これは物語ではない

アムステルダム

 アムステルダムから父が帰ってきたのは、夜、日付をまたぐころだった。

 小学校に入学し、男の子から少年になりかけのその子は、何度も目をこすりながら、半分は眠りに落ちながら、父の帰りを待っていた。はじめての夜ふかしだった。父がいつ現れるのか、予兆のメールもよこされない中、男の子は実直に待っていた。男の子は父の早い帰宅をねがっていた。父に会いたいということもあったし、待ちつづけることのはてしなさに男の子が疲れてしまっていたこともある。深夜は、暗いし、おもしろいテレビ番組もないし、何分も何時間も単調に感じた。昼の太陽の移動のような、目に見える大きな変化が無いのだ。
 ソファは眠りを誘惑した。母は、寝てもいいと言ったけれど、少年は母のとなりで頑張っていた。
 父が玄関のドアをガチャリと開けても、その幼い眠気は吹き飛ばず、数ヶ月ぶりの対面なのに男の子は眠くてもうろうとしていた。
 寝ててもよかったのにと父が笑い、何度も寝かけていたと母が笑った。
 父を待つという義務を果たし、退屈な深夜から解放され、やっと眠れるという安心で、男の子は父にしがみついた。
 おみやげがあるよと父は言った。大きな鞄から取り出したのは、日本のどこにでも売っているような、ありふれたシリーズものの学習図鑑だった。白い目をする母に、父は、ほかの土産はスーツケースの中だと釈明した。けれどもアムステルダム土産――チーズフォンデュや筆記用具や用途不明な瓶や木靴など――よりも、男の子はいちばんに、日本の図鑑を気に入った。

「前から、海の生き物が見たいって言ってたからね」

 『水の生物』と題されたその表紙を眠たくもしっかり見つめる男の子の、つやつやとした黒い髪を、もう寝なさい、と、父は大きな手でなでた。

「ありがとう」

 本をかかげて男の子ははにかみ言う。そうして父の大きな手をとり、

「いっしょにねよう?」

 ひとり部屋をもらったばかりの男の子は、ひとりぼっちの就寝にいまだ慣れないままでいた。

 さびしかったのだろうな。

 父はうなづき、ベッドのとなりの椅子に腰を下ろした。幼い男の子には大きすぎるベッドだった。男の子がふとんの中から手を伸ばした。にぎった父の手はココアを入れたカップみたいにあたたかだった。男の子はもう一方の手に図鑑をいだいている。

「いろんな生きものがいる」

 男の子は『水の生物』を新しい友達のように愛でた。父と一緒にすこしだけページをめくり見ると、そこに居たのは見たこともない、新しい不思議な生きものたち。

「みんな、どこかの海にいるのかな」

 おどろきが男の子にふつふつわきおこった。

「海だけじゃなくて、川や湖にもいるんだろう」

 男の子にとって父は父であると同時に何でも知ってる先生だった。

「いつか会えるかな」

 まぶたはとろんと落ちるけれども、男の子は希望をおさえきれず、小さなほほを紅くした。
 この、不思議な友達に、いつか僕は出会えるだろうか。
 会えるよ、と父がほほえむ。
 いつしか男の子はやすらかな寝息を立てていた。
 父はつないだ手をしばらく離さなかった。男の子のまぶたにかかった前髪をはらい、大きなあたたかい大人の手で、男の子のやわらかでかよわいほほをなでた。

 男の子は夢を見た。
 色あざやかで、殻があったり、やわらかかったり、ふわふわ浮かんでいたり、足があったりなかったり、とてもはやく泳いだりする、不可思議で無重力な友達がいた。
 みんなが男の子に遊びにきた。彼らは男の子を平等に友達としてむかえいれた。やさしかった。
 海は気配で満ちあふれていた。存在の気配があった。目には見えなくてもなにかがここにいるという確信だった。そういう、たくさんの存在が、水の中から男の子を見守っている。男の子はそれがとてもうれしかった。

 あそぼう?

 存在のうちのだれかが男の子に語りかけた。声ではなかった。けれども意志は成立した。存在に手を引かれ、背中を押され、男の子はシャイにわらった。

 気付けば夢は明け朝だった。
 枕元に父はいなかった。男の子はいそいでカーテンを開けた。友達が待っているかと思ったのだ。
 誰もいなかった。
 ただ男の子にとってのいつも通りの風景があった。
 男の子は布団を抜け出し着替えると、キッチンの母におはようとだけさけんで、母が引き留める合間もなく玄関ドアを飛び出して非常階段を駆け降りた。街は変わらぬ風景だった。
 でも、夢の中であれ程までに伝わった気配は、もうどこにも見つからなかった。

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