Cipher

oral phase
塩谷夏

 あいつが死ぬ夢ばかり見る。連夜。

 真っ暗な舞台の上、スポットライトに照らされて0は一人で立っている。音は聞こえない。しかし口角からひっきりなしに唾をとばし、ぴったりした黒い衣装の腹筋が痙攣し、彼が熱狂して台詞を語っているのが分かる。

 そして僕は、もう間もなく彼が死ぬ事を分かっている。

 

「どう? お口に合いましたか」

 実物の0が僕の顔を覗き込み、おどけた口調で尋ねてくる。口の中に広がるチョコブラウニーのまったりした闇のような甘さに入り込んでいたらしい、はっと我に返る。ここは彼の住む屋根裏部屋だ。

「チョコレート好きだなんて可愛いよな」

 先日夕食に招かれたとき僕がぽろっと呟いた好物を覚えていて、彼は改めてチョコレートブラウニーを焼いてお茶に招待してくれたのだ。

 分かりやすい好意の表現。彼は僕に好意を寄せている事を隠そうともしない。

 僕はにっこり微笑む。

「おいしいよ」

 心からの感謝と共に、とても感じよく笑えているだろう。滑らかな笑顔はそのまま、透明なバリアとして働いている筈だ。

 僕を前にしていつでも少し寂しそうな0の表情が、その証明だ。

 

「弟子がお前みたいな奴でよかったよ」

 この街から姿を消す直前、Iは僕に言った。僕にピアノを教えてくれたひと。開店前の仕事場でいつものようにレッスンを受けた後だった。喜んでよいのか、意味を把握しかねていると、彼女は続けた。

「お前、俺のことが好きだろう」

 すっかり見抜かれている。僕は正直に頷いた。

「お前は俺の何が好きだ? 女の体だろうか。それとも?」

 僕だけはIを理解しているつもりだった。目に見えている彼女の表面ではなく、その体に宿っている目に見えない、存在を愛していると思った。

「本当のあなたを」

 Iは細い右眉をつり上げて言った。「俺の、男の魂を?」

 彼女の細い指が鍵盤の上に置かれた。吸い付くように動く。優しいが芯を持った音が鳴りだす。Iは音にのせて歌うように言った。

「でも、こうしてピアノを弾いているのは、この女の体なんだぜ」

 その言葉は半ば投げやりに、半ば嬉しげに響いた。

 

「なあ」

 つまんでいたブラウニーの一切れを食べ終えたところで、ふいに0に指先を掴まれた。突然の事にぎょっとする。指はチョコと油分で汚れていた。彼は気にする風もなく、自分の指と絡め合わすように僕の指を固定する。僕の右手の人差し指が、絡んだ彼の指に擦られる。

「なあ、この指が」

 0は魅入られたようにその鋭い瞳で僕の指を眺め、うっとりと言った。

「この指がいつも鍵盤の上を這い回って、美しい音を奏でているんだな」

 美しいなんて、と大げさな表現を訂正しかける僕を遮り、彼は重ねて言う。

「美しいさ」

 この指が、あの美しい音を叩き出している。音の粒で俺を愛撫し癒している。でもそれだけじゃないよな、この指で、お前はあらゆる事をしているんだ。顔を洗ったり歯を磨いたり、手紙を書いたり、尻を拭いたり、刃物を握ったり。

「ブラウニーをつまんだり?」

 僕が相槌を打つと、0は真面目な顔で

「そうだ」

 と頷き、弄んでいた僕の人差し指に、唇を押当てた。

 温かな感触を、醒めた脳で感じていた。0は熱に浮かされたように続ける。

「鍵盤に滑らすように、女の肌にも触れるのかな」

 まっすぐで綺麗な形の鷲鼻を、甘えるように僕の指に擦りつけ、心地よさそうに深く息を吸う。やがて小さく覗いた舌が第二関節に触れる。ぴたり、湿った温もりが肌理の間を這いはじめる。

「ん」

 僕は小さく声を漏らしてしまう。

 甘いな、と0が呟いた。暗黒を濃縮した硝子のような両目に囚われる指先が、ぞくぞく震える。

「自分を慰めたりもするだろうな」

 爪の甘皮のカーブを舌でなぞり、0は囁く。幾ら淡白に見せていたってお前だって男だもんな。

「なあお前って例えば、何を想像しながらする?」

 

 毎晩繰り返す僕の夢の中で0は、無音の長ゼリフを語り終えた後、魂を使い切ったように事切れる。一瞬で全身が脱力し、膝から崩れ落ちていく。

 観客席から眺めていたはずの僕は、いつの間にか舞台上にいて、膝の上に彼の上半身を抱いていた。

 見下ろす彼の顔には色がなく、漆黒の瞳は見開かれたまま。

 

 0は一旦僕の指から唇を放して、ローテーブルからグラスを持ち上げた。先程まで酒が入っていたが、今は溶けかけた氷が数個入っているだけだ。彼は氷を一つ口に含む。

 溶けてつるりと角のとれた氷が、吸い込まれていく唇に釘付けになる。

 

 死んだ彼の目玉は、能動的に「見る」ことをやめて、今や覗き込む僕の姿だけを映している。その美しい球体と瞼との隙間に舌を差し込む。瞳を包むゼラチン質の感触と、塩辛く少し甘い涙の香りが、口内に生々しく広がる。膝の上に横たわる体から体温が失われていく様子も、僕の十本の指で包み込む形の良い頭蓋に貼り付く皮膚の油分も、ただの夢の筈なのに、全てが当然のようにそこにある。

 

 0はもう一度僕の人差し指に唇を寄せる。指は氷を含んだ口内にすっぽり招き入れられた。熱い、冷たい。気持ちがいい。

 

 口内に溜まった唾液を、目玉に垂らす。球体を弄ぶように舐め回す。甘い。このまま真黒な瞳孔の奥に吸い込まれそうだ。他の誰のものでもない、これから僕だけのものだ。誰にも見せない、誰にも渡さない。

 

 根元まで咥え込まれた指を、熱い舌でねぶられる。ちゅうう、と優しく吸われた。今後ピアノに触れるとき、何度でも思い返さずにはいられないだろう。

 指先に小さくなった氷が触れた。溶けていく目玉みたいだ。

「どうして、舐めたいのかな?」

 僕は訊いてみた。無垢な質問に響いただろうか。

 どうしてってね、0は戸惑ったように笑いながら言葉を紡ぐ。その場で考える過程を見せてくれるような話し方だ。

 Xはピアノ弾きだろ、ピアノは指で弾く。指はお前であって、お前は指でもある。……というより、お前は音楽である。とすると、お前はどこにいるんだろう?

 とにかく欲しいのさ。口の中でとろかして、体に摂取したい。お前の存在をずっと、ちゅうちゅう吸っていたいんだ。俺は怖い。本当は一人で立っているだけでも、もう限界に近いほど精一杯なんだ。

 

 ちゅ、ぢゅう。舐め回している。溢れてきた僕の唾液と、死んで間もない身体が生理的に滲ませる涙とを、ずぞぞぞぞ、すすり込む。歯を立てて甘噛みしていると形が崩れ始め、目玉が外れて僕の口の中に移動してくる。さらに強く吸い込む。気付けば僕の手には刃の大きなナイフが握られていて、きっと視神経もぶち切ってしまえる。

 あの目。0そのもの。僕が飲み込もう。

 

「X、俺はお前に惚れてるよ」

「うん」それはよく知っている。

 僕は相槌を打つだけだ。拒絶したり先を促したりはしない。ただそれを受容するだけ。僕の生きる方針であって、自力ではもう、動かせない。

 僕が欲しがらなければ、0はそれ以上踏み込んでこない。

 指に触れたまま、0は寂しそうに僕の顔を眺めていたが、ふと目を伏せ、小さく決心するように息を吐いて手を放した。

「以上、奥手で淡白なX君に、色男からの恋愛指南でした」

 そう言っていつものように、明るく朗らかに茶化すのだった。

 唾液で濡れた指に空気が集まってすうすうする。

「……どうすればいい?」

 僕は訊いてみた。

「ごめんごめん」

 普通の相手だったらこのままベッドに雪崩れ込んで、そんなの気にならなくなるのになあ。僕が濡れた指を迷惑がったと受け取って、0は冗談めかして謝った。おしぼりに手を伸ばしている。

 僕は、ふふと笑って、右手を彼の頭に置いた。既に指はあらかた乾いている。

「お・おい、どさくさで拭かないでくれよ」

 ぱさぱさ、指を立てて掻き回す。鴉の濡れ羽色の艶めかしい髪だ。僕は笑いながら彼の頭を撫でてやった。ついでに、ボールを抱えるように胸に引き寄せた。

「……」

 シャツ越しにくっついている彼の鷲鼻の頭は少し冷たく、規則的に温かな吐息が胸に丸くこもり、霧散するのを繰り返した。人間の狂気を一身に引き受け、増幅して表現する誰よりも気高く美しい俳優は、今腕の中でいかにも心細い子どものようだ。

(僕を覆うくだらないバリアなんて破壊して、君の思う通りにしてくれたらいいのに)

 そんな事は起こり得ないと知りながら思う。僕が相手を求めない限り、誰も僕を求める事はできない。

 

 どうして、僕があなたの弟子で、よかったのですか。

「お前を形づくっている性質が、〈受動〉だからだよ」

 その瞬間に僕は、愛した人の言葉で、呪縛を掛けられたのだろう。

 Iは嬉しそうに笑っていた。安心し切る少女のように無邪気で残酷だった。

「お前はそのままでいろ」

 肯定された僕は、同時に閉じ込められた。その枠を突き破って彼女を抱きしめる事はできなかった。

 その性質を守り通す限り、街に消される事はないさ。Iは言った。

「お前はただ、消えていく人たちを見届けてくれ」

 

 真っ暗な舞台の上、スポットライトの光の中心で僕は0の身体を抱いている。ショックに開かれた唇とともに、僕を見つめる二つの穴。そこにあるのは穴だ。いや、在るのではなく無いのだ。あいつの存在そのものである目玉は失われた。永遠に僕の中にとけ込んだのだ。

 全てを飲み込んだ充足感の中で僕は覚醒する。必ず勃起している。あるいは下着が精液で汚れている。夢の後に目覚めると、僕の体はひどく性的に興奮している。

 0はきっとそう遠くないうちに、この街から忽然と消える。僕にはそれが分かってしまう。

 思えば昔からそうだ。過去は全部その場で捨ててきたから、大した記憶は何も残っていないけれど、僕はいろいろな事を、自分でも気付く前から分かっていた。Iが消える事だって知っていた。

 消える直前にIが予告した通り、僕はきっと、0の喪失にも立ち会うだろう。

 それを震撼するほど恐れる一方で、今か今かと待ち構えている自分がいる。0、君の瞳を舐めしゃぶり飲み込んでしまいたい。僕だけのものにしてしまいたい。君が消えるなら、消える前よりずっと僕のものになると思うんだ。

 

 今は実体を持った、0の頭が肩に乗っている。汗とシャンプーの混じった甘い髪の香りを感じながら、生身のこの男と触り合う事はできないと確信する。僕は一人になって、きっと今夜も0が死ぬ夢を見て欲情する。朝目覚めたら、今日舐められた指を使って自慰をするのだろう。

 0、僕は最も純粋に君を欲しいよ。君の感情も身体も何もいらない、すなわち君の存在そのものである、瞳だけあればいい。

「X、好きだ」

 震える小さな声で0は何度も繰り返す。好きなんだ。

「ああ」僕は頷く。それだけだ。

 僕は0自体を求めないから、冷たいバリアの向こう側で0は今もこれからも、可哀想に、一人ぼっちだ。

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