これは物語ではない

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プスヌシル

 灰色の雲が広がるのを見た。遠くの方は霞んでいる。窓は開けられないが、きっと風は強い。ここから海を見ることは出来ないが、鉛色に波打つさまを想像する。
 この食堂の窓からは首都圏を一望出来る。晴れた日なら銀色に輝くであろうビルディングも、今日ばかりは曇天がくらい影を落としている。今夜から明日まで雨が降ると聞いた。都市は陰鬱に灰色だった。午後はまだ長く、太陽光はにぶくなまぬるい。僕は独り街を見下ろしている。
 窓は全方位に採光をとり、晴天ならばかなりの景観を期待出来る。実際数々の超高層ビル、それらを繋ぐ橋、海まで伸びるライン、これらの構造物のギャラリースペースとしての意図もあった。
 橋の上に街が建つ一方で地下鉄の開発はいまだ続いている。地上へ地下へ街は伸び続ける。都市部ばかりが高層化・橋化の一途を辿る。そのなかには、父が架けた橋もある。

 などと窓際でカレーを食べていたのだが、
「社員食堂みたいですね」
 という、馴染みのある声に僕は目を上げた。二つ下の井下田君だった。
 僕の服を言ったのだと思う。
「いやみですか」
 彼は塩ラーメンの盆を手にしている。洒落た眼鏡とジャケットが似合っていた。
「まさか。ただの感想ですよ。先輩、ひとりですか」
「はい」
「一緒していいですか?」
「どうぞ」
 と、僕は隣の席を勧めた。

 井下田翔太郎は学部の後輩で、映画部の演出家だった。塔子さんは部の女優で、彼女に連れられて手伝いをしているうちに(僕は映画部には在籍しなかった)彼らとの縁が生まれ、井下田君とは今でもこうして話している。塔子さんと井下田君は親しかった。気さくな態度で交友も広い。

「先輩、カレーなんですか。珍しい。俺が知る限りじゃあずうっと日替わり定食だったじゃないですか」
 言われると確かにそうだったと頷いた。
「何かあったんですか?」
 と言われ、何があったのか、思い出せなくなってしまう。僕の沈黙を井下田君は笑った。事象は説明し難かった。否、僕は説明を避けた。替わりに「食生活が変わったんです」と答えた。
「夕食を自炊するようになったので、昼も定食だと都合が悪いんです」
 実際の所炊事をこなしているのは僕ではないが、井下田君は納得したらしかった。
「いいじゃないですか、自炊。安いし、健康的だし。帆来先輩は放っておいたらレトルトと缶詰しか食べないんじゃないかって、塔子先輩も言ってましたっけ」
「塔子さんが」
「そうですよ。俺達、先輩のこと色々考えてるんですよ。放っておいたらすぐやつれて駄目になるって塔子先輩がこぼしてましたから。元気そうでなによりです」
「それなら良かったです」
 僕は何気なく答えただけだったが、井下田君は不審の目を向けた。
「帆来先輩の話なのに、まるで他人事じゃないですか。俺がどれだけ塔子先輩に念押しされてるか……」
「監視役ですか」
 僕が死なないように、とは、口に出さない。
「いえそんな! でも塔子先輩いわく『汐孝の健康を見守る会』だそうで。まあ、会と言っても塔子先輩と俺しか居ないんですけどね……。指令官と、手先」
 妙な話になっているようだ。
 昼食を食べ終えた僕はまた灰色の街を見る。天気が悪いなあと思う。波立っている。穏やかではない。

「塔子さんはお元気ですか」
 尋ねると井下田君は目を丸くして、
「先輩はやりとりとかしてないんですか?」
 見送りに行って以来一度も連絡を取っていない。
「メールなりコメントなりすれば、返信遅いですけど返って来ますよ」
「彼女が変わりないようであれば伝えることもありません」
 言うと、彼は疑念を抱いたらしい。呆れの表情さえ窺えた。
「先輩、冷めきってないですか。そういうときには用が無くても、近況報告したり、会いたいとか言うものでしょう。塔子先輩が向こうで悪いオトコにたぶらかされてたらどうするんですか」
「誑かす?」
「そうですよ。先輩に愛想尽かして向こうでデキちゃってるかもしれませんよ」
「……それは塔子さんの問題なので僕の出る幕ではありません」

 井下田君は、あまりに大げさに喫驚した。そしてそれでは駄目だと僕を諭したが、そのことばに次は僕が呆然としてしまう。

「先輩、それでも彼氏なんですか?」

 返すことばも無く沈黙した。彼も話が噛み合わぬことに気付き、おそるおそるに問いかける。
「……つきあって、ないんですか?」
「……塔子さんは、そう言いましたか」
 問いに井下田君も首をかしげる。
「いや……傍から見るとどう見てもカップルですよ。というか映画部内では公式というか」
「公式?」
「なんでもないです。みんなそう思ってて、俺もそうだと思ってたから……」
 彼を悩ませたのは僕だったが、頭を抱える井下田君が何か気の毒に見えた。しかし何故彼が僕と彼女の関係に固執するのだろう。

 “高橋塔子”との関係を思い返す。彼女とは断続的に二十年近くの交際だが、実の所記憶に残るのは最後の七年間に限られる。二人きりの関係になることは無かった。はじめて出会ったのは五歳の海で、それぞれの父と居た。大学には映画部があり、井下田君らが居た。高校は三年間、同じ教室に彼女と……

 ――彼がいた。

「先輩」
 井下田君が僕を呼び戻す。揺らめいていた視界が焦点を取り戻す。
 井下田君は封筒を僕に差し出した。開封を促され、開くと映画のチケットが二枚。
「ペアチケットです。俺のオススメ。デートにでもどうかなあって思ってたんですけど……まあいいや。
 先輩や塔子先輩が好きそうな雰囲気だから、二人で見に行くようにって用意してたんです。小劇場なんですけど、上映期間がけっこう長いので、塔子先輩が帰ってきたときにでも一緒に行ったらどうかなあ、って」
 裏面に劇場の名があった。僕の知らない名前だった。
「塔子さん、帰るのですか」
「さあ、はっきりとは分からないんですけど、それっぽいことは仄めかしてるそうですよ」
 礼を言って二枚のチケットを鞄に仕舞った。
「じゃあ、また何かあったら連絡します」
 と、彼は次の講義の為に立った。去り際に「お幸せに」と言われたが鈍く頷くことしか出来なかった。

 チケットの表の題名を見た。

汀線ていせん

* * *

 降りはじめた。今はまだ小雨だった。霧雨に近い程度だが、傘を差す姿をちらほらと見かける。鞄の折り畳み傘を取り出す。これが旧式の造りで、骨が自動に開かない為、人の手で間接を折らねばならず時間がかかる。知人からは買い換えを勧められているが、不便なだけで使用自体に不具合は無いから壊れるまでは使うつもりでいる。
 夜には本降りになると予想される。こんな日に外出すると言ったザムザは大丈夫だろうか。しかし遠方の塔子さんにも心配されるような自分に、他人を案じる資格などあるのだろうか。ましてや彼。きっと虫よりもしぶといのだろう。

 駅までの長い橋を歩いている。この界隈はかなり早くから橋化した地区で、自動歩道や雨避けが無い。ビルとビルの透間を縫うように橋が繋ぐ。土地不足ゆえである。しかし繁華街やオフィス街を抜けて住宅地に出ると、こういう橋は殆ど見られない。T市はC駅前のみ橋化しているが、丘陵地帯の為郊外にも架橋されている。父は橋の技師である。そして僕もいずれはそう成る。

 眼下の水面はビル風でさざ波立ち、現実の雨の干渉に震えていた。橋の下の車道は低地で水が流れ込むらしく、さながら運河のように思った。見慣れた光景だった。平常より水位が増しているらしい。雨天のせいだと思ったが、はたして両者の関係を知ることは出来ない。
 風景を嫌いにはなれない。悲しむことはあっても憎むことは出来ない。悪いのは僕ひとりで、僕はそれに黙従している。
 視界の隅に水面を臨みながら歩く。街は霧雨で白く霞み、すべてが遠くにあるように見えた。どこまでがほんとうの景色なのだろう、と、ぼんやり考える。肌寒い。ビル風に背中を押される。靴が少し濡れた。

* * *

 ずっと長雨が続いた。C駅からの帰り道も白く霧雨だった。傘はささずに帰ってきた。悪い気分ではない。霧を浴びて、妙に穏やかな心地だった。夕食はありあわせのもので簡単に済ませることに決めた。
 丁度家に着いた頃に雨は強さを増した。鍵を開ける。革靴が一足隅に寄せられていた。しかし物音はせず部屋は暗かった。気配が無かった。明かりを点けて、僕ははじめてソファに眠る彼女に気が付いた。

 セレスタは制服のまま眠っていた。軽く身体を屈してソファに小さく収まっていた。人形と見誤りそうな程に彼女は深く寝入っていた。そして胸には一冊の図鑑を抱きかかえていた。『水の生物』、僕が幼い頃に読み耽った、僕自身も所在を忘れていたとても古い本だ。何故彼女がこれをもっているのか分からない。

 幾度か寝返りを打ったらしく衣服は少し乱れていた。短いプリーツスカートの腿は白く寒そうに見えた。直すか否か躊躇ったが、僕は密やかに裾を正した。
 不図「髪を触ることが好き」と言ったことを思い出した。眠る彼女を見た。瞼に掛かっている髪を指で払った。そのまま手櫛で軽く調えた。そして止めた。まるで人形のように扱ったことにひとなみの罪悪感が痛んだ。彼女は少し震えるように脚を屈めた。やはり寒いのだと思った。僕は寝室から使われない毛布を引っ張りだした。結局あの部屋で寝る者は居ない。僕はそっと障りの無いように毛布を掛けた。

  ん

 その時声を聴いた。声ともつかないような微細さであった。それは、僕が毛布をかぶせた瞬間、眠る彼女が無意識に発したものらしかった。僕はどきりとし、沈黙し、彼女の次のことばを待った。何も無かった。彼女はまた微弱な寝息をたてて毛布の中に顔をうずめた。

 僕は確かに彼女の声を聴いた。眠る彼女を盗聴した。

 しばらくカウチの傍に立っていた。意識せずとも、眠る彼女の呼吸を聴いていた。

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