水際の眼

 彼は、家の前の海で拾われた水死体だった。とてもきれいな身なりをしているからと兄が私に与えたのだった。死んで蒼白で痩せこけた彼は夜の水中のように深く暗いなにもうつさない眼をしていたので、いつからか私は水死体をヨドミ氏と呼んでいた。若い男の水死体だった。

 ヨドミ氏の世話は私の仕事で、といっても彼にほどこしてやることはほとんどなく、彼は食べることも眠ることもせず、毎日、家の板張りの廊下に定位置を取って、縁側から庭やその向こうの海をずっと眺めているらしかった。彼は頭からつま先まで水を滴らせて濡れていた。彼のたたずんだ場所は濡れてしみになるので、その掃除をするのが私だった。彼は犬猫よりもおとなしく、手間のかからない水死体だった。たまに海の方へふらふらと歩いていってしまうときは、見失わないように付き添った。入らないようにと言いつけた座敷の部屋には立ち入ろうともしなかった。濡れた水死体が歩いていいのは、廊下と浴室に限られた。

 彼は食べ物に興味がない。死んで、排泄も行わなかった。色々試していたら、あるとき、なんの味もないかき氷なら口に含んでくれると知った。スプーンですくって口にあてがうと、わずかに口を開いて氷を受け入れるのだ。味わったり、呑み込んだり、咀嚼する様子もない。ただ口のなかで溶けるのを溶けるままにさせていた。器やスプーンを見つめもしない。いつも遠くを見ているように、彼の眼は黒くよどんでいる。

「おいしい?」

 尋ねても返事はない。水死体は喋らない。

 ときどきかき氷を作って与えて、彼の散歩らしき彷徨に付き添った。庭に洗濯物を干す私をよそに、死者はいつも庭の向こうに広がる晴れた空と海を眺めていた。春の海は凪いでいた。その日は花束が流れ着いた。

 彼の素性も死因も知らない。彼はただ私にとって、よどんだ眼の水死体だった。

『入江にて』(『VANITAS』収録) / 『水色の火事に呑まれる』収録作品

link: 『入江にて』予告編

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