これは物語ではない

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voice – b

 鞄の整頓をしていると、底の方で異質な物を発見した。引っ張り出すと長さ十センチ強の電子機器で、同時に思い出した。ボイスレコーダーを入れたままにしていた。
 数週間前に録音したそのデータを、彼は未だに再生していなかった。盗撮した対象が家に居着いたために室内での再生は出来なかったし、翌日になって他人の会話を録音したことが馬鹿馬鹿しくなり、数日間、再生する気にならなかった。更に今に至るまではレコーダーの存在自体が忘却の彼方だった。
 それが思い出したようにここにある。
 ここは研究室。彼を除いて誰も居ない。
 ただし「誰も居ない」ということが非常に不確定、不安定の上で成立していることを彼はいたく学習していた。でもここは本当の意味で誰も居ない。あと数時間は誰も来ない。
 盗撮行為への後ろめたさを思い出しながらも、彼は電源をいれて再生ボタンを押した。イヤホンを所持していないことが悔やまれた。ひっそりとあの日の記録が再生される。

 ノイズ。
 自身の歩行。走る車の音。聞き流していると、雑音の中ふいに男の声。

『……ちゃんはわざわざ……たんだ……覚悟は、出来……』

 その場に居た彼は展開を知っている。そろそろか、と構える。現場の不快さを思い出す。音量は最低にして、聴こえるか聴こえないかを聞き耳立てていた。
 間。聴こえないが男は尻餅をついた。怒りに声が上がる。

『……大人を蹴ろうだなんて、いい度胸してんなァ? そんなに思い知らされたいのかよ?』

 ノイズの中に、間。うわずる男の声。

『……こそこそしやがって、隠れてないで出てこい!』

 その瞬間にうめき声。
 彼はふと違和感を覚える。この間にあった筈の言葉が聴こえない。マイクが遠いせいだろうか。

『……ま、まさか本当に、居るだなんて……』

 ガザッ、とマイクの側で大きな雑音。録音者の動作である。

『先程までの貴方の行動は全て、証拠として録画しました』
と言った自分の声が意外と大きく、ボイスレコーダー越しで普段と感じが違うことに、彼は二重の不快を覚えた。

『この映像を僕が警察に提供するか、今自首するか。……僕は自首を勧めます』
と言うと、
『ぽ、ポタージュ様ぁぁ!』
と、あの時の不審者は逃げ出した。彼と後の居候二人はそのまま公園に残る。男の記憶では、ザムザの会話が始まる。少々の空白の後、聞こえたのは自分の台詞。

『……何とかなることでしょう。
 それよりも、貴方こそ立派な暴行ですが』

 ザムザの声が続かない。やはり、おかしい、と男は気付いた。自分はもう公園の中央に居て、マイクで彼の声は拾える筈だ。なのになぜか、彼の言葉は空白だった。背後に風や車のノイズがする、しかし彼の語りはそこだけ音声を抜き取られたように、ぽっかり穴が空いていた。

『初めからしていませんよ、すべてフェイクです』

 ここで会話は区切られ、ザムザはしゃがみこんでいたセレスタに声を掛ける。
 その間、レコーダー上ではすべてが空白だった。一人ははじめから喋らず、もう一人はことばすら認知されないらしい。男自身の声だけが断続的に聴こえ続けた。つまりはそこで起こった事の三分の一しか録音されてなく、これを会話と呼んでいいのか疑わしい。端から見れば延々と録音された独り言だった。
 まるで徒労だ、と男は思った。
 諦める心地で男は電源を切り、また鞄の奥底へ押しやった。

 call.
 携帯にバイブレーション。
 発信者名は「c」。コードネームのようだと思った。彼女の携帯からの発信はリズムを変えてそれと分かるようにしていた。
「はい」
「もしもし?」
 発信者の名前と実はいつも違う。名義は少女、電話に出るのは男声。
「どうしましたか」
「セレスタが、うちに本はあるか、って」
 “うち”と呼ばれたことに今更驚くが、今更驚かない。
「電話台の横の扉。閉まってると思いますけど、そこが物置になってる書斎です」
「書斎?」
「本棚に積んであります」
「……あ、ほんとだ。かなり有るな」
「ところで、何の本なんですか」
 と言うと、電波の向こうの男は一瞬詰まり、
「……カフカだそうで」
 男の言わんとすることは分かった。
「あります」
「セレスタに代わってもいい? 直接言った方が分かりやすいんじゃないか」
 セレスタさんが? と、驚いたが、「そいじゃ、代わります」と向こうの男は少女に代わった。らしい。少女は喋らない。
「セレスタさん? 代わりましたか」
 反応は無い。
「代わってるよ」と遠くから男の声。さてどうやって会話をするかと思索する。
「『変身』ですか」
 答えは無いがたぶん正解、と彼は確信した。
「恐らく左側の棚にあります。文庫本です。その部屋の物は自由に使って下さい。物置なんです」
 頷く気配だけでも感じ取りたい。
「ついでに『透明人間』もあります」
 パチンと指を鳴らす音が聞こえた。肯定を示すことは十分に分かったが、
「おい」
と唐突に男の声。帆来くんは顔をしかめ、
「いつから居たんですか」
「はじめから、スピーカーフォン」
「貴方への信用を無くしました」
「信用してたんだ?」
「ゼロからマイナスへ下がりました」
「だってこうでもしないとお話が成立しないだろ?」
 パチン、とセレスタの相槌。
「という訳で、『お借りしますありがとう』とのことです」
 まるでお便りを読み上げるラジオ・パーソナリティ。小さな声でも発声が良く、聞き取りやすさは抜群だった。彼の声は、姿が見えないことへのハンデだろうか。
「了解しました」
「じゃあ」と向こうが切ろうとしたのを、
「待って下さい」引き留めた。
「……なに?」
「電話は、聞こえるんですね」
「……確かに」
 ボイスレコーダーはどうですか、と直球には言わない。言える訳が無い。ハンデだとしたらなぜ電話は出来て録音は出来ないのか。
 何なんだろう? 想像に思考が及ばない。
 ただ一つ言えるのは、
「電話口だと、貴方はとても自然です」
 それが彼の実感だった。
「……そうだなあ」
 電話の向こうの男も同じ実感を抱いていた。
「買う物はありますか」
「いや……足りてる……あ、セレスタが、ジンジャーエールって」
「分かりました」
「じゃ、また」
「切ります」
「はーい」

 通話時間を見て、予想以上の長電話だったことに気がついた。
 結局あまり片づいていない鞄を眺めた。隠していたレコーダーは荷物の一番上に露わになり、彼はそれを縦に奥へと押しやった。
 施錠して帰らなければならない。だというのに鍵はまだ鞄の中に眠っている。作業効率が悪い。
 伝えるべきだろうか。ザムザに。あるいはセレスタに。自分が知った事実を。でもきっとそんなに急ぐことでは無い筈だし、本人だって既に知っているかもしれない。
 やっと捜し当てた鍵を指でつまんで弄んでみた。勝手に作られた合鍵を思い出した。

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