これは物語ではない

ブラックコーヒー

 枕に頬を埋めていることに気が付いて、僕は眠りから覚めたのだと知ったのだが、布団や枕の質や弾力の違いを理解するまでには随分と時間を要した。上体を起こして見ると隣のベッドには誰も居なくて、だから繋いでいた手はとっくの昔に離れていて、僕はひとり、父母の寝室に横たわっていた。ぼんやりと不明瞭な意識でサイドテーブルを探るが、携帯も目覚まし時計もここには無いと思い出し、手を引いた。今は何時だろう。まだ目を長く閉じれば眠れる位に頭はうつらうつら霧がかっていた。今日が休日であってよかった。
 身体を起こし、ベッドに腰掛けてから、窓にかかるカーテンを開けた。白い、曇り空だった。外には雨の痕跡があった。

「朝だ」

 初めて発声したその一言はひどく弱々しく腑抜けていた。目覚めたら「朝だ」なんて、分かりきったことを口にするのはまるで白痴ではないか。
 曇り越しの白濁した太陽光は、それでも、僕を少しは目覚めさせた。朝食を食べなければと思った。僕は恐らく寝坊している。僕はリビングのドアに手を掛けた。リビングは明るく、既に活動をはじめていた。

「おはよう、帆来くん」

 男の声がした。ソファに座る少女はセーラー服の青い目で、僕の知っているセレスタだった。笑みを浮かべ、手を上げて挨拶されたから「おはようございます」と僕はいつもの通りに挨拶を交わした。昨晩は使われなかった白いカップがあたたかな湯気と酸味をただよわせながらキッチンからカウンターへ浮遊する。スティックシュガーを加えながらスプーンがクルクルと黒い水面をかき回した。

「砂糖、入れ過ぎじゃないですか」
「今日はこんな気分なの」

 安いインスタントコーヒーの香り。

「いる?」
「じゃあ、お願いします」
「ブラック?」
「砂糖をほんの少しだけ」
「顔を洗ってきなよ。ちょっと腫れてるかも」

 言われてみれば、瞼が重い気がした。

「寝すぎだよ。悪いと思って起こさなかったけど。ご飯は何がいい? トースト?」
「じゃあ、それで」
「付け合わせは」
「トーストだけで。二枚。ミディアム」

 これは彼が言い始めた冗談で、いつだかトーストを炭同然に焦がした時に「ウェルダンだ」とごまかした事が由来だった。
 少し気が抜けて、欠伸をし、僕は新しいタオルを出して洗顔する。剃刀が二本あるのは僕と彼の分だが、透明人間の髭の有無は僕には一生分からない。鏡の中の僕は確かに、僅かに赤い目をしていた。部屋着のままダイニングの定位置に着いた。トースト二枚とバターと青いカップに入ったコーヒーを、僕は手を合わせ食べ始める。スープを付けても良かったかも知れない。ソファでセレスタとザムザが話すのを傍聴していた。セレスタの文字はここからではよく見えないから、ザムザの声だけが頼りだが、少女が座る場所から男声が聴こえるというのは何度見ても奇妙な光景で、僕は未だに見飽きない。

『…………』
「ん? 知り合いの所だよ。まあ色々とね。うん」
『……………………』
「違う違う。普通だよ」
『…………』
「違うよ。男だよ。初めて会った人だ。世話になったから、たまには会いに行こうって」
『……』
「ああ、大丈夫。雨は平気」

 昨日の外出の話題らしい。彼はいつ帰って来たのだろう。
 今、目覚めてからはじめて壁の時計を見ると、既に十一時を回っていた。明らかな寝坊にため息をつく。このトーストはブランチになるだろう。ところで、セレスタは一体何時に目覚めたのか。
 朝食を終えてコーヒーに口を付ける頃、男声が僕を呼び掛けた。

「昨日オムライス作って失敗したんだってな?」

 挑発的に聞こえたが、

「はい。玉子が駄目でした」

 と僕は従順に応じた。

「あれは、もうフライパンが古いんだよ。フッ素加工が取れてるから全部焦げ付いちゃうんだ。ついでに言うと、今朝、菜箸も先っぽが折れました。あと包丁もちょっとイマイチだけどそれはまあ砥石があるから良しとして。お前は台所用品に無頓着過ぎ」

 今更何を言うのか。

「という訳で、今日は……」

 タン、とダイニングテーブルが叩かれ、彼が結構近くに居たのだと知る。

「お買い物に行きます」

 後方からパチパチとセレスタの拍手。

「みんなで買い物に行こう。やっぱりC駅前のデパートが一番品揃えが良い。ちょっと高くても良いのを買おう」
「……構いませんけど、貴方は、人混み、大丈夫ですか」
「平気だろ。荷物持ちならお前が居る。君の支度が終わったら行こう。今日はもう雨も降らないし、明日からは晴れるみたいだ」
「急いだ方が良いでしょうか」
「いや……おれとセレスタは軽食取ってからにしよう。急がなくてもいい。セレスタも、そんなに早く起きた訳じゃないみたいだし」

 僕は席を立ち簡単に皿を洗った。あとでもう一杯コーヒーを飲もうと思う。着替えの為に自室へ戻る。携帯に着信は無かった。着替え、洗面台で髪を整え、ソファのセレスタの隣に座った。昨日もこうして隣に座ったのに、何故だか「再会した」思いが強かった。つい十二時間前には手も繋いでいたものを。

『よくねむれた?』
「寝過ぎてしまったみたいです」
『おつかれ?』
「……どうでしょう。でも、まとまった睡眠が取れて良かったのかも知れません」
『よかった』とセレスタは笑みを見せた。僕も相槌を一つ返した。
『服もかおうよ』
『みんなの』
『ザムザさんも』
「いいねえ!」

 不意に背後から声がしたかと思えば、肩に男の重みを感じた。僕とセレスタの後ろに立って、僕らを抱えているらしい。振り向いても何も見えないと知っているから、僕もセレスタも気にせず続けた。

『わたしのもえらんでくれたらいーな』
「セレスタはきっと何でも似合うよ」
『ほらいくん』
「僕は……」
「いいね、まるで似合わないのを着せてゲラゲラ笑ってやろうよ」
「失礼な」
『やくそく』
「じゃあ今日、ついでに選ぼうね」

 そう言って彼は僕達から離れた。スリッパがテクテクとキッチンへ歩き(動線が見えるだけでとても便利だ)

「セレスタ、林檎食べる?」

 カウンターに置いていた林檎が浮かび上がり、セレスタは手を挙げて席を立った。彼は包丁を出して林檎を四つに切った。それから芯を取り除き皮を剥いた。彼の手さばきは無駄無く見えた。
『くるくる』とセレスタが書いたのは、林檎を切る彼には死角らしい。

「ザムザ君」
「なに」
「皮をひとつなぎにくるくる剥くのはやらないんですか」
「そうすると手がべた付くだろ? 切ってから皮を剥いた方が良い」

 成程と彼女は納得し、今度は『うさぎ』と書いたのを僕は読み上げた。

「面倒くさい」
『えー』
「はい、林檎」

 爪楊枝を二本刺す。「いる?」と訊かれ、「僕はコーヒーだけでいいです」と返す。「自分でやれよ」と言われる。分かっている。彼と場所を替わり、僕は薄めのコーヒーを淹れる。ブラックではない。砂糖を、少し。
 ふと、思い立って僕は語る。

「林檎は食べられるんですね」
「え?」
「ザムザだから。林檎はお嫌いかと思っていました」
「食えるよ。おれは、ザムザだけど、グレーゴルじゃない」
『へんなの』
「ヘンじゃないよ。そんなもんだろ。腐らなければ、林檎は無害だ」
『そーかな』
「そうなんだよ」

 切られた林檎をつまむ二人の人物を僕はカウンターから眺めていた。彼らのことは現象として見飽きない。とても面白いと思う。

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