3月19日。
「おめでとう」とみんなに言われる。そのたびに「何が?」って答える。
「お誕生日でしょ」
けさトクはそういうこと言わなかったと聖は思い出す。朝ごはん作って、食べて、トクはスタジオに行って、聖は午前中ずっとギターを弾いて、松田くんに会いたくなったから事務所に来た。いまはレコーディングはしていないし、猫以外にだいじな用事はないし。暖かい日だった。モクレンなんかが咲いていて、地面に白い花びらをたくさん落としていた。
聖に話しかけてきた一人目はなんだかさわがしいベースくん。
「あ、聖さんおめでとー!」
「なにが?」
松田くんは聖と遊びあきて、カホンにもぐって寝息を立てている。
「お誕生日。聖さんメールつながらないから、今日会えるかなーって思ってたよー。ごはんもう食べた?」
ごはんの3語で松田くんの耳がぴくって動くけど、彼女はお昼寝を優先した。
ごはんと言われて聖は昼食がまだなのを思い出した。時刻はもうすぐ13時を回りそう。
というわけでカシマと一緒に、ファイネッジレコーズの近所の無国籍ラーメン屋「ワール堂」に来てみると、カメラマンのモールスがカウンター席で荒い息をつきながら麻婆麺を口に運んでいた。
「わ! 辛そう!」と声を上げるカシマに、いったい地球上のどこの出身なのか分からない店長がどこの言葉の訛りか分からない日本語で「四川ラーメン?」と割り入ってくる。この店は食券制だが、暇なときは直接注文でもいい。そしてこの店はたいてい暇している。件のメニューを食べているモールスが「やめとけ」と口パクで訴えるのを認めて、カシマは食券で「カツめん」を買ってみる。この料理は一般的にはパーコー麺として知られている。
聖は「小チャーハン」の食券を「オムライス」と言って店長に手渡して、ふたりはモールスの隣に座った。
「隠しメニュー? 通っぽい!」
聖が頼んだオムライスは、薄焼き玉子でケチャップライスを包んだ喫茶店で出てくるようなオムライスで、少なくともふつうのラーメン屋では絶対に出てこない。皿の脇には彩りのプチトマトとパセリも乗っているし、玉子にはつまようじで作った旗まで立っている。つまようじに巻きつけた付箋紙に手書きで、Happy Birthday の文字。
「言ったっけ」と首を傾げて聖は旗を抜く。
「おめでとーございます」とモールス。
「モールスにも言ったっけ」
「や、えーとほら、このまえの、年度末の書類のやつで、見ちゃったカナ〜って……」
「聖さん何歳?」と、“パーコーパーコーパーコー麺”ぐらいの肉の量のパーコー麺が届いたカシマが訊く。
口をもぐもぐさせる聖が指で示した数字は、カシマの想像よりも2つ多い。
「え! タメだと思ってた!」
「俺の2こ上っす」とモールス。
「ん」聖はパセリを食べる。カシマは指折り数を数える。「じゃあ、聖さんはセンパイの1こ下? センパイと和田さんと弟子丸さんがタメだから」
「わかんない」と聖は返す。誰が年上とか年下なんてわかんない。オムライスおいしい。
店長がおもむろにテーブルに杏仁豆腐を置いた。「これ誕生日サービス」モールスとカシマの分も合わせて、小皿が3人前。食べるたびに唇と胃腸が痛くなるのに、ワール堂の赤い中華料理に取り憑かれて注文を止められないモールスは、手を上げて食後のデザートを拝んだ。
「そうだ、写真撮っていいっすか? 誕生日でーす、って。なんか最近会報誌作るってはなしだし、オフショットたくさん使うかも」
というわけでオムライスを食べている途中の聖を、カシマと店長が囲んで、チーズ。
「おめでとー」
「ありがとー」
「あー! おなかいっぱい! あれ3人分ぐらいなかった?」
と、まだまだ食い盛りの大学生男子に言わしめるパーコー麺を完食したカシマ、おこさまサイズのオムライスで満足した聖(杏仁豆腐おいしい)、麻婆麺に文字通りに辛勝したモールスは、ゆっくりとした足取りで事務所に戻る。カシマの携帯が鳴った。“着メロ”は「Paranoid Android」の単音メロディ。個別に設定した着メロで相手を察したカシマは、げっぷが出そうになるのを咳き込んで我慢して、あわてて電話に出る。
「明日未ちゃん!?」
彼女はたっぷりと沈黙を挟んでからささやく。
『――いま、あなたの後ろにいるの』
市松人形のような重い前髪の長髪の明日未が、振り返る3人に向かった薄くほほえむ。気付かなかったのが不思議なぐらい本当にすぐ近くにいた。彼女には存外にいたずら好きのところがあるが、ダークな趣味がときどき洒落にならない。
「皆さん前を歩いてらっしゃって、後ろをつけてみたのですが、気付いていらっしゃらないようでしたので。皆さんは事務所へ?」
というなりゆきで明日未も一団に加わった。
「本当は先に聖さんにお電話したんですよ」
言われて聖が携帯電話を開くと、着信履歴2件とメールが溜まっていた。電話の主は明日未ちゃんと、ほかに午前中に1件。めずらしい人だった。電話の相手は事務所で待っていた。
「よっす」
カシマのバンド 環-Tamaki- のドラマー・和田が応接間のソファに座っていた。来客用のソファのはずだが、社員や所属ミュージシャンがくつろいでいることの方が多い。革張りの表面は猫が爪を研いでいるせいでみすぼらしい。
「来ないかと思ってた」そういう和田もすこし前に着いたばかりのようだった。
「あの、電話……」
「いいよいいよ。何色が好きかって訊こうとしただけ。黄色のスイートピーか薄ピンク系か迷ったんだよな。でも結局これにしちゃった」
と言って和田が紙袋から取り出したのは、包装紙で巻いた桜の枝だった。
「えっ! 和田さん枝折っちゃったの!? ダメだよ!」とカシマ。
「切り花用の品種ですよ」と明日未がささやく。
「いくらオレでもリンカーンじゃねえんだからそのへんの枝は折らねえよ」
ワシントンなんだけどなとモールスは思った。和田は花屋に勤めている。
「聖くんお誕生日おめでと~。結局オレが好きで選んじゃったから、いらなかったらオレが持ち帰るんで」
「言ったっけ」
「まま、そのへん気にしないで」
街路樹のソメイヨシノは、日向に伸びた枝の先が開花しはじめた頃だった。切り花の桜はすでに満開で、ソメイヨシノよりもやや色の濃い薄桃色の花びらだった。
「ん……ありがと」と聖ははにかんで受け取る。悪くない。かわいい。
「花が終わっても、水換えてあげて、発根したら鉢植えにできるよ」
「すご」聖にはそちらのほうが興味深い。
ここでも写真撮影がはじまろうとしたその前に、明日未がかばんのなかから小包を取り出した。
「私からも、お誕生日おめでとうございます。実はちょっと聞いちゃいました」
小さな包装を開けてみると、中身はハンドクリームだった。
「事務所に置いておこうと思ったんですが、今日お会いできてよかったです。香りの弱いものを選びましたが、お嫌いでないといいのですが」
少し手にとって伸ばしてみると、思っていたよりもべたつかないし、薬局のハンドクリームよりもなんかいい匂いがする。外国の歯磨き粉みたいなチューブがかっこいい。
「え、なんか……かわいい。ありがとー」
さて改めて記念撮影タイム、と思った矢先に、またも聖の電話が鳴った。聖にはカシマのように相手によって着信音を変えるマメさはない。
電話に出ると、『どうも〜。お誕生日おめでとう。メール見てくれました?』と尻上がりのイントネーションの猫なで声のうさんくさい男の声が聞こえてくる。
「しらない」と聖。
『聖クンいまどこに居るん?』
「ファイネッジ」
『渋谷かぁ〜』と小澤が独りごちる。『いま吉祥寺に来てんねんけど、近く寄ったからお茶でもできひんかなって……』
「電車のってこっち来なよ」
と言って、横で「誰々?」と聞き耳を立てているカシマに携帯を押し付けた。
「もしもしー。小澤さん!」
『あれ、聖クン?』
「カシマでーす」
『ちょ、聖クンにプレゼント……』
横から和田が携帯を抜き取った。「どうも〜」
『聖クンにお誕生日のお祝いしたいから、今日ご都合どう? ってメールして、帰ってこんし、おうち居るなら吉祥寺あたりでお茶でもしよかな〜って思ったんやけど、なに? みんなそっちにおるん?』
和田が携帯のマイクを指で塞いで、聖に「プレゼント渡したいんだって」と伝える。
「事務所とおして」と聖。
「事務所通せだって」と和田。
『はー。聖クンも売れっ子やな。知らん間に出世して、嬉しいわぁ……』と言う小澤の声の背後から井の頭線のメロディが聞こえる。『ほなまた』と電話が切れる。
「お花てきには早く帰ってお水いれたいんだけど」と聖。
「待っててあげなよ」と和田が引き止める。「これで聖クンいなかったら、オレが文句言われるもん」
「小澤さんはお暇なんでしょうか?」と大学生の明日未が首をかしげる。「カラオケの印税って、いくらぐらい頂けるんでしょう」
電話から約30分後、大きな紙袋を手に提げた小澤がファイネッジレコーズの扉を叩いた。起きてきた松田くんが来客の足元を一応ぐるりと見回り、小澤の履いていたツイード織りのパンツは猫の毛まみれになった。マーキングを済ませて満足した松田くんはふたたび寝に戻る。モールスは小澤にコロコロテープを貸し出した。
聖、カシマ、和田、明日未、事務所のモールスと、思いのほか多い面々に、「なに? お誕生日パーティーもう始まってたん?」と小澤が尋ねる。彼が来るまでの待ち時間、事務所の面々が何をしていたかというと、壁に飾られていた謎の弦楽器を皆で弾いて遊んでいた。1〜4弦が複弦の6コース10弦のリュートのような撥弦楽器で、玉ねぎみたいな形のボディのテールピースの上に謎の四角ボタンが6つ乗っている。ボタンを押すとテコの原理でピアノのハンマーのように弦を叩いて音を鳴らすことができる。ペグがないのでヘッドレス形状のギターに似ていなくもない。
小澤には心当たりがあった。「イングリッシュギター?」
「知ってるの!?」
聖は適当にコードっぽくかき鳴らしていた。「チューニングできる?」と小澤に渡す。
「ここに弦の引っ掛けがついてて、ペグがないかわりにここを引っ張ってな……」
「なんで知ってんの」とその場の全員が呆れ混じりに感心する。
「大学んときに伊野さんが……」
しばらくイングリッシュギターを触った小澤は、指弾きと鍵盤弾きを交えてバロック調の『誕生日の歌』を披露した。リゾネーターがついているので金属的な共鳴の音色がきらびやかで美しい。ハンマーを使った音はチェンバロに似た音色だった。
ファイネッジレコーズ名物の“なぜか置いてある謎の楽器”をまじまじと眺めて「いや……ええなこれ……曲……レンタルって……?」と何やらつぶやく小澤に、「何しに来たんだよザワさん」と和田が思わず突っ込む。
小澤はイングリッシュギターを明日未に手渡して、応接間の机の真ん中に紙袋を置いた。
中身は、しょうゆ瓶、緑茶のティーバッグ、山椒じゃこ、阿闍梨餅、だしパック。
「お母さんの仕送り!」とカシマ。
「なに言うてますの、僕は真剣に聖クンの喜ぶものを選んで……」
「阿闍梨餅おいしいっすよね」とモールスがフォローする。「日持ちしないからなかなかお土産にもらえなくて」
「でも、銀座のデパ地下で売ってるって聞きました」と明日未。
「えっ」小澤のプレゼントはわざわざ京都から集めたお土産のようだった。
モールスが卓上いっぱいのプレゼントの写真を撮る。写りたがりの小澤が自分が選んだ品物のひとつひとつを手にとって自分の顔の隣に掲げていく。「この写真うちの会報に載せていいのかなあ」とモールスは首をかしげる。小澤のオフショットを見たいSIGNALREDSのファンの方が、ファイネッジレコーズ所属アーティストのファンの総数よりも多いはずだ。
ついで小澤は別の袋を開ける。「あとこっちはうちの桜餅……待て待て、みんなの分はない」たかりに来たカシマと和田をいさめる。
「桜餅って、関東・関西でちがうんだよね?」
「薄い生地を巻いたものと、お餅みたいな見た目のやつですね」
「言うてうちは長明寺も道明寺もずっと作ってるからなあ」
「おかしいっぱいですごい」と聖。
「これは田邊くんと頂いてください」
あとこれ。と更に出てくるプレゼント。最後に渡されたのはCD-Rだった。「イタリアンプログレのコンピ」
「え、ありがと」聖は受け取って、小澤の手書きでメモされたアーティスト名を一瞥する。知らない名前もある。実は一番嬉しいかも。
阿闍梨餅だけこの場にいる面々で開封した。
「花見っぽいじゃん。桜あるよ」と和田が桜の枝を机の中央に立てた。明日未はイングリッシュギターの鍵盤奏法を練習している。
「明日未ちゃんのサイケフォーク見たいわあ」「アコギの明日未ちゃん聴きたい!」という周りの声に、当人ははっきりと答えず薄く笑っている。
聖の足元でガサガサと音がして、皆がテーブルの下を覗き込むと、紙袋に松田くんが収まっている。聖は指先を松田くんの鼻に近づける。松田くんの鼻とタッチ。そのまま眉間をなでた。
日暮れ前には家に帰りたい聖の希望で、お茶会のあとは適当に解散となった。しょうゆ瓶が重い。小澤クンのは吉祥寺で貰っとけばよかったと聖は思った。おゆうはんどうしよう。おしょうゆあるけど。冷食でいいかな。トク、たべてくるのかな。花を活ける瓶がないのはお酒の瓶でいいか。イヤホンで耳を塞いで音楽を聴きながらも、聴いている歌と関係のない考え事ばかり生まれてしまう。
重い荷物を抱えて帰り、ベランダの掃き出し窓を開け放って、まだ明るい空をぼんやりと見ている。
いろいろな色と形の花が咲いていて、いろいろな色と形の新緑が木々に芽吹いているこの季節は、なにか天国っぽくて、聖はこわい。居心地の良いものは同時にこわい。森の枝葉をゆらして駆け抜ける生ぬるい南風が、胸の内側にも吹いているみたいだった。
トクは何時に帰るって言ってたっけ。
携帯を開いて、未読のメールが溜まっていたのを思い出して、メールボックスを開く。小澤からのメール数件と、あとは伊野さんから1通来ていた。『お誕生日おめでとう!』の末尾に猫の絵文字つき。イングリッシュギターについて尋ねるとメールが帰ってきた。たしかに大学生のころに京都の民族楽器店で小澤と一緒に見かけたことがあったとのこと。
『あれはめっちゃ珍しいよ! 鍵盤ついてるのはピアノ・フォルテ・ギターとかって呼ばれてて、当時の楽器は博物館に収蔵されてるよ。流行ったのはほんの一瞬で、けっこうかわいそうな歴史があるんだよね……。日本だと、浜松の博物館にあったかな? 社長さんが持ってるのはさすがに18世紀当時の本物じゃないと思うけど、なんであるの?
あと小澤くんは突然押しかけてごめんね。私も行きたかったんだけど、今日は別の用事があったから、小澤くんには私いちおしのちりめんじゃこを入れてもらいました! おにぎりにすると美味しいからオススメです!』
お礼の短いメールを返して、空を見上げると、青空はさっきよりも少しピンク色だ。風が冷たくなったので窓を閉めた聖は、冬の残り香のような風の冷たさに少し安堵を覚えていること自覚した。
いつでも内心のどこかには冷たい風が吹いていて、早春に吹き荒れる海風のように聖を押し戻したりどこかへ突き動かそうとする。青空と風の狭間で頼りない心。でもだから、音楽も料理も続けることができる、と信じる。
それから、小澤クンのくれたコンピを聴いて過ごして、日が暮れはじめた頃に、玄関先が騒がしくなった。階段を登ってくるのがトクひとりの足音ではないので、もう誰が来るのか分かっている。
「ハッピバースデー、お、いっぱい貰ったみたいじゃん」リボンつきの大きな袋を脇に抱えた青野が、机の上の桜の枝や小澤に貰った紙袋を眺めて楽しげに頷いている。
「聖、腹減ってる? 今日は出前頼もうかなって……」スーパーのビニール袋を両手に提げた田邊が言う。中身はお酒やジュースが色々。「ピザとか、おれはなんでもいいんだけど」
「あの、あじゃりもちとさくらもち貰った」
「ほらケーキ買わなくてよかっただろ」と青野。「そばとか天丼の出前もいいんじゃない?」
「じゃあピザたべる」ピザの方が食べ残しを余らせておくことができるから良さそうだ。青野と田邊が注文を考えているのをよそに、聖は「あけていい?」と袋を指差す。
「どうぞどうぞ」
「んん……ギターシンセ」
「自分で買ってください」
袋は軽くてふわふわしているので、エフェクターでないのは確か。
ピンクの袋から水色のリボンを解いて開けてみたら、袋に詰まっていたのはねこちゃんのぬいぐるみだった。デフォルメされた見た目だが、大きさは本物の猫と同じくらい。「ねこちゃん」は聖が気に入っている女児向けのキャラクターグッズだった。聖は「みけちゃん」のキーホルダーを携帯につけている。貰ったぬいぐるみも「みけちゃん」だった。この「ねこちゃん」ぬいぐるみはクレーンゲームの景品で、雑貨屋では手に入らない。
「我々の格闘の結晶ですとも」
「取れてよかった」と田邊。
「これ、トクがとったの」
「横から、おれが見てて、レバーのタイミングを教えて」
「ボタンの操作は俺」
「BGMがいっつも同じだからそれも覚えて」
「あの筐体は2と4分の3拍目で切り返すと絶対取れる場所に来る」
なに言ってんだろう、と思いながら、みけちゃんはかわいいので、みけちゃんを持って二人をねこぱんちしに行った。「にゃー」かわいい。「トクもだっこしていいよ」と差し出すと、田邊はみけちゃんの頭をずっとポンポンしている。
ピザ屋への電話を終えた青野が、「結局全部でなに貰ったの?」と尋ね、聖は昼からの記憶を思い出す。
「ワール堂でモールスとカシマくんとごはんたべて、お店のひとが杏仁豆腐くれて。
明日未ちゃんがなんかハンドクリームくれて。
和田ちゃんが桜のお花くれて。
小澤クンが、あじゃりもちとー、さくらもちとー、おしょうゆと、だしパックと、お茶、いっぱいくれて、伊野さんがちりめんじゃこ。あと小澤クンの趣味のプログレのコンピ。
あとね、松田くんと遊んでたのと、なんか、古いギターがあったから弾いてた」
「上に変なボタン乗ってるやつだろ? あれ何なの?」
「イギリスのギターって伊野さんが教えてくれた」青野には携帯のメール画面を見せた。
「阿闍梨餅もう開いてる」と田邊が箱を見た。
「みんな食べたいって言ってたから」
「日持ちしないって前に古屋さんも言ってたな」
「それ銀座のデパ地下にも売ってるよ」と青野。
聖は思い出した。「明日未ちゃんにおしえたでしょ」
青野は少し考え込んでから、「教えたかも」
「あ、あとさあ……」と更に尋ねようとしていたら、机を片付けている田邊に呼ばれて、卓上に出していたプレゼントを全部片付け直した。みけちゃんは汚れないように脇に置いておいたが、思いついてトクの電子ドラムの椅子に座らせた。「ドラムのねこちゃん」「かわいい」「かわいい」
ピザが届いて、箱を開けて、買ってきた小瓶のウォッカをジンジャーエールで割って、ライブハウスで売ってるような薄いモスコミュールを用意した。
「じゃあ、あの、改めて、聖、今日は誕生日おめでと」
田邊の音頭で、さんにんは乾杯した。
3月20日。
朝方はまだ冷える。
雑魚寝の床から聖は目覚める。
結局、聖と青野で、だらだらと、買ってきたお酒は全部開けてしまって、録画していた教育テレビの動物番組を見て夜を過ごした。青野が泊まっていくのに田邊は了承していて、最近買った来客用布団が早速役立った(布団には青野も出資していた)。そして宅飲みにしては健康的な時間に皆就寝した。
カーテンの隙間から青空が覗いている。朝焼けの時刻は過ぎて、すっきりとした冷涼な光が、床を出た聖の身体を冷やした。
食卓の上はぐちゃぐちゃ。昨晩食べきれなかったピザをひとつの箱にまとめて置いたミックスピザと、桜餅の余りに、パーティー開きして食べきっていないポテトチップスに、潰れた空き缶・空き缶・空き缶。桜の枝の切り花は、ぐちゃぐちゃな食卓のなかで我関せずなふうにりんと咲いている。
机の上の楽しかった惨状と、まだ眠っているふたりを眺めて、聖はデジャブを体験する。青野クンの実家に泊まったときもこういう気分だった。
暇だから、二度寝する気もないから、みんなを叩き起こしてもいいんだけど。一通りの身支度を済ませたあと、聖はキッチンに立って考える。適当に米を炊いている間に、聖はだしパックの説明書きを読む。お湯を沸かしてだしを取り、だし汁をお玉にとって味見する。冷蔵庫の引き出しを適当にあさって、半端にあまったキャベツが見つかったので、味噌汁の具材はこれでOK。だしがらに調味料を入れて炒めて水分を飛ばすとふりかけになると説明書きにあったので、フライパンを出してそのとおりに作ってみる。
1DKのキッチンと寝床を隔てる引き戸が開いた。先に起きるのはトクだと思ってたが、あくびを手で抑えた青野が「おはよ」と聖に声をかけた。「洗面所借りるよ」
「あのさ」聖が引き止めた。「みんなにおしえたの青野クンでしょ」
「みんな? 何が?」
「あの、誕生日教えたでしょ。だって言ってないもん。教えてないもん」
追求しようとしたら彼は洗面所にさっと行ってしまった。別に責めてるわけじゃないのに。
帰ってきた青野は「主犯がひとりとは限らないんだな」といつもどおりわけわからないことを言ってごまかそうとしている。「俺は口が達者なフィクサー気取り」
米が炊けるピー音で会話は中断された。聖はだし汁を沸かしなおして、洗ってちぎったキャベツを投入。
「青野クンはおにぎり作って」
「ええ?」
「半分ふりかけつかって、半分ちりめんじゃこのやつにするの。まぜまぜするのとパラパラするのにして。手洗って。つまみ食いしちゃだめ」
中学生の調理実習以来自炊をしたことのない青野が、ラップで米を包もうとして「ぅあっつ」と声を上げる。
聖は味噌汁を仕上げる。キャベツの甘い味が好きだった。
なんだかんだで手先の器用な青野は、聖よりもおにぎりを均等なサイズに作るのが上手い。
洗い物を終えて手が空いた聖は作業中の青野を横で見ている。「手伝わないのかよ」と青野が微苦笑して独りごちる。青野を無視して、
「今日天気いいじゃん。どっか行きたい」
「車?」
「なんでも」
「海? 山?」
「じゃあ海行く」
「トクは暇なのか?」
「起きたらきいてみる」
「車なら、飯食ったら取りに行くよ」
「ん……青野クン」
「なんでしょう」
「でも、ありがと」
「でもって、なんだよ」
そのように茶色い朝ごはんが出来上がった。
起床した田邊には、予定を訊くよりも先に「ありがと」と伝えた。