これは物語ではない

blueseat

 思い出話。

 少年と呼ぶには背丈の足りない幼い男の子。その父。この家庭に母はいるけれど、あまり出かけたがらない人で、外出はいつもふたり旅だった。
 海へゆこう、と父は言った。
「お父さんのともだちも連れて」
 まだ七月のことだった。

 人工砂浜。どことは言えない。知人に紹介してもらった私有地の中だから、行こうと思っても行ける場所ではない。

 駅でその友人を拾うために二人は車を降りた。
「帆来! 久し振りだなあ」
 派手なアロハシャツの男がいた。
「高橋も元気そうでよかった」
 高橋の隣に小さい人影。これまた、幼い女の子。父は神妙な顔つきで尋ねた。
「誘拐か」
「馬鹿な」
「僕は友人を犯罪者にはしたくないし、犯罪者を乗せる車もない」
「……娘だよ!」

 運転席の父は笑い、高橋も助手席で笑い、後部座席にこどもふたりが座った。

「塔子ちゃん、いつの間に大きくなって」
「ごさいです」
「そっか、汐孝と同い年だもんな……」

 川沿いのジャンクションから高速道に入った。
 こどもたちはうたた寝をして、大人は大人の話に盛り上がる。

 大きな橋を渡る。巨大な銀色の橋。高橋氏はしずかに目を細める。
「すばらしい橋だよ」
「……僕たちのチームがはじめて手がけたプロジェクトだった」
「技師がよかったんだ」
「よせよ」
「おまえじゃない、おれだ」
「それはないだろ」
 帆来氏はわらいながら五年前の開通式を思い出す。それぞれの五年間が今、後部座席になかよく並んでいる。

 橋からは首都が一望できた。塔子は窓を開けたが、その父に「あぶないよ」と制止された。
「あれはパパが建てたビル?」
「パパと、仲間が建てたビルだよ」
 塔子の長くかよわい髪が風にそよいだ。汐孝は東に見える港を見た。
 巨大なコンテナと、外国から来た白い船。
 見えるものはどんどん後ろへ流れていく。

 六叉路につづく三叉路につづくトンネルと二叉路を迷うことなく走り抜けた。
 巨大なジャンクションはおもしろかった。こどもたちは笑った。車窓のうねる景色はまるで飛行機かジェットコースターのような速度だった。
 降りた所は工業地帯の大きな道路で、巨大なトラックが脇を過ぎるたび、ファミリーなこの乗用車が場違いで浮いているように思えた。コンビニで昼食と飲料を買った。工業団地の透間を縫って走った。広くて高い建造物の数々にこどもたちはただただおどろいた。尖った巨大な鉄柵が敷地を隔てて、『立入禁止』の看板もあった。
「いいの?」男の子は父に尋ねた。
「はいっちゃいけないんだって」
「いいんだよ」ハンドルを握る父は答えた。
「関係者だからね。お父さんたちは」

 そうして、とある施設に車を入れた。誰も見あたらなかった。広すぎる敷地のなかは、知らないレールが地面を走り、パイプラインが壁に迷路を這わせていた。
「こっちだったかなあ」
 私道の中をさらに走った。白黒の小鳥がおもちゃみたいに走っているのが見えた。どんどん、奥の方へ向かう。
 突き当たりの駐車場に出た。車を停めてアスファルトへ降り立った。こどもにとって車高はたかく、女の子はパパの手を借りた。
 なかなか降りようとしない男の子に父は手を貸そうとした。
「もう海?」
 数十センチの段差を見つめて男の子はつぶやいた。父は一瞬返答に詰まった。
「埋立地だよ。昔はここが海だった。
 今の海岸線までは、もうちょっと歩くよ」
 分かったのか分からないのか、男の子はきょとんとしていた。

 日陰のない道を一行はてくてく歩いた。

「ねえ、海!」
と女の子が指さした前方を、うつむき歩いていた男の子はふしぎそうに見た。
「もう、ここ海だよ」
「だって、まだ海ないよ」
「もう、海だよ」
 男の子は目をふせた。足下にない石をけとばした。
「海、ないよ」

 ちょっと強い口調で女の子は言った。
「あるよ」
「ないよ」
「あるもん」
「どこに?」
 男の子ははっとして――女の子の顔を見つめたが、すぐに視線をアスファルトの上に落とした。

 もめた様子のこどもたちを父はやさしくいさめた。
「どうしたんだ、何かあったのか」
「きよたかくんがうそをつくの」
「うそ、ついてないよ」
「ここが海だっていうの。ここ、まだ海じゃないよ。地面だよ」 <
「だって、ほんとに海だよ」
 父はふたりの肩に手をおいた。
「ふたりとも合ってるよ。
 ここは海を埋め立ててつくった場所だから、汐孝が海って言うのもまちがいじゃないし、塔子ちゃんが海じゃないっていうのも正しい。
 とにかく、もう少し向こうまで歩いて、そこでお昼を食べよう。
 わかったらふたりとも仲直りして」

 ふたりは、目を合わせにくそうにしつつも、
「ごめんね」
と男の子が言ったから、
「ごめんね」
と女の子も返して、手をにぎった。
 二人の影がアスファルトに灼きついている。

 高橋が先頭に立ちこどもらを呼んだ。
「ごらん。本当に、海だよ」
 塔子は息を呑んだ。
 そこは工業団地にはあるまじき砂浜だった。

 向かいの海に、高い灰色の煙突だとか、回る風車や観覧車が見えた。湾に架かる吊り橋の下を遊覧船が渡っていく。
 高橋は大きなパラソルを立ててシートを敷いた。昼食を済ませるとこどもたちは波間に立った。

 僕はあなたと違うんだって幼な心に理解した。

 こどもふたり大人二人では十分すぎるシークレット・ビーチ。とある研究に使った跡地だという。運転に疲れた父はブルーシートにうつ伏せて、高橋がこどもたちを見守っていた。空は晴れて水は涼しくやわらかだった。
 よせる波に足をひたした。もっていかれそうだって男の子は思った。
 男の子は地上で息を止める練習をした。
 女の子はそんな男の子の手をひいた。
「あそぼう?」
 サンダルをぬいでもっと沖まで歩いてみた。ひざぐらいの水位。
「あんまり遠くに行くなよ」
とパパが言った。ふくらました浮輪をふたつ投げてよこした。
 浮くということはとてもふしぎで、ふたりの足は海底についていたのに、普段あるくときとはちがって、身体がとてもらくだった。よせる波にたゆたって、もちあがったり、まるで空を飛ぶように。だれかが押してくれてるようだった。だれかが引いてくれてるようだった。

 ぷかぷか浮かびながらぼんやり見上げる男の子のとなりで、女の子も宙をあおいで見た。そこを大きな飛行機がよぎった。珍しいくらい低いところを飛んでいて大きい。
「パパ、ひこうき」
 陸にいるパパに塔子は呼びかけた。
「空港が近いからだよ」
 離着陸のために飛行機は低空を飛ぶ。

 見上げた水面は網目のように白光りしてゆれていた。光がいくつものまるい輪になって、僕たちにそそがれるのが、見えた。

 飛行機が去ったあとも男の子は見上げたままだった。
「なにが見えるの?」
 女の子は尋ねた。男の子は青空を目で追ったまま、
「海」
 とひとことだけで答えた。
 海? 女の子が見上げた先は、空だったけど。

 あなたと違うんじゃなくて、僕がちがうんだって気付いた。
 かなしいというよりもそれは冷ややかな感情だった。僕は冷たくなってしまった。

 浮輪の女の子はバタ足で泳いで男の子の浮輪によりそった。
「海、たのしくないの?」
 汐孝は少し暗かった目を塔子に向けた。
「たのしいよ。僕、海すきだよ」
 塔子はにっこり笑い、「よかった」
「とうこも、海、すきだよ」

 ふたり、同じリズムで、呼吸するみたいに、しずかな波に浮かんだ。

「きよたかくん」
 そう言った塔子は光の網目を身体にあびて見えた。
「ともだちになろう?」
 汐孝はしずかにうなずいた。

 ……。

 救われるということばは知らなかったけど、それでも少しだけ、救われたような気がした。

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