BlueWall / 降霊術

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 顔を上げると、締め切られたガラス戸の向こうでふたりはまだ議論を重ねていた。
 地下のスタジオは日の光が当たる世界から切り離された冥界のようで、地下室は宵闇色に青い壁で、ここはさながら冥界下りだ、と、青野はときどき連想する。
 彼は渦中のスタジオを出て、ロビーで、座面の内綿が妙にふわふわした古い合皮のソファに席をとり、ドリンクサーバーの水で口を湿らせながら曲の詞を直していた。

 聖の内奥にサディストがいることに多くの批評家は言及を避ける。人々は芸術的あるいは難解という評価を使って、聖が試す表現の限界を測った。休日も平日も猫をなでてあいまいにへらへら笑っている少年のようなギタリストが関心を寄せるものは、音楽の形式で表現される耐久試験だった。構成や展開を遠心力にかけた音楽がどれほどのあいだ自壊せずに音楽のかたちを保てるのか、また音楽を聴く人は聖の幻視する音楽に着いて来れるのか、不協和音を耐え抜いた先に前人未到のハーモニーが現れるのか。耐久実験の対象には自分たち奏者自身も含まれていた。聖は探検を愛して暗闇にどんどん足を踏み入れるが、万人がその歩調に着いて行けるわけではない。
 次のアルバムの5曲目が1トラック37分に膨らもうとしている。
「長いんだって」田邊が異論を挟んだ。これはさっき行われた会話だ。「聖、集中力が持たない」
「トクなら出来るでしょ」、同じバンドのドラマーに全幅の信頼を寄せて聖がすかさず反論した。
 スタジオの壁面は紺青色プルシャンブルーで塗り潰されている。光の反射でひとびとの姿は青ざめて見えた。
「できるよ」、とつとつと田邊は続ける。「おれはできるけど、それで、これが良くなるとは思わない」
 田邊も商業主義の理由で進言しているわけではない。彼は踊れる4つ打ちよりも己の信じる美しさを希求しているが、彼は軽快で聴き取りやすい方法がときには最適解であることも知っている。彼の審美眼は吹奏楽部の長い経験や、スタジオミュージシャンとして王道のJポップや広告のサウンドに関わった経験、さらにはアタックの瞬間のみ音が生まれる打楽器の特性にも影響されているのかもしれないが、音楽の拡張性を強調する聖とは異なり、田邊の価値観は“適切に刻むこと”と“適切な間”を尊重している。極端にシンプルに言えば聖は巨大なうねりを好み、田邊は細かな集積を重視している。
「じゃあ、なに、5分に分けて、ふつうになれってこと? ふつうの、ふんいきだけの曲になるの?」
 熱のこもった声を抑えない聖に、田邊は辛抱強く付き合い、話題は繰り返しをたどった。
「もし5分で区切っても、おれたちがつまらないはずがないだろ」
「7回フレーズを繰り返すからいいの、何回もやって、飽きたと思ったらちがってて、ループじゃなくて、上に登ってくような、一番高い塔になりたい」
 声音の雲行きが怪しくなり(涙声になりそうだ)平行線をたどる議論を前に、青野は「休もう」と声を上げた。誰の返事も待たずに青野はベースをスタンドに立てて部屋を出た。彼だけがもつ伝家宝刀も使った――「歌詞を直してくる」

 それが“ついさっき”の出来事だった。“ついさっき”のことだと思っていたが、地下室では時の流れを体感しづらい。スタジオは朝から終日借りていたので、彼らは地下に降りてから一度もまともに時計を見ていない。

 恵比寿の、名前が中国語だかで誰も覚えられないのでバンドのメンバーが青壁と呼んでいたリハーサル/レコーディングスタジオはすべての部屋と廊下、トイレの個室の便器に至るまで壁面が同じ紺青色に塗られている。そこを使っているのは詩的な理由からではなく、超現実的な色彩に浸って溢れる脳内麻薬に期待しているわけでもなく(ただし期待がまったく無いとは言い切れない――と青野は思っていた)、価格と駐車場とエンジニアと機材が希望条件に叶うからで、ようするにテクニカルな事情に過ぎなかった。
 3人はアイディアを持ち寄って曲を作り、曲の総量と輪郭が見えたあとに、青野が曲の意味を考える。万人を置いてけぼりにしがちな物語のないアンサンブルから青野が見出した意味を歌詞にまとめて、言葉をボリューム0のパートとして作品に加える。彼はDrive to Plutoの歌詞を、曲が抱える巨大な謎から人々をすくい上げるささやかな装置なのだと考えた。Drive to Plutoの歌を聴く人が暗闇で迷子にならないために、言葉は小さなランタンになって頭の中をすこしだけ照らす。

 スタジオの扉が開き、わずかな疲労以外には感情を見せずに、田邊がソファに座る青野を見下ろした。比較的彫りの深い彼の顔にかかる鼻筋の影を青野は見上げた。青野はさっき書き終えたページをぱらぱらとめくり自分で確かめ、田邊もページに文字が書かれていることをちらりと見ると、ドリンクサーバーのコーラを注いでソファの離れた席に座り、手指を揉んで疲れを休めた。誰も地下室の階段を上がって外に出ようとはしない。誰も階段を降りてこない。青野はノートの言葉に打消線を引いて矢印で別の単語につなげた。何度もそれを繰り返している。
 青ざめた地下室で時間の流れはあいまいだった。青空と夜空の運行と異なり、地下室の壁は永遠に同じ青色で停止している。宵闇あるいは日が登ることのない明け方の永遠に終わらないブルーモーメントのまま、地球の自転が止まったみたいだ。今が黄昏時か丑三つ時かは分からないが、お化けが出てもおかしくない。
 沈黙のなかそれぞれの休憩時間を過ごし、ふと気付けば、スタジオの扉の向こうから、伴奏のない歌声がかすかにロビーにまで伝わってくる。締め切った扉を隔てて聞こえる歌は、気のせいにしてもおかしくないほどささやかな音量で、いま扉の向こうではギタリストがひとりで声を張り上げて歌っているらしい。大量のエフェクターと技法で武装したギターの奏法に比べれば、生身の歌声はあまりに素朴でテクニックを欠いている。彼の声はちょっとした物音でもかき消えそうで、泣き出す寸前の子供の声に似て、張りがなく頼りない。ロビーにいる人々は歌が終わるまで身じろぎもせず押し黙っていた。聖はカラオケが嫌いで、誘うと機嫌を悪くする。
 青野は言葉の舌触りを確かめるために声に出さずに一緒に歌う。歌詞の道案内に頼っているのはメンバーも同じだった。
 さっきここへ来る前に飲み干したスターバックスコーヒーのセイレーンがゴミ箱の隅で笑っている。

 しばらくして、スタジオの扉が静かに開いた。ぶすったれた猫を彷彿とさせる顔をして現れた聖はドリンクサーバーのカルピスを注ぎ、「ここのやつ、薄いよね」と上っ面だけ声をかけ、喉を鳴らしながらカルピスウォーターを飲んだ。コップ一杯の飲み物を飲みきってから、聖は、「それで、どうすんの」と青野に問いかけた。
 はじめから闇のすべてがあまさず照らされることはない。書いたことよりもむしろ打ち消し線を引いた言葉と、書くことをためらって書かなかった言葉を思い出しながら、青野はページをめくり「まあ、長いよ」と、なるべく感情を持たない声音で口を開いた。「よそとやるライブでは、聴かせられないよな」言葉を選びながら続けた。田邊が足を組み直した。
「ツーマンライブの限られた時間で聴かせてあげられる機会は、大事だし、37分ノーカットの密度はすごく……鬼気迫るけど……風通しが悪いのかな。アドリブの入れようがなさそうで、遊べそうな隙間が全部もう埋まってる感じだった。
 俺は切った方がいいと思うけど、捨てちゃうんじゃなくて、パートに分けたほうが良い。そしたら、個々のパートごとにアレンジの可能性がぐっと詰まるし、曲と曲の間に拡張性が生まれて、セトリで既存の曲を挟んだり、アレンジの仕方も変えられて、ライブでレコーディングの再現でないものをお客さんに伝えられると思う。
 でも、レコーディングは、俺は、通しでいいよ」
 喋り終わり口を閉ざしても、異論を挟む者はなく、田邊は席を立って紙コップをゴミ箱に捨てた。青野は自分でも意外に深くため息をついて、ノートを閉じ、肩を鳴らして立ち上がった。青野クン。と小さく聴こえた。
「青野クン、やるのは、青野くんなんだからね」
 紺青色の地下室の光のなかで聖の金髪は白髪に近い透明色に見え、頭皮の油分でつやが浮いている。はじめてのライブで難題を押し付けてきた時よりも、聖は透徹さを増し、冷酷になって、バンドの音は聖の信じる音楽の要望通りにチューニングされた。でも、バンドが奏でる音楽は聖の意図も飛び越えて、歌は聖の制御できない歌になり、聖は密かに困惑を深める。歌は聖の意図だけではなく、田邊の理想も青野がつむぐ言葉からも離れて、誰も知らない場所へ遠ざかる。

 青野は、美しさは闇のなかにあると思う。美しさは手を伸ばしても指の間をすり抜けて、闇を光で照らしたときには光の届かない別の闇のなかに逃れてしまう。言葉が闇に分け入るとき、光で照らすことのできなかったもの、書こうとして書けなかった言葉のなかに美しさは隠れている。意識の底には大量の書けなかった言葉が沈殿していて、記憶の底には言えなかった言葉が降り注ぎ、伝わらなかった会話の意図がヘンゼルとグレーテルの落としたパンくずみたいに転々と地にこぼれ落ちて、でも絶対に、言えなかった言葉も無駄ではないと、青野はときに祈りを捧げたくなる。
 ベーシストはスタジオに戻ってジャズベースのストラップを肩にかけた。
 でも、どんなに言葉を弄しても「美しさ」が潜む暗闇にレトリックは通じない。録音できる音楽は演奏できた音楽だけだ。レトリックを弄することを手放して、楽器を演奏する肉体が運動を通じて音楽を呼び出し、レコーディングやライブステージに「降ろす」ことでしか音楽の美しさを現前させる方法はなかった。それは降霊術みたいだなと配線とエフェクターボードをチェックしながら、青野は何度も挑んだ儀式によってすでに呼び出されているはずのなんらかの不可視の存在を想像している。青野が名前をつけた怪物。Drive to Plutoと名乗る怪物。

 慣れ親しんだレトリックを頭の片隅に追いやる。
 鏡に映った己の姿を見る。フェンダー・ジャズベースのローズウッドの指板。
 同じ場所がすり減ったフレット。楽器のかたちに歪んだ指先。
 レトリックにはその場で観察してもらう。あとで可能な限り正確な言葉を見つけ出せるように。
 ゴミ箱のセイレーンは笑っている。
 ひとりでは出来ないことをする。
 向かい合い同時に息をつく、聖が彼を見る、瞬間、
 別にこいつらの、怪物おまえの代わりに、俺の身体はここにいるわけではないよなと、ふと確信した。

Drive to Pluto
3rd Full Album 『she/see/sea』 FER-303
2001.7.11 On Sale ¥3200(税抜)

1. intro/幽霊たち
2. 鉛色の空
3. 夜光人間
4. なぎさ
5. ナイトフライト (Part.1)
6. ナイトフライト (Part.2 – echolocation)
7. ナイトフライト (Part.3)
8. ナイトフライト (Part.4)
9. ナイトフライト (Part.5)
10. ナイトフライト (Part.6)
11. ナイトフライト (Part.7 – Nightflight to the beach)
12. Pseudoflummoxology
13. せつな

Release Live “ナイトフライトは難しい”
8.3(Fri) at 渋谷アルブレヒト
OPEN19:00 START19:30
ADV3500 / DOOR4000 (+1Drink)

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