐く様は想像がつきそうでいてなかなか上手く頭が回らない。舞台に立つ彼、称賛される方の姿をぼくが知らないからだろう。ああでも0と呼ばれるのは役者の彼である筈だった。

 台本を読み進めている間に、彼は小さなキッチンで手際よく調理する。

「演技中ってどんな気分?」

 魚が焼け、香味料の匂いが漂ってきた。

「その瞬間のその人物の気分」

 パンを切って軽く焼き、野菜はサラダにして自作だというドレッシングを振った。盛りつけ方も上品だった。

「どこで習ったんだよ、料理」

「それが劇場の厨房でさ。教えて貰ったんだ、色々と」

「そのまま料理人にもなれるよ」

「俳優は料理人になれる。料理人は俳優にはなれない」

 観衆を震え上がらせたその目で彼は水を注いでくれた。魚のソテーは香草の風味が効いて美味かった。うちの店のメニューよりも余程上品だ。

「毎日良い物食べてるね」

「作りたくない日もある。おまえの所で済ませもするし、劇場や他の店でも。そう、振る舞うのが好きなのかもしれない。自分で作って自分で食べても張り合いがない。今あんたに食べて貰ったことで、あんたに影響を及ぼせるって思うと俄然やる気も湧くし出来も良くなる。与えるのが好きなんだろう。芝居におれが立つことでどういった効果を与えられるのか……見られることをいつも考えている」

 と言って、眉をひそめ、

「おれは喋りすぎてないか?」

「いや、聞きたいな」

「そうか」

 と、それまで組んでいた脚を緊張を解く合図のように開いた。優れた役者は筋肉の全てを随意に働かせることができるのだろうか。その特別な訓練を積んだ身体が舞台を離れた今この瞬間にも無意識的に作用しているのだろうか。

「そう。見られることを考えているよ。この態度もそう。職業病だろう。おれはあんたと面と向かって話している。あんたと食事が出来ておれは嬉しい、というのが今のおれの心情だが、もう一つの態度があってね、おれときみが出会っているこれが舞台上の出来事だとする。つまりおれが0役の役者だとして、どのような声量で、どのような仕草で、どのような位置から語りかけるのか、あるいは語りかけないのか、登場人物が把握できない筈のそれらを外側から見る演出家の目線。演技中でも気持ちのどこかでは舞台を離れて客席から自分を見ている。演出家がおれのなかにいるんだよ。勿論劇団にも舞台演出家はいるさ。役者たちの動きと照明、音響、衣装、美術、演出を取りまとめる人間。でもそれに決められる前におれがおれのことを制御している。慣れればこんなに機転の利くことはない。物語の登場人物は激情の最中にいるが、役者は同時に物語の外側から引いた目で自分を見つめている。その視点が重なっている」

 と、両手の指と指とを重ね合わせ、Xの文字が浮かぶ。

「おれは自分の振る舞いを見続けてきたから自分に向けられる視線を肌で感じられそうなんだ。──おれの胸元に何が見える?」

 開いた第1ボタンとその周辺、細身なのに弱々しさのない身体を眺めていた。未だに目を正視する気がないからだ。

「いいネクタイだね」

「だろう? 前に着ていったジャケットと揃いで買ったんだ。あの灰色の奴。決めすぎず品良く見せたいんだけどどうだろう? 騒々しくない服装が好い。きみはどう舞台衣装を決めている?」

「舞台衣装って、大仰だな」

「オーディエンスの前に立つ者として」

「店に合う奴だよ。それで、音楽に似合う奴。でもそんなに明確に決めたことはなくて、きみほど意識的じゃない。たぶんぼくの好みが丁度良くぼくの店に適っているんだと思う」

 でも少し考えた。

「ぼくにピアノを教えた人がだいたいのところを選んだ」

「前の奏者?」

 食後の紅茶を用意してくれた。濃いミルクティーでこちらも美味い。

「師匠、何も分からないぼくに全部教えてくれた。Iっていう女だったよ」

「うん」

「でも男だった」

 相槌はなかった。

「女の身体でもって生まれてきた男で、その服装がこんなかんじで。シックだろ、悪くない。まあ、つわものだったよ。店の雰囲気は殆どあのひとが作り上げたんだろう。いつも何かと闘っているような人だった。店が荒事屋に目を付けられた時もあの人が片を付けて追い払った」

「今は」

「消えた。それから店主も姿を消した。世話になった人ばかり、ある日突然消えていく」

 〈快楽の街〉、この簡潔な決まり事の中でぼくらは生きてきたと思っていたのに、いつの間にか裏のルールがにわかに首をもたげはじめ、街の裏方である筈のぼくらが煙に巻かれようとしていた。

 ある日突然失踪する人々がいる。街を去ったようでもなく、跡形もなく消える。全ては殺人ですらない。鴉が見ている?

「大変だろうね、劇場は」

「まあ、狭い世界だよ」

「役者は難しいだろうね」

「そう、おれが仕えているのはお芝居なのにね。劇場の利害なんて知ったこっちゃない。ましてやおれの名声なんて。だから豪勢な邸宅で見栄を張る必要なんてない。屋根裏部屋で十分だ。

 観客に、公演後の俳優に近づこうと待ち伏せする連中がいる。ルール違反だよ、そうだろ? 見せているのは物語であって生身の人間ではない。人を目当てにしたいなら、そうだ、売春宿行けよ。身体壊した元俳優が食い繋いでるぜ。おれは壊れてもそこで食いはしないよ。終わるときは終わりだよ。そこで終わり。おれはお芝居の中にしか役割がないし、幕が下りたらおれはお終い。出待ちなんてするもんじゃない」

「きみ目当てで来る客も多いと思うけど」

「劇場もそういう売り方をするからな」

「目の保養って」

「でもそこにおれはいない。物語は物語であっておれではない」

 ギラギラした目でぼくを見つめ返す。どこがだよ、とぼくは思う。その目、その外貌が唯一無二の彼の姿だった。純粋性に向かおうとするきみに反して、身体は手癖のようにきみにまとわり続ける、恐らく。

「うたじゃなくて演奏家のファンってことじゃないかな。原曲も素晴らしいけど演奏者の解釈があってこそ。その歌手にしか生み出せない響きを堪能したいんだ。悪意はないよ。きみがいなければ成り立たない劇をみんな目当てにしている。役者のきみは成功している」

「きみみたいなものか」と彼は笑みをこぼす。

「それは光栄だ」とぼくは微笑む。

「劇団は潔白だよ。特に舞台美術と演出の方々は街で一番純粋に芝居をしている。そのご指導にあやかれるのはありがたい。劇場の経営者たちはその限りではないが」

「座長?」とぼくは口を滑らせた。

「あの人はまた違う」彼は厳密に否定した。「座長の取り巻き、あれが腐っている。最低の連中だ。俳優を出しにしている。それに乗じる役者も最悪」

 苦々しい独白に以前すれ違った俳優たちの顔ぶれを思い出した。

 劇場2位の座。若き天才。狂人ばかり演じている美しすぎる男。向けられる欲望と嫉妬のまなざし。

 想像しろと師は言ったしここにいる彼は疲れている。

「演じているだけで良かった。おれが語り動作することで物語に力を添えたい。純粋に。物語を受け止めて貰いたいだけで、おれ自身は何も望んでいない。必要ねえよ。くそ……愚痴だな。おれは喋りすぎている」

「ぼくは別に構わない」

「喋らないに越したことはないんだよ。そこにいるだけで力を与えられたら本当は理想だ」

 彼は、長く一息ついた。話題を変えようとぼくは思った。

「俳優の助言を聞いてみたいんだけど」

「答えられるものならね」口元には笑みが戻っていた。

「俳優の自分と休日の自分をどう分けて扱っている?」

「公演の有無じゃなく?」

「気分みたいなものの話。稽古や本番の自分と、丁度今みたいに舞台を離れている自分は別人だと思う?」

「別人」彼は考えこむように間を置く。あるいはそうやって会話に作用を与えようとしているのだろうか。「常に演劇の最中にいることはできない。単に疲れきって持続できないから、どうしたって休まなければならない。中断されるときに何を考えているか?」

 まず調整だと彼は言った。役のために増減させた身体を戻し、気分を落ち着かせ、次の役を引き受けるために心身ともにゼロに戻す。現世的な考え事をする。衣食住に関すること。

 あとは享受者になろうとする。「飯を食う。音楽を聴く。他の劇団を観に行く。服を買って髪を整える。本を読む。散歩に出る」力を発することを休んで身体に取り込むことに費やす。「だからきみを招いて食事なんか試している」

「とても美味しかった」

「それならよかった。どんな生活を試してみても、結局全て舞台に向かっているんだろう。役に入っていようがなかろうがおれは役者なんだろうね。回答になるかな」

「もちろん」

「おれは本当はきみの話を聞いてみたいんだが」

「思いがけない頼み事をしたらきみにとって生活の刺激にならないか?」

 どうぞという風に片方の眉をつり上げた。口がよく回るように態度の変遷もめまぐるしい。

「本を読んでみたいな」

「本」

「きみが読むようなやつ」

「ああ」

 彼は席を立つ。「何がいいかな」と独り言を言い、「港の方の裏道にいい本屋があるんだよ。知ってた? 小説を取り扱っている。これなら読めるかな」

 持ってきたのはポケットに収まりそうな小さな紙束だった。

「原価は安いだろうけどこっちに輸送するので馬鹿高くなる」

 売れないからねと彼は言う。茶色い表紙にワイン色のインクで表題と装画が印刷されている。

「海外の?」

「読めるよ」

 開くと確かに言葉は読めるが、何か語り方が通常ぼくらの使う方法と異なっているようで、一語一句が奇妙に聞こえてくる。無調の楽曲のようにゆらぎが迫る。

 その日はそれを借りた。

「こういうものも劇場で知るの?」

「どうだろう」彼は答えを出さなかったが、そういう正解もあるだろうと思った。

「煙草は吸う?」と0。

「いや。吸いたきゃ気にしないよ」

「聞きたいんだが、吸うように見える?」

「どちらともとれる。吸っててもいいけどどちらでもいい」

 意外だったらしい。「人に会うたびに吸ってそうだって言われてさ。そんなに言うなら吸ってやろうかって考え始めてた」

「吸わないなら吸わないでいい」

「答えは禁煙中でした」

 と言って窓際に置いてあった空っぽの灰皿を見せた。「吸わない日がずっと続いている」でも懐からライターを出して、「煙草はないけど火は買っちゃって。だからどちらとも取れるのが正解なんだろうな。手間をかけてこういう半端さを過ごしてみるのは、嫌いじゃないんだ。恐らくこの屋根裏住まいだって、快適さと屋根裏部屋という対立を実験してみている。どっちつかずの態度は公演中にはできないからか? 役はいつでも振り切っているから」

 極端な狂気ばかり身に引き受けていれば自分も狂いかねないし休息は必要だ。

「演劇は、だって、極端でなければならない。半端な人間はぼやけるだろう? 観客は鋭利さを求めている。彼らが味わうことのなかった純然たる善と愛を物語の主人公に求め、彼らの背負えない怒りと呪いをおれの演じる人物に見出す。物語は美しい。物語は偉大。俳優はその臣下。でもそれもやはり理想論で、実際には人物目当てに慰めを求める客ばかりで、それに媚びへつらう方が、きっとここでは賢い生き方だよ。でも演劇の外で愛想を振りまいて黄色い声援を浴びて、それが演劇にとって何になる?」

 ぼくはとにかく彼の根が真面目すぎて劇場第2位の俳優の割に合っていない、どころか彼が本質的に身に受けている背反を見つめていた。生来の美貌と実力によって勝ち得た名声に対し、潔癖な素の性質が拮抗し、その上舞台では極端な狂人たちと代わる代わる一体化する。

「そりゃ休まらないよ」とぼくは言った。どれかひとつ、ふたつ、あるいは全て失えば楽になる。

「だから休まないといけないんだが」、彼は身体を起こし、隅の衣装棚から帽子と伊達眼鏡を引っ張りだした。「でも体力は維持しなければならない。このあと劇場の稽古に出る。散歩がてら遠回りになるけど、途中まで帰り道を送ろうか」

 彼はまた衣装棚をあさり、少ししてぼくを呼びつけた。手にはいくつかタイが掛かっている。

「衣装」

「いや、大仰だ」

「いいよ、1本ぐらい手みやげだろう」

 そのなかにはどうやったってぼくには見合わない伊達すぎるものや正装そのものも混在していて肝が冷えたが、彼の審美眼は確かなもので、店に似合うような落ち着いた1本を選んだ。ボウタイながら合わせやすい細かなドットの入った紺色で、恐ろしく気前のいい彼は同色のネクタイまでぼくに押し付けた。

「まあ、曲調に似合うように。それから店にも。決め過ぎないけど垢抜けるだろ」

 親切は親切としてありがたく受け取り、ご丁寧に締め方まで教わり、彼の家を後にした。

 行きの道を反対に、居住区を郊外へ抜ける方へと坂道を下り、街を囲む森の公園を散策した。街中を通るよりもこちらの外回りの道の方が覚えやすいだろうとのことで、更に言えば歩きたい気分らしい。だだっ広い森林公園を通り抜ける。屋根無しがたむろしていたり恋人同士の逢引によく使われる区域だが、売春街あたりに比べれば脅威ではない。

 曇りがちの空の下で木々は枯れ葉を落として、足元に積もった落ち葉は少し湿っているために足音を立たせない。枝先をよく見れば新芽が芽吹きかけているのに気付く。低木に黄色い花が咲いている。でもいくら彩りを添えようとも、辺り一帯は曇り空と枯れ木だし、ぼくらは紺色、灰色、ワイン色、茶色を着て彩度に欠ける。寂寥感に拍車をかけるように今日の風は冷たい。そういう只中で急いでもいないぼくらは木々や花を見遣り話をしながら森の中を遠回りしていた。

 頭上に鳴き声が聞こえ、カラスが滑空するのが見えた。続けてもう1羽がクチバシに枝を咥え、また別の方向へ飛んでいった。

「巣作り?」

「劇場の大時計の上に毎年カラスが巣を作る。時計技師が追い払おうとするんだが、奴ら、人を襲ってくるんだ」

 街中には鳩やカラスや猫がいて、郊外には野良犬や虫や小鳥がいる。

「この辺でリスを見かける。蛇も見た」

 リスがいることをぼくは知らなかった。ただカラスが群れているのは誰しも知っていた。森をねぐらにして昼間に街の廃棄物をあさりに現れる。劇場の屋根の天辺には大鴉の像が羽を広げているそうだが、地上からは見えないし、今や生きたカラスの糞だらけだという。

「今度見せようか」

「どうやって」

「掛け合ってみる」

「訊きたいんだけどきみってそんなに偉いの?」

「問われるのはおれじゃなくてきみの実力」

 能無しが死ぬ掟の街では、反対に何かしら能力があればそれが特権として作用する。しかし。

「掛け合うのは劇場の上役じゃなくて時計技師にだよ。あとで1杯奢ってピアノを聴かせてやればいい。自動演奏機専門の調整屋だから、きみの店の機械も見てくれるかもしれない」

 ぼくはあいまいに返答した。「きみも昼間に店にいていいよ。定休日でなければいつだっていい」

「定休日はいつ?」

「毎週火曜」

「それならその日に出かけでもしないか。いや、あんたが嫌じゃなければ。とにかく外に身を置きたいんだ。なかなか劇場は離れられないから」

「きみが良ければ何だっていいよ。そうだね、街中は息が詰まる」

 ぼくはと言えば休日なんて1日寝て過ごしているので、彼に同行するほうが余程健康的だった。

「冗談じゃなくて本当の話なんだけど」と彼。「次の舞台の役が決まりそうなんだ。笑えよ、主演で、ピアノ奏者」

 そう言った本人は笑っていない。

「それ、誰が決めるんだよ」

「座長」

 決定的な発言にともなって、彼の唇の端が一度だけ痙攣した。

「演目と主演を立てたら監督に回してご自身は鑑賞。決まったのはつい昨日のことで、公には発表してもいない。ただ座長から知らされただけ」

「他言無用じゃないのか」

「言付けを貰っている。先に言うけどおれを恨むなよ」

 既知の感覚がぼくを覆った。だからうまく驚くこともできない。

「〈ピアノマンに宜しく〉」

 ぼくは、いいよと言った。「あんたのせいじゃないよ、0」

「誰も悪くないさ。でもね、おれのせいだよ」

「休めよ」ってぼくは言った。「だから遠出にも付き合うよ。うちの店にいつでも来ていいし、あんたの家に行ってもいい」

「演奏を教わっても?」と自嘲的な冗談を重ねる。笑い方にしたって表情の機微はめまぐるしい。冷たい風が背中を押すように吹き付けて、足元の枯れ葉の乾いたものが飛ばされて、舞い上がる塵に目を細めた。

 散歩道を抜け公園の舗装路に出た。枯れた花壇と噴水の回りに、街の住人がめいめい煙草を吸ってひとりの時間をくつろいでいる。公園内にカフェの出店もありコーヒーも買える。ぼくらは素通りし、公園の門を抜け、急な階段を登って灰色の居住区に至る。道なりに進むと裏通りでも賑わっている界隈に出て、すこし行くとそれが劇場に続いている道であるとはっきり分かった。

 長い歩行により思想の視点がまたもぼくから遠ざかる感覚に陥った。薄紙をずらして重ね合わせたように、思考はぼくの身体から遊離している。眼球が後頭部まで後退したように、ぼくはまさしく1歩引いた所でぼくらの散歩を感じていた。そういったある種の無関心性が、彼に向けられる好奇の目を帳消しとは言わずとも和らげられないものかと考えていた。優しさが自衛でもありぼくの常套手段であると、離れるモードに達したぼくはつらつらと思考を遊ばせていた。

 劇場の裏手で0と別れた時もそのモードから脱しない。

 0は裏門の警備兵にぼくを紹介した。何か問題に巻き込まれたら力になると、Tというその兵は強く語った。M襲撃が記憶に新しいぼくは、もちろん鴉のくだりは語らずに、店のウェイトレスが悪質な連中に言い寄られたことを報告した。

「ルール違反だ」と0は憤る。「役割の規定に反している」

「劇場では特に出待ちを禁じています」とT。いかにも屈強な身体つきで威圧されるが、顔立ちは精悍ながら端正な方で、「観劇の権利を誇大に振りかざす履き違えた観衆が増加している。観衆に限らず街の住人らにも住人の特権を盲信する者が見受けられる。とんだ奢りである。われわれはわれわれの受け持つ役割の中でしか特権を持たない。劇場にかかれば観衆らも劇の中の役割のひとつに過ぎない。観衆とてシステムに過ぎない」という彼らの説明に頷いている時も、劇場は美男美女しか雇わないのだろうという邪推を展開させていた。

 裏門は劇場従事者が使う通用門のうちのひとつで、堅牢かつなかなか豪奢な造りで表の正門にも引けをとらない。これらの目立った門だけでなく、街中には至る所に隠された扉があり、街中を地下道で繋いでいて、秘密裏の移動や運搬も可能だという。

「それぼくにばらしてもいいんですか」とさすがに尋ねたが、

「公然の秘密といったところです」とT。

「知った所で観劇に影響はない」と0。

 ともあれ店やぼくのトラブルも役割に反さなければ力を貸すと言うT氏にばくは正直に礼を言った。

 0には、また何かあったら店に来て良いと約束を交わし、Tにも来店するよう誘った。別れの挨拶をしてぼくは自分の店へと歩いた。遊離した感覚は収まらなかった。

 なぜここで、この街のこの通りをぼくは今歩いているのか。なぜぼくはここに含まれているのだろうか。なぜここで、という問いが晴れるのは、ぼくがここを出て別の地に降り立った時だろうが、果たしてぼくはここを離れられるのか、いや、離れるのか。誰も知らない遠くへ、独りで、あるいは誰かを連れて、誰かに連れられて、生活に別れを告げる日がいずれ来るのだろうか。

 店に帰ると開店支度中のJと、青果屋のあの男がいて、青果屋がもうひとりの見たことのない痩せた男を連れている。丸顔で痩せぎすで丸い目玉をした挙動不審気味の壮年のその男は、自動演奏機の技師であるという。

「話は、伺っております」と技師。神経質な吃音だった。

「こちらの、演奏機を、調整いたしました。本当は、あなた様立ち会いのもとで、確認を取りたかったのですが」

 規定内の料金なら構わないと僕は言った。突然の来客に金を取られてJは機嫌悪くしていたが、カウンターに山盛りのオレンジ、ライム、レモン、トマト、ほか色々が積まれていて、ぼくの不在時にどういう問答があったのか十分想像の足しになった。

「今度、ピアノの調律に、うちの組合から技師を向かわせたい」と自動演奏機の技師。値段を聞いて渋々ながら構わないと応じるJ。調律の頻度を尋ねられ、恥ずかしながらこんな場末のバーではそれほどまめでもないと答える。

「I……Iの店だっていうのに?」

「Iはとっくに消えた」とJ。「誰しも消え行くものだ」と青果屋。技師が青果屋に尋ねる。

「スケアクロウ、彼らは、本当に、きみの同志なのか? Iも不在で、きみは、見当違いを起こしているんじゃないか?」

「おまえみたいに2重写しの人間さ」

 スケアクロウと青果屋は呼ばれた。「ピアノマン、こいつは、おれの同胞であり、劇団に飼われた技術士のQ」

「天辺の大時計の?」とぼく。なぜ知ってるんだと技師が目に見えて驚く。繋がる筈のない線がぼくを囲んで立ち上がり、グロテスクな絵を紡ぐというのに、地上のぼくには地上絵が見えない。翼のある生き物であれば地上絵を愉悦できるのだろうか。

 スケアクロウによるぼくの紹介。「ピアノマン、Iにピアノを習った男」

「Xです。俳優から時計と技師の話をついさっき聞いたから、もしやと思って訊いてみたらその通りだったって話」

「あの、王子様たちのことだろう。それとも、お姫様か」とQが言う。

「ずいぶん身内を嫌っているんですね」

「わたしは、スケアクロウだ。なのに劇場から、脱獄出来ない」

 身元を明かしている時点でずいぶん自由なご身分だとJの横槍。それには答えずQは続ける。

「俳優なんて連中は、腐った奴隷だ。街を蹂躙して、座長の慰み者に甘んじている。腐敗した連中、意思のない人形、顔が美しくとも、笑みも涙も虚像」

「そんなに敵視する理由がどこに?」

「みじめなものだ。虚栄に生かされる、連中は。文字通り空虚な、虚栄心で、あいつらの人間性は毒殺された。いまに、名前も顔も生活も失うことだろう。脚本に従って生きる、我のないゴースト。座長の気に入りの、鳥頭の集団」

「そうじゃない奴もいるかもしれない」とぼく。「周囲には愚かに見えるように振る舞って、舞台を離れれば至極まともかもしれない」

「ずいぶん肩入れしたものだな」と、スケアクロウが間に入る。

「友人と言っても差し支えない程には仲良くして貰ってるよ」とぼく。

「驚かないのか、こいつの言い分には」

「敵対事情なんて興味がない。ここにいる彼は技師でぼくは音楽屋。それだけだろう。あの俳優とも個人的な友好関係に過ぎない。ぼくは劇場に賛成も反対もしない」

「無関心であれば賢明だと思い込みをしていないか、X。判断を逃れようとしていないか。不誠実さのツケはいずれ回る」

 ぼくは声が大きくなる。

「どうやったって関心が湧かないっていうのは、あれか、楽器みたいに、調律して貰ったほうがいいのかな。ぼくはズレた人間で嫌な音を出しているのかな」

「ピアノに打ち込みはしないのか」

「あのさ」ため息が出る。「たぶん本当は何もしたくないんだ。ピアノだって弾かないなら弾かないに越したことはない。何もしないでいいなら何もしたくないんだ。ごめん。弾いたら弾いたで、弾いている時は、ぼくはピアノに没頭している。でもそれは本当の意味で瞬間的で、音が響き始めて消えるその間の感覚でしかない。ピアノはたぶん、好きなんだ。でもそれは目的ではない。生きていくためにピアノを弾く役割に就いただけらしい。ぼくはいっつも引いている」

 技師は黙っていた。雇い主であるJが聞いているのを忘れていた。スケアクロウという青果屋は語った。

「劇場に目を付けられている。じきにお前も消される」

 技師が神経質に瞬きした。

「欲しがりの手が止まらない。あらゆる方向に引っ張られてお前の身は裂けそうだ。

 自分が生き延びるためのお前はこの店に就いている。しかしお前を失ったところで代役はいくらでも雇えるだろう。お前は天才だが、天才だとしても、天才は世に溢れている。

 俳優に味方するもお前の好き好きだろう。だが身を守りたいのなら、劇場からは身を引け」

 言うと、その男は先に帰ってしまった。

 同じく去ろうとする技師を少し引き止め、調律の日取りを決めた。劇場の演奏機の話を訊きそびれたが、その日はそこでぼくらは別れた。

 静まった店内で、ぼくはピアノに歩み寄って、天板を開け、小曲を弾いた。Jはレモンを切ったり店の裏に果実を仕舞いに行き、貰い過ぎた分をぼくら店員に配り渡すことにしていた。

「稼ぎの分はきっちり弾く」と黙っていたJにきっぱり伝える。「さっきはああ言った。あれは確かに本音に近かった。でもぼくは仕事を嫌ってないし、この店のことは気に入ってるし、仕事の手は抜いていない。でもきみがぼくを解雇するって言ったらぼくの言い分もこれまでだけどさ」

「俺も雇われ店主だから判断は下せない」とJ。

「ただあんたは掛替えない。うちで雇うには惜しいくらい腕の良いピアノマンだ」

 無愛想なバーマンは微笑ひとつ浮かべなかった。ありがとうとぼくは伝えた。

 その日、ミュージックボックスの質は確かに良くなっていた。いつもどおり演奏に即興を加えたり昔の曲を思い出しながら、あの古い映画の曲をでまかせに弾いて思い出そうとしていた。

 表通りに映画館はない。街に映画俳優はいないらしい。映画はぼくら裏方向けの娯楽という扱いだった。大舞台は言うまでもなく外からのお客たちに開かれ、ぼくらは街の外から仕入れた映画を見て、小劇場はその中間、客と裏方の混ざり合う地区と言った所だった。そういう地区もあるにはある。そこから街に住み着く人間が生まれる。だいたいそうして迷い込む。人ひとり入り込める隙間を見付けられればの話だが。

 上映館はどこも地下にあったり、小劇場程の広さである。

 演劇に従事する者をもてなすぼくらも映画を見る。

 背負いきれなかった分の人生を他人の物語に託したいんだとかつてIが言ったようだった。

 余計みじめになるだけじゃないかってぼくは言った。

 Iは微笑して、しかし物悲しげな様子だった。

「夢とまやかしの街だから。虚像に耽るための街さ。想像だけで満足している。いや、まやかしと分かっていても想像に縋らなければならない」

 みじめだと分かっていても。

 叶わないものを引き受けて、背負いきれない分を忘れて、更に溜め込んだ分を物語で解消して、負担が消えることはなさそうだった。

 連鎖が終わりはしないとIは言った。人間の数は増える一方で、つらいことはなくならない。逃避だって決断だ。だからどんな人間であれ、俺は慰め続けると。

 男としてIを抱きしめるべきだったんじゃないかと今でも気に掛かっている。

 誰しも同じように悲しいとIは言った。多かれ少なかれぼくは悲しい。

 それから毎夜寝る前、あるいは昼頃に、0の本を読み進めた。決して難解ではないのだがなぜだか読めている気がしない。文字は読めるが内容を思い出しがたい。読み進めるうちに、これが、日記ではなくお話であることに(つまり、小説であることに)ようやく気付いた。それからは深く考えずただ書かれたとおりに読み進めればそれでよかった。けれどもそれは物語ではなかった。何かを背負い込もうとか救おうとか、そういう気概がありそうにない。何のために書いたのか? 日記でも物語でもない、現実でも理想的な嘘でもない、悲劇でも喜劇でもないそれを、ぼくは受け入れはしたものの扱いかねていた。本は、ぼくから何も引き受けてはくれないし、ぼくも何を汲み取って覚えておけばいいものか判断しかねた。よくもこれが売れて0の手に渡ったものだと考えた。よりによって悲劇と狂気ばかり身に引き受けた舞台俳優に。

 お話の中では人がただ生活していた。奇人狂人や英雄や悲劇の主人公はどこにもいない。しかしごく普通の善良な市民かと言えばそうとも限らないように見える。上辺は普通の人間だがよくよく付き合うと言い知れぬ奇怪さを知ることになる、そういう所だろうか。だからお話に身を委ねきれず、ためらった。きらびやかな虚構でも、生活を癒やす当り障りのない娯楽でもない。何のメッセージも持ち合わせていないその文章にぼくは困惑したのだった。

 それでも通読して、読後感は、あっけなかったが悪くはなかった。意図は最後まで汲み取れなかったが、感覚的な心地よさは身に残った。

 次の夜0が来たので本を返した。小さな本なので持ち歩いていた。

「色々聞きたい所はあるけど」

「他のも読んでみたらどうだ」

 こうやって貸し借りする間柄になった。開店前の店で話したり、彼の家で食事を作ってもらった。彼の蔵書のお話は皆、何も出来事が起きないか、事件に対する明白な回答がない。

「それも現実だ」と0は言う。「演劇が強調する現実とは反対側にあるもうひとつの現実。劇が提示するのは過剰さだが、こういう小説はその真逆」

 彼の自宅でよく本を見せて貰っていた。

「小説家に知り合いはいるの?」

 何気なく尋ねたのだが彼は片眉をわずかに吊り上げて、答えはしなかった。無回答について食い下がることはしなかった。時々秘匿が見付かっても、それはただそのままにして、箱をこじ開けようとはしなかった。箱の存在を隠し立てはしないが、中身に手を付けはしない。

 色あせてしみになってヤニを吸った、クリーム色の小花模様の古い壁紙に、洒落た彼は小さな額縁をさげて、絵はがきや紙面の切り抜きを飾っている。そのなかに1枚だけきちんと板張りされた油絵がある。はがき四方よりもひとまわり大きいだけのささやかな作品だった。抽象画らしく、かすれた茶色や淡いピンクの落ち着いた色合いで、何が描かれているのか分からない。普段気に留めはしなかったが、ある日の訪問で彼にいっとき留守を任されたとき、まじまじと絵を眺めていたら丁度彼が帰ってきて、何とは無しに指差して、「これは」と尋ねた。彼の口調は穏やかだった。しかし有無を言わせぬあのまなざしで、ただ一言「うん」と答え、絵の話はそこで終わった。

 絵に苦い思い出がある訳ではないらしい。以前ほかの趣味についての話をして、絵を描くことも嫌いではないと聞いていた。よって意味を帯びていたのはその絵画である。でもそれ以上踏み込んではならないとぼくは知っていて、彼も知っていて、だからぼくは誰の身の上も聞かない。

 芝居というのは物語の人物の身の上の暴露とも言える。その暴露では誰も傷ついたり詮索の過不足を考える必要がない。どんなに詮索しても問題はない。彼らはお芝居の中にしか実在しないからだ。それがやはりこの街の根拠のひとつなのではないかと思う。自分の人生にも他人の人生にも飢えきった人間が最後に街の芝居を求める。

 そうではない劇も世にはあまたあるのだと0は言った。でも少なくともこの街の劇は飢えを満たすためにあって、彼はそれに従事している。そのことをぼくは問い詰めない。

 街を離れるイメージが街の中にいては思い浮かばないように、街の良し悪しも街の内側にいては声を上げることもできない。

 ぼくらの友情は上手くいっていたのではないかと思う。巨大な慰みに従事する者として、踏み越えてはいけない線を互いに了承しやすかったし、盟友的な感覚さえ分かち合うことができた。かたや最前線に立つ英雄、かたや名もない一兵卒だが、それにしても度々現れる戦場のイメージの中で、ぼくたちは何と戦っているのだろう。

 彼の部屋にいるとき、ふと引いた目で彼の部屋を見渡し、そのまま視点を上方にもたげ、部屋を中心とした街の鳥瞰図を空想で思い描こうとしてみると、この部屋は小さな隠し穴のようであった。このはりぼての街の中に彼の居住地という穴が空いていることに密かに感慨を募らせていた。ぼくらは穴の中で休息した。考え事をするぼくはいつも上から物事を見ている気がする。鴉が見ている? それは分からない。

 これは全くの思いつきから始まったのだが、ぼくは最近他人の目をじっと覗き込む遊びを企てていた。相手は誰でもよく、賑わいのある通りで正面から向かってくる人々の目を次々に正視していく。大抵の人は視線に気付かないか、さっと顔を伏せるので、そういう時はぼくの勝ちとした。見つめ返された時ぼくが目を逸らしてしまったらぼくの負けとして、気を抜くと目を逸らしてしまうから、意識的に相手を見つめ続けるという奇妙な訓練に取り組んでいた。

 その日の昼食後、勝てないと分かっていながら0に勝負を挑んだ。ソファに身を沈めてコーヒーを頂いている時、ぼくはカップを置き、遊びを思い出し、正面に座る彼の灰色の目を正視した。仕掛けてから、勝てる訳なかったと早くも後悔の念が浮かんできたが、0はとてもフェアなもので、「何の遊び?」と冗談めかしてぼくに尋ねながらも、鋭い視線をぼくに返した。

「目を逸らしちゃいけない遊び」ぼくもフェアに返した。「最近、すれ違う他人にふっかけたりしてみてる。店の奴らにもやったよ。Mは馬鹿馬鹿しいってすぐ目を逸らして、Pは照れて、Jはそもそも気付かなかった」

 灰色の眼の中に放射状の虹彩を見出し、ギラギラと光るそれを見つめる。眼球それ自体はガラスの球体のように無機的な造形物だった。感情は眼球の周縁、睫毛の翳り方や眉や目尻の角度に宿るものらしい。くつろいで微かに微笑気味の彼は、これまでの付き合いもあり、殺気立ったものを見出して怯える必要はなくなったが、顔立ちに変わりはなく、気恥ずかしさを覚える程整っていて美しい。

「視線は慣れてるからな。注視されても動じてはいけない、本来的には。劇団の芝居は厳密な物語だ。物語は舞台の上だけで始まって終わり、その閉鎖系に客達の意思が入り込む余地はない。物語に客席は登場しないだろう? お話の中でお客に同意を求めたりする脚本も、あるにはあるが、基本的にうちの劇団では取り扱わない。声援に応える役者もいるが、おれはやらない。0への声援には応じない。だって物語の中に立っているのは登場人物であっておれではない。幕が下りて芝居が終わったら、俳優の0として挨拶には立つけど」

 今まで何度も思ったがこの友情はひどく不釣り合いだった。0が決して自らを鼻に掛けないから交友が成り立っている。

「けどさ、そう、客から向けられる視線っていうのは、存在しないことになっているだろ。物語の登場人物は観客を視認することが出来ない。でもおれは俳優だから、おれが、視線を感じているんだ。

 壮観だよ。舞台上のおれひとりに照明が当たって、おれが発する長い独白に皆が視線を注いでいる。全員だ。あの大劇場の何千人もの観客全員の視線を一点に感じている。凄いさ。でも登場人物は、視線を感じていない。おれは登場人物でありながら、俳優という演出家だろう、熱のこもった視線を登場人物の代わりに身に引き受けている。沸き立つ観客に応じるのは役じゃなくておれの方だ。演出家としてその瞬間の熱気を、その役の立ち振る舞いへと同調させる。あたかも観衆の期待に物語が応じたかのように。

 これ凄いことだろう? 一回舞台に立ってみろよなんて言えないけどさ。それでも期待の視線を一身に受けるのは震える思いだ。おれは舞台で我を晒さないし、主体はおれじゃなくて物語だ。だけど物語に向けられるまなざしをおれが媒介してるの、おれを通じて物語に浸透するの、凄いことじゃないか? おれが物語を代表している。

 分かる、伝わっているか? きみはどうだろう? 客前に立つ者としてきみはいつもどう思う?」

 一息に語った彼はその間一度たりとも視点をぶらすことなく、灰色に見開かれた目でぼくを刺し貫かんばかりに正視し続けた。「タイム」自ら視線を反らしがたいほど負けてしまったことを告白した。「負け。ぼくの負けです。ちょっと視線外していいかな」

「勿論。おつかれさま」

 彼はあっけなく目を伏せ席を立ち、すっかり冷めてしまったコーヒーのために新たな茶請けを取りに行った。

 生来のものである瞳の作用だけは抑え留めがたいのだろう。彼の実績は俳優技術の実力よりも、美貌とまなざしに起因するものが、残念ながら割合を多く占めているのではないかと考えた。技術も天才のそれだろうが、美貌を前にしてはそれさえも霞む。

 箱入りのチョコレートのアソートを開けた。ぼくはとりわけ小粒のチョコレートが大好きだったし、目の前にあるのはどう見ても表通りの高級店が取り扱っている品だった。「貰っても食べきれないから」と0。「もし良ければお店の方々にでも配ってくれ」

 目線をチョコレートに落として、今度は突き刺される思いをせず話をすることが出来た。

「ぼくは、仕事の相手が聴衆だから、視線には慣れていないんだろうね」

「やたら手先を観察してくる奴はいない?」

「いる。勉強家なのか通なのか知らないけど、きっとぼくもそういうことはしていたから気にならない。でも酒呑んでおのおの会話してって店だから、音楽は聴こえていればよくて、まじまじ見に来る人なんてそう多くない」

 だからとても気楽なものだった。頼まれた曲を弾く時も、ふさわしい曲を自分で選ぶ時もあり、いわゆる脚本のようなものはなく裁量はその日任せで、ろくに貯金がないことを除けば仕事には満足していたが、どうやらぼくの知れないところで色々の暗雲が立ち込め始めているのを、ぼくも彼も知っている。

「ぼくはさ、皆が思っている程できた人間じゃない。過大評価だよ。きっと。ぼくぐらいの奴なら街にいくらでもいるだろうし、他に一芸に秀でている訳でもないし。だからぼくを欲しがったとしても、そりゃ、腕を認められるのは嬉しいけれど、きっとすぐに飽きられるだろうと思う。ぼくは特別なことをしてないし正当な学問も積んでない」

「きみはなあ」と彼が言いかける。ぼくにチョコレートを勧める。中にヘーゼルナッツが練りこまれていて、なめらかな舌触りでとても美味しい。

「知りたくなるんだろうね。手中において時間を掛けて味わいたくなる。きみは生来的に人を癒やせるんだろう。不干渉をわきまえているから居心地がいい。聞き上手なんだよ。表の観客たちにとっては代わり映えないことかもしれないけど、おれたちにはありがたいんだ」

「きみはどうなのかな、ぼくのこと」

「欲しい、なんて思わないけど、金のある限りは店に通うよ」

「ありがとう」

「いいや、こちらこそ」

「でもぼくは皆に思われているほど真面目な奏者じゃない。これは本当に。ぼくが壇上でコンサートなんてしたらきっと破綻するって分かってる」

 彼がコーヒーを淹れなおしてくれようとしたが、止めて、水にして貰った。

 彼に話していいと思えたのは、彼がぼくに多くを語ってくれたからだろうし、彼は盟友だと思えた。

 目を合わせてはできない話だろうと語りながら思っていた。

「いつも目の前にあることとは違うものを頭のなかで考えてて、何かが集中しきれなくて、浮遊してんのかな、どこかで何かが冷めてる。いつも。演奏してるときもその場から自分が乖離していくような感じがして、ぼくは真面目に演奏してるのに、だから、没頭はしてるんだけど、ふとした時にどうして自分がピアノという楽器に触れているのか、自分のいる状況が疑わしくなる。それは、演奏中に限らずに。今だってきみと打ち明けながら、なんで自分がこんなことをきみに語っているのか分かってないし、こういうの失礼な振る舞いなんじゃないかって思うんだよ。どういう時でもいつも何かが引いてるし、別に自棄になりたい訳じゃないけど、自分に対する距離の遠さが確実にあるって分かっている。だから大舞台に立たされたり、演奏家としてのぼくを求められたら、ろくなことにならない」

「ズレてるんだね、自分で」

 相槌の声音から肯定も否定も感じ取れないので安心した。

「あの、俳優と演出家の例え。ぼくにもたぶん似たことができる。演奏に打ち込んでいる自分と店の様子を掴む自分が別々にいて、良い言い方をすれば冷静さが保たれているしサービスへの機転が利く。でも芸当の必要ない時でも、つまり自分を分ける必要のない時も分離した感覚の歯止めが効かないし、だからきっとこれは技巧じゃなくて性質なんだよね」

「うん」

「で、このままじゃ完全に自分が自分から剥がれきってしまうような気もしている。それも妄想だって分かってるけどさ。ぼくは歪んでいるというか、やっぱり自棄なのかも知れないけれど、破滅したい訳じゃない。死にたくはないよ、まだね。

 遊離している自分の感覚は、ぼくに真摯に付き合ってくれる人には失礼なことだと思ってる。けどぼくは最低な人間でさ、振る舞いを、改める気が少しもない。死にたくはないけれど、こんな奴だから、いつか消されるんだろうなって」

「X。それは駄目だ」

 遮る口調は静かだった。しかし表情にも声音にもあの鋭さが宿っていた。

「冗談でも、消えるなんて言うなよ。絶対に。ね、駄目だよ。おまえは消えちゃ駄目だ」

 遠い感覚がその時には消えた。

 いつだって苛まれている訳ではない。何もかも一過性だった。ぼくにとっては。

「……悪かった」

「悪くはないさ。きっとおまえ、疲れが溜まってる」

「きみには言われたくないよ」我ながら力なく笑った。きみが言ってはいけないよ、0。きみだって抱え込み過ぎだ。でも突破口は見付かりそうになかった。この穴だってどこにも繋がっていないのだ。

 きみが思うほどぼくは深刻ではない。

「色々言ったけどひどい不満がある訳ではないし、ピアノ弾くのは決して嫌いじゃない。自分の音楽は好きなんだよ。でもそれだけ。それ以上望まれたらかなわない。

 と、あの人に伝えてもらうのは駄目かな」

 期待してなどいなかったが見るからに彼の表情が曇る。

「あの人は手中に置ければ満足するから。蒐集家なんだよ、物も人も」

 よほどスケアクロウの一件を告げ口しようかと考えたが、彼との付き合いに劇場は関与しないし、対抗勢力も知ったことではない。

「息苦しいね」

 包括してぼくは呟いた。話題のどん詰まりを悟り、不意に彼が方向転換を図る。

「チョコは好き?」

「甘いものは好きだよ」

「この箱全部持っていってよ。いや、こっちは貰い物じゃなくておれが買った奴だから安心して。おれもたぶん買って満足する方で、食べきれなくなるんだ、未開封のもあるし。だから貰ってくれないか」

「なんか、貰ってばかりだな」

「十分ギブアンドテイクだよ。友達なんていないからさ」

 ぼくも何かをあげられたらいいのに本当に何も持ち合わせていない。

「ところでつかぬことを訊いていいかな。ノーコメントでも構わないんだけど」

「おれのこと?」

「恋人いるの?」

「それ。それだよ。それ、それが言いたかった」

 なぜかぼくを指差しながら彼は席を立った。「酒入れていいか?」と彼。

「ぼくは飲めない」

「ラム入りのチョコを開けよう」

「それは」

「貰い物」

「頂いていいなら、頂くよ」

 上品な深緑色の半ダース入りの小箱を挟み、「酒入れないとやってらんない。けどさ、酔いたいわけじゃないんだ。美味いものを摂りたいだけなんだよ」

 彼が一粒口に含んだので、ぼくもひとつ頂いた。

「ああ、利いてるね、風味」

「いいな、これ」

「これ女性から貰ったんでしょ」

「そう。ある女優がマメな人で、休暇はいるたびに菓子を買って仲間内に配るんだ。毎回。役者全員に配るから断れない。悪意はないが毎度貰ってもしょうがないだろ」

「贈り物が好きな人っているだろ」

「おれもそうなんだがね」

 非常に香り高いのだが、ぼくはもうのぼせかけていた。

「で、そう、恋人だが、長続きした試しがないんだ」

「ぼくに相談なら止めといた方がいいよ。全部『距離を置け』で返せる」

「何したんだ」

「初恋を引き摺ってる話と、店で酔いつぶれた女の子を介抱したら店を辞めさせられかけた話、どっちがいい」

「どっちの方が答えやすい?」

「酔った女の子の方。ひとりで来店したのか仲間に置いてかれたのか知らないけどさ。必要以上に親切にしたせいで、地獄を見た。平たく言えば男娼に貢げよって話で、懐かれてトラブルがあってぼくのせいだって言われて責任取って店辞めろって問い詰められて。ぼくは潔白で何もかも誤解だったんだけど、ぼくが独りで店の音楽を任され始めた頃の話だから、ぼくの人望なんてないし、あやうく言いくるめられそうになってもう最悪。結果的に店に出入り禁止になったのはその子の方だったけど。外から来たお客が迷い込んで来たらしかったから、もう二度と会わずに済むけどね」

「それが百倍あると思ってくれ」

「さすが人気俳優」

「勘弁してくれ」

 脚を投げ出し彼はふたつめのチョコを口に含む。仕方のないことだと思う。

「上手くいかないな。欲しいものは見付からないし、手に余るものばかり寄ってくる。高望みしたつもりはなかった。おれの望みとおれを取り巻く欲望が合致しない、まるで少しも、おれが間違ってるのかと疑うぐらい。笑われるだろうけど、おれはただ愛し愛されたいだけで、本当に、ただお互いを大事にして、お互いが良き理解者になれるような、関係を築きたかっただけでさ、でも今までろくに続いたことがなかったし、悪い噂はおれにばかり立っているようだし。

 いや、ここにいたら何も叶う訳ない、何事も。おれの問題なんて。

 ねえ、おれだって座長の持ち物なんだし」

 腕を上げ、肘で顔を覆い隠した彼はそのまま長椅子に脱力して横になった。ぼくは口寂しくなってもう1粒食べたが、分かっていたが結構強い。よくも酒場の仕事に就けたものだと半ば呆れさえも抱いた。上気してぼくもソファでだいぶ崩した姿勢を取り、茫然と、屋根裏部屋ゆえに傾斜のついた天井を眺めていた。壁紙についた染みが目に見えない微速で部屋を蝕む様子だとか、火照る頬に心地よい微風を受けていることに気付き、少し開いた窓から森を通過した風が入ってきているようで、その温度から、冬が終わり春が始まろうとするのを、予感した、そしたら街自体も少しは、ポスターや造花や風船や道化で飾り付けなくても、明るい色に染まるだろうか。昼間、外の往来という他人。すぐ傍にいる、なんでこいつとぼくが一緒に食事する仲なのか誰にも説明できない、出来過ぎた男。彼の部屋にいる。

 長い沈黙の息継ぎの瞬間とでもいうような、沈黙がちょうど緩むその瞬間に、彼が呟く。

「港行こう」

 双方顔を上げない。ぼくは、いいよと言った。任せるよ。

「本屋連れて行くよ。ほんの少し街を離れたほうがいいんだ、おれたち」

 あわよくば街を出たほうがいいよ、自分たち。

「港、ぼくは行ったことないんだ」

「海を見たことは」

「ないんだ」ぼくは天井を見ている。「覚えてない」

「連れて行くよ」


『Cipher』改定第五版
本文 p.3〜p.96/p.184 までを掲載しています。

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