Ashes to Ashes
外気を浴びに郊外の公園へ出向いていた。昼下がり、稽古の合間の時刻。劇団から身を遠ざけるためにわざわざ街外れまで足を運ぶ。仕事仲間として彼らを信頼することと四六時中つるむのはまったく別の感情である。
身体を使い果たしそうだった。稽古や公演でその日分全ての台詞を語り終えると、そのあと眠りに就くまでは言葉を喋る気が起きない。楽屋の鏡に映る顔が嫌でも憔悴して見えて、成程狂気の男だと納得した。目が据わっている。
波風に岩が削られるように他人の視線が突き刺さる。肉体には限りがあり、毎日疲労する。楽屋でだんまりを決めているせいで孤高の天才と揶揄されても、それは世間話をするだけの力を舞台上で使い果たしているからで、媚を売る余力が残っていないだけだった。環境に慣れないのもあっただろう。観衆の規模が激増し、収入も激増したが、景気良く発散する気分にもなれず、休日になると一人で街をただ歩き、酒を買って帰って飲んだ。
その日も劇場を抜け出して郊外の公園へ出向き、カフェテラスでコーヒーを買ってベンチに腰を下ろした。大陸へ伸びるハイウェイのコンクリートの橋脚を見上げて、その直線道が伸びる果てをうすぼんやりと想像する。視界の隅で屋根無しが新聞紙の上に横たわっていた。日が暮れると森の中では行き場のない同性愛者たちが逢瀬していた。そういう場所だった。行き詰まった街のなかのさらなる袋小路。そこを訪れる自分も同様に行き詰まった人間だった。コーヒーを飲み干して休憩時間が終わるまでそこに座り込んでいるのが常だった。
「火、持ってないか」と見ず知らずの人間に尋ねられたのはその日だけだった。
「吸わないんだけどな」と答えたが、何だかんだで手放せないでいたライターを差し出した。
そいつはひとつ隣のベンチに座って煙草を咥えた。「悪いな」と呟き、甘い匂いの紫煙が漂う。
声音は女のそれだったが、男装した女優のごとく意図して低音に構えており、三つ揃いで身体の線を隠そうとしているように見受けられた。頭髪は短く、化粧気もない。しかし煙草をふかす指の細さは隠し立てることが出来ない。
「なんで吸わないのにライター持ってるんだ?」
「さあ。禁煙した筈なのにな」
「おまえ俳優か?」
「まあな」と答える。
「劇団の新入りか。随分こき使われてるように見えるな」
随分勝手な言われように苛立つ気さえ起きなかった。日頃なら皮肉の一つでも返せたかも知れない。その時はむしろ相手の無遠慮さに好奇を抱き始めていた。
「あんたどうしたんだ」とこちらも無遠慮にふっ掛けた。
「ああ」煙を吐きながらそいつは応答した。「生まれてくるとき呪われたんだ。違った身体で生まれちまった」慣れた言い回しだった。「身体に慣れはしないけど、他人に口出されることには慣れたよ。三十何年ずっとこのままさ」
特別に掛ける言葉はなかった。相槌も労いもそこには無い。
「何の話だったんだ、おれに。火が欲しかっただけなのか?」
「特別に話なんてねえよ。ただ一服吸い終わるまでの間、あんたとは楽にお喋り出来そうだと思ってさ」
「冗談だろ」
「お前さんのことを気さくだなんて思ってねえよ。だが、身内には話しにくいことってあるだろ。名前も知らない誰かさんとほんの少しだけ時間を共にしたい、そういう気分だ、旅の連れ合いみたいなもんさ」
「どこかのバーテンに聞いて貰いな」
「それが、俺がバー勤めなんでそうもいかない」
「バーテンなのか」
「店のピアノ弾きさ」
一拍おいてそいつは言う。ピアノ弾き。煙草の灰を弾き落としながら「な、話しやすいだろう?」とにやりと笑い掛ける。
「どうだろうな」とおれは言う。「おれがあんたに打ち明けたいことは無い」
「劇団の生活はどうなんだ?」
「余計なことに気を揉む毎日だな」でもそれはどこにいても通じることだろう。仕事はいい。でも平たく言えば疲れている。
「それはな」煙を吐き出すが、あとに続く言葉はない。
視界の隅で屋根無しが横たわっていた。
半島の先端に立つどん詰まりの街である。
随分と沈黙を挟んでから「疲れたんならうちの店に来いよ」とそいつは言った。
「裏道の小さな店だけどな。だいたいいつでも俺がピアノ弾いてるぜ。リクエストだって答える。居心地良い筈だよ、保証する」
と、懐から灰色のカードを出しておれに手渡す。店の簡易な地図だった。
「それ持って店に来な、俺が一杯サービスしてやるよ」
裏面にIというイニシャルのサインがある。
「クーポン券?」
「そう、勝手に作ってやった」
成程、真似しても良いかもしれないと思ったが、おれには招く相手がいない。
「どうも」
短くなった煙草を地面に押し付け踏み潰し、そいつは席を立った。
「じゃ、そのうちにでも来いよ。今夜だってやってるぜ、楽しんでくれ」
そいつは笑んで公園を後にした。本当に煙草を吸いに来ただけらしかった。
去っていく後ろ姿に向かって「おれは、ピアノ好きだよ」と呼び掛けると、そいつはひらりと手を挙げて応じた。振り返りもしなかったしおれも追わなかった。それだけだった。出会ったのは後にも先にも。
その夜もその次の夜も店には足を運ばなかった。頭の片隅にありながら永久に保留項目に置いていた。随分と後になって、劇場にも慣れ、主演の座を得て、演目が幾つも終わったあとで、俳優の仲間内で改めてその店のピアノの評判を聞かされて、やっと訪問の機会が訪れた。財布の中にはあれからずっと奴に貰ったカードが収まっていた。
未だに公演後の楽屋では殆ど無言を貫いていた。その夜は部屋の隅でカードを眺め、店への道筋を頭の中でなぞっていた。カードに店名は書かれていない。ただピアノバーであることと、営業時間と、Iというサインのみ。
訪問しようという決意が起きて上着を引っ掛けて劇場を出ると、外はじっとりとした霧雨だった。夜空が変に赤く濁っている。随分と長いあいだ、晴れ間も星も見ていない。だから気分が滅入るんじゃないか。傘もないのでコートを湿らせながら夜道を歩いた。地図がなければ気付かないような裏道に店はあり、近づくにつれピアノの音が漏れて聴こえてくる。
戸を開けると若いウェイトレスに声を掛けられた。グランドピアノを操っていたのは、奴ではない別の誰かだった。ポケットに忍ばせたカードは差し出さなかった。遅い時刻で店も空き始めていたので、ピアノの傍に席を取った。
店舗は狭いが悪くない雰囲気だった。しっとりとしたピアノの音色が店内を満たす。演奏家は灰色の髪をした若い男だった。あのピアノ弾きとは似つかない柔和な顔立ちをしている。でもこの奏法はあの人物から引き継いだものなのかもしれない。そうでなくてもおれは耳を傾けていた。好い音だった。
奴はどうしたんだろう。と、疑問に思うこと自体が既に決定的なひとつの答えを提していた。
ピアノの演奏が一段落するとミュージックボックスがおれの舞台のテーマソングを流す。つい数時間前におれが敗北し身を投げた愛憎劇である。
ピアノマンが席を立った。「なあ」とっさに声を発した。目の前で彼がぎくりと立ち止まる。呼び付けたそいつを無理に座らせて、水を貰ってきて、その男を眺める。物静かで大人しげであり、恐らくいきなり客に呼び付けられて困惑している。驚かせて済まないなんて言えない。おれだって驚いていた。とても静かに。
誰しも失っている。失った分を他人から引き摺り出そうとしている。失われたピアノ奏者への好奇を目の前にいる別の男に移す。しかしそれでなくてもこの男のピアノは好かった。興味を抱く。おれはただピアノが好きなだけだった。
「ピアノ弾いてるのはあんただけか」
困ったような、悲しげなような、返答はそういう聴こえ方をした。
「あいにくね」
〈2014年制作/2020年加筆修正〉