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ブラックコーヒー

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ブラックコーヒー

 枕に頬を埋めていることに気が付いて、僕は眠りから覚めたのだと知ったのだが、布団や枕の質や弾力の違いを理解するまでには随分と時間を要した。上体を起こして見ると隣のベッドには誰も居なくて、だから繋いでいた手はとっくの昔に離れていて、僕はひとり、父母の寝室に横たわっていた。ぼんやりと不明瞭な意識でサイドテーブルを探るが、携帯も目覚まし時計もここには無いと思い出し、手を引いた。今は何時だろう。まだ目を長く閉じれば眠れる位に頭はうつらうつら霧がかっていた。今日が休日であってよかった。
 身体を起こし、ベッドに腰掛けてから、窓にかかるカーテンを開けた。白い、曇り空だった。外には雨の痕跡があった。

「朝だ」

 初めて発声したその一言はひどく弱々しく腑抜けていた。目覚めたら「朝だ」なんて、分かりきったことを口にするのはまるで白痴ではないか。
 曇り越しの白濁した太陽光は、それでも、僕を少しは目覚めさせた。朝食を食べなければと思った。僕は恐らく寝坊している。僕はリビングのドアに手を掛けた。リビングは明るく、既に活動をはじめていた。

「おはよう、帆来くん」

 男の声がした。ソファに座る少女はセーラー服の青い目で、僕の知っているセレスタだった。笑みを浮かべ、手を上げて挨拶されたから「おはようございます」と僕はいつもの通りに挨拶を交わした。昨晩は使われなかった白いカップがあたたかな湯気と酸味をただよわせながらキッチンからカウンターへ浮遊する。スティックシュガーを加えながらスプーンがクルクルと黒い水面をかき回した。

「砂糖、入れ過ぎじゃないですか」
「今日はこんな気分なの」

 安いインスタントコーヒーの香り。

「いる?」
「じゃあ、お願いします」
「ブラック?」
「砂糖をほんの少しだけ」
「顔を洗ってきなよ。ちょっと腫れてるかも」

 言われてみれば、瞼が重い気がした。

「寝すぎだよ。悪いと思って起こさなかったけど。ご飯は何がいい? トースト?」
「じゃあ、それで」
「付け合わせは」
「トーストだけで。二枚。ミディアム」

 これは彼が言い始めた冗談で、いつだかトーストを炭同然に焦がした時に「ウェルダンだ」とごまかした事が由来だった。
 少し気が抜けて、欠伸をし、僕は新しいタオルを出して洗顔する。剃刀が二本あるのは僕と彼の分だが、透明人間の髭の有無は僕には一生分からない。鏡の中の僕は確かに、僅かに赤い目をしていた。部屋着のままダイニングの定位置に着いた。トースト二枚とバターと青いカップに入ったコーヒーを、僕は手を合わせ食べ始める。スープを付けても良かったかも知れない。ソファでセレスタとザムザが話すのを傍聴していた。セレスタの文字はここからではよく見えないから、ザムザの声だけが頼りだが、少女が座る場所から男声が聴こえるというのは何度見ても奇妙な光景で、僕は未だに見飽きない。

『…………』
「ん? 知り合いの所だよ。まあ色々とね。うん」
『……………………』
「違う違う。普通だよ」
『…………』
「違うよ。男だよ。初めて会った人だ。世話になったから、たまには会いに行こうって」
『……』
「ああ、大丈夫。雨は平気」

 昨日の外出の話題らしい。彼はいつ帰って来たのだろう。
 今、目覚めてからはじめて壁の時計を見ると、既に十一時を回っていた。明らかな寝坊にため息をつく。このトーストはブランチになるだろう。ところで、セレスタは一体何時に目覚めたのか。
 朝食を終えてコーヒーに口を付ける頃、男声が僕を呼び掛けた。

「昨日オムライス作って失敗したんだってな?」

 挑発的に聞こえたが、

「はい。玉子が駄目でした」

 と僕は従順に応じた。

「あれは、もうフライパンが古いんだよ。フッ素加工が取れてるから全部焦げ付いちゃうんだ。ついでに言うと、今朝、菜箸も先っぽが折れました。あと包丁もちょっとイマイチだけどそれはまあ砥石があるから良しとして。お前は台所用品に無頓着過ぎ」

 今更何を言うのか。

「という訳で、今日は……」

 タン、とダイニングテーブルが叩かれ、彼が結構近くに居たのだと知る。

「お買い物に行きます」

 後方からパチパチとセレスタの拍手。

「みんなで買い物に行こう。やっぱりC駅前のデパートが一番品揃えが良い。ちょっと高くても良いのを買おう」
「……構いませんけど、貴方は、人混み、大丈夫ですか」
「平気だろ。荷物持ちならお前が居る。君の支度が終わったら行こう。今日はもう雨も降らないし、明日からは晴れるみたいだ」
「急いだ方が良いでしょうか」
「いや……おれとセレスタは軽食取ってからにしよう。急がなくてもいい。セレスタも、そんなに早く起きた訳じゃないみたいだし」

 僕は席を立ち簡単に皿を洗った。あとでもう一杯コーヒーを飲もうと思う。着替えの為に自室へ戻る。携帯に着信は無かった。着替え、洗面台で髪を整え、ソファのセレスタの隣に座った。昨日もこうして隣に座ったのに、何故だか「再会した」思いが強かった。つい十二時間前には手も繋いでいたものを。

『よくねむれた?』
「寝過ぎてしまったみたいです」
『おつかれ?』
「……どうでしょう。でも、まとまった睡眠が取れて良かったのかも知れません」
『よかった』とセレスタは笑みを見せた。僕も相槌を一つ返した。
『服もかおうよ』
『みんなの』
『ザムザさんも』
「いいねえ!」

 不意に背後から声がしたかと思えば、肩に男の重みを感じた。僕とセレスタの後ろに立って、僕らを抱えているらしい。振り向いても何も見えないと知っているから、僕もセレスタも気にせず続けた。

『わたしのもえらんでくれたらいーな』
「セレスタはきっと何でも似合うよ」
『ほらいくん』
「僕は……」
「いいね、まるで似合わないのを着せてゲラゲラ笑ってやろうよ」
「失礼な」
『やくそく』
「じゃあ今日、ついでに選ぼうね」

 そう言って彼は僕達から離れた。スリッパがテクテクとキッチンへ歩き(動線が見えるだけでとても便利だ)

「セレスタ、林檎食べる?」

 カウンターに置いていた林檎が浮かび上がり、セレスタは手を挙げて席を立った。彼は包丁を出して林檎を四つに切った。それから芯を取り除き皮を剥いた。彼の手さばきは無駄無く見えた。
『くるくる』とセレスタが書いたのは、林檎を切る彼には死角らしい。

「ザムザ君」
「なに」
「皮をひとつなぎにくるくる剥くのはやらないんですか」
「そうすると手がべた付くだろ? 切ってから皮を剥いた方が良い」

 成程と彼女は納得し、今度は『うさぎ』と書いたのを僕は読み上げた。

「面倒くさい」
『えー』
「はい、林檎」

 爪楊枝を二本刺す。「いる?」と訊かれ、「僕はコーヒーだけでいいです」と返す。「自分でやれよ」と言われる。分かっている。彼と場所を替わり、僕は薄めのコーヒーを淹れる。ブラックではない。砂糖を、少し。
 ふと、思い立って僕は語る。

「林檎は食べられるんですね」
「え?」
「ザムザだから。林檎はお嫌いかと思っていました」
「食えるよ。おれは、ザムザだけど、グレーゴルじゃない」
『へんなの』
「ヘンじゃないよ。そんなもんだろ。腐らなければ、林檎は無害だ」
『そーかな』
「そうなんだよ」

 切られた林檎をつまむ二人の人物を僕はカウンターから眺めていた。彼らのことは現象として見飽きない。とても面白いと思う。

アムステルダム

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アムステルダム

 アムステルダムから父が帰ってきたのは、夜、日付をまたぐころだった。

 小学校に入学し、男の子から少年になりかけのその子は、何度も目をこすりながら、半分は眠りに落ちながら、父の帰りを待っていた。はじめての夜ふかしだった。父がいつ現れるのか、予兆のメールもよこされない中、男の子は実直に待っていた。男の子は父の早い帰宅をねがっていた。父に会いたいということもあったし、待ちつづけることのはてしなさに男の子が疲れてしまっていたこともある。深夜は、暗いし、おもしろいテレビ番組もないし、何分も何時間も単調に感じた。昼の太陽の移動のような、目に見える大きな変化が無いのだ。
 ソファは眠りを誘惑した。母は、寝てもいいと言ったけれど、少年は母のとなりで頑張っていた。
 父が玄関のドアをガチャリと開けても、その幼い眠気は吹き飛ばず、数ヶ月ぶりの対面なのに男の子は眠くてもうろうとしていた。
 寝ててもよかったのにと父が笑い、何度も寝かけていたと母が笑った。
 父を待つという義務を果たし、退屈な深夜から解放され、やっと眠れるという安心で、男の子は父にしがみついた。
 おみやげがあるよと父は言った。大きな鞄から取り出したのは、日本のどこにでも売っているような、ありふれたシリーズものの学習図鑑だった。白い目をする母に、父は、ほかの土産はスーツケースの中だと釈明した。けれどもアムステルダム土産――チーズフォンデュや筆記用具や用途不明な瓶や木靴など――よりも、男の子はいちばんに、日本の図鑑を気に入った。

「前から、海の生き物が見たいって言ってたからね」

 『水の生物』と題されたその表紙を眠たくもしっかり見つめる男の子の、つやつやとした黒い髪を、もう寝なさい、と、父は大きな手でなでた。

「ありがとう」

 本をかかげて男の子ははにかみ言う。そうして父の大きな手をとり、

「いっしょにねよう?」

 ひとり部屋をもらったばかりの男の子は、ひとりぼっちの就寝にいまだ慣れないままでいた。

 さびしかったのだろうな。

 父はうなづき、ベッドのとなりの椅子に腰を下ろした。幼い男の子には大きすぎるベッドだった。男の子がふとんの中から手を伸ばした。にぎった父の手はココアを入れたカップみたいにあたたかだった。男の子はもう一方の手に図鑑をいだいている。

「いろんな生きものがいる」

 男の子は『水の生物』を新しい友達のように愛でた。父と一緒にすこしだけページをめくり見ると、そこに居たのは見たこともない、新しい不思議な生きものたち。

「みんな、どこかの海にいるのかな」

 おどろきが男の子にふつふつわきおこった。

「海だけじゃなくて、川や湖にもいるんだろう」

 男の子にとって父は父であると同時に何でも知ってる先生だった。

「いつか会えるかな」

 まぶたはとろんと落ちるけれども、男の子は希望をおさえきれず、小さなほほを紅くした。
 この、不思議な友達に、いつか僕は出会えるだろうか。
 会えるよ、と父がほほえむ。
 いつしか男の子はやすらかな寝息を立てていた。
 父はつないだ手をしばらく離さなかった。男の子のまぶたにかかった前髪をはらい、大きなあたたかい大人の手で、男の子のやわらかでかよわいほほをなでた。

 男の子は夢を見た。
 色あざやかで、殻があったり、やわらかかったり、ふわふわ浮かんでいたり、足があったりなかったり、とてもはやく泳いだりする、不可思議で無重力な友達がいた。
 みんなが男の子に遊びにきた。彼らは男の子を平等に友達としてむかえいれた。やさしかった。
 海は気配で満ちあふれていた。存在の気配があった。目には見えなくてもなにかがここにいるという確信だった。そういう、たくさんの存在が、水の中から男の子を見守っている。男の子はそれがとてもうれしかった。

 あそぼう?

 存在のうちのだれかが男の子に語りかけた。声ではなかった。けれども意志は成立した。存在に手を引かれ、背中を押され、男の子はシャイにわらった。

 気付けば夢は明け朝だった。
 枕元に父はいなかった。男の子はいそいでカーテンを開けた。友達が待っているかと思ったのだ。
 誰もいなかった。
 ただ男の子にとってのいつも通りの風景があった。
 男の子は布団を抜け出し着替えると、キッチンの母におはようとだけさけんで、母が引き留める合間もなく玄関ドアを飛び出して非常階段を駆け降りた。街は変わらぬ風景だった。
 でも、夢の中であれ程までに伝わった気配は、もうどこにも見つからなかった。

プスヌシル

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プスヌシル

 灰色の雲が広がるのを見た。遠くの方は霞んでいる。窓は開けられないが、きっと風は強い。ここから海を見ることは出来ないが、鉛色に波打つさまを想像する。
 この食堂の窓からは首都圏を一望出来る。晴れた日なら銀色に輝くであろうビルディングも、今日ばかりは曇天がくらい影を落としている。今夜から明日まで雨が降ると聞いた。都市は陰鬱に灰色だった。午後はまだ長く、太陽光はにぶくなまぬるい。僕は独り街を見下ろしている。
 窓は全方位に採光をとり、晴天ならばかなりの景観を期待出来る。実際数々の超高層ビル、それらを繋ぐ橋、海まで伸びるライン、これらの構造物のギャラリースペースとしての意図もあった。
 橋の上に街が建つ一方で地下鉄の開発はいまだ続いている。地上へ地下へ街は伸び続ける。都市部ばかりが高層化・橋化の一途を辿る。そのなかには、父が架けた橋もある。

 などと窓際でカレーを食べていたのだが、
「社員食堂みたいですね」
 という、馴染みのある声に僕は目を上げた。二つ下の井下田君だった。
 僕の服を言ったのだと思う。
「いやみですか」
 彼は塩ラーメンの盆を手にしている。洒落た眼鏡とジャケットが似合っていた。
「まさか。ただの感想ですよ。先輩、ひとりですか」
「はい」
「一緒していいですか?」
「どうぞ」
 と、僕は隣の席を勧めた。

 井下田翔太郎は学部の後輩で、映画部の演出家だった。塔子さんは部の女優で、彼女に連れられて手伝いをしているうちに(僕は映画部には在籍しなかった)彼らとの縁が生まれ、井下田君とは今でもこうして話している。塔子さんと井下田君は親しかった。気さくな態度で交友も広い。

「先輩、カレーなんですか。珍しい。俺が知る限りじゃあずうっと日替わり定食だったじゃないですか」
 言われると確かにそうだったと頷いた。
「何かあったんですか?」
 と言われ、何があったのか、思い出せなくなってしまう。僕の沈黙を井下田君は笑った。事象は説明し難かった。否、僕は説明を避けた。替わりに「食生活が変わったんです」と答えた。
「夕食を自炊するようになったので、昼も定食だと都合が悪いんです」
 実際の所炊事をこなしているのは僕ではないが、井下田君は納得したらしかった。
「いいじゃないですか、自炊。安いし、健康的だし。帆来先輩は放っておいたらレトルトと缶詰しか食べないんじゃないかって、塔子先輩も言ってましたっけ」
「塔子さんが」
「そうですよ。俺達、先輩のこと色々考えてるんですよ。放っておいたらすぐやつれて駄目になるって塔子先輩がこぼしてましたから。元気そうでなによりです」
「それなら良かったです」
 僕は何気なく答えただけだったが、井下田君は不審の目を向けた。
「帆来先輩の話なのに、まるで他人事じゃないですか。俺がどれだけ塔子先輩に念押しされてるか……」
「監視役ですか」
 僕が死なないように、とは、口に出さない。
「いえそんな! でも塔子先輩いわく『汐孝の健康を見守る会』だそうで。まあ、会と言っても塔子先輩と俺しか居ないんですけどね……。指令官と、手先」
 妙な話になっているようだ。
 昼食を食べ終えた僕はまた灰色の街を見る。天気が悪いなあと思う。波立っている。穏やかではない。

「塔子さんはお元気ですか」
 尋ねると井下田君は目を丸くして、
「先輩はやりとりとかしてないんですか?」
 見送りに行って以来一度も連絡を取っていない。
「メールなりコメントなりすれば、返信遅いですけど返って来ますよ」
「彼女が変わりないようであれば伝えることもありません」
 言うと、彼は疑念を抱いたらしい。呆れの表情さえ窺えた。
「先輩、冷めきってないですか。そういうときには用が無くても、近況報告したり、会いたいとか言うものでしょう。塔子先輩が向こうで悪いオトコにたぶらかされてたらどうするんですか」
「誑かす?」
「そうですよ。先輩に愛想尽かして向こうでデキちゃってるかもしれませんよ」
「……それは塔子さんの問題なので僕の出る幕ではありません」

 井下田君は、あまりに大げさに喫驚した。そしてそれでは駄目だと僕を諭したが、そのことばに次は僕が呆然としてしまう。

「先輩、それでも彼氏なんですか?」

 返すことばも無く沈黙した。彼も話が噛み合わぬことに気付き、おそるおそるに問いかける。
「……つきあって、ないんですか?」
「……塔子さんは、そう言いましたか」
 問いに井下田君も首をかしげる。
「いや……傍から見るとどう見てもカップルですよ。というか映画部内では公式というか」
「公式?」
「なんでもないです。みんなそう思ってて、俺もそうだと思ってたから……」
 彼を悩ませたのは僕だったが、頭を抱える井下田君が何か気の毒に見えた。しかし何故彼が僕と彼女の関係に固執するのだろう。

 “高橋塔子”との関係を思い返す。彼女とは断続的に二十年近くの交際だが、実の所記憶に残るのは最後の七年間に限られる。二人きりの関係になることは無かった。はじめて出会ったのは五歳の海で、それぞれの父と居た。大学には映画部があり、井下田君らが居た。高校は三年間、同じ教室に彼女と……

 ――彼がいた。

「先輩」
 井下田君が僕を呼び戻す。揺らめいていた視界が焦点を取り戻す。
 井下田君は封筒を僕に差し出した。開封を促され、開くと映画のチケットが二枚。
「ペアチケットです。俺のオススメ。デートにでもどうかなあって思ってたんですけど……まあいいや。
 先輩や塔子先輩が好きそうな雰囲気だから、二人で見に行くようにって用意してたんです。小劇場なんですけど、上映期間がけっこう長いので、塔子先輩が帰ってきたときにでも一緒に行ったらどうかなあ、って」
 裏面に劇場の名があった。僕の知らない名前だった。
「塔子さん、帰るのですか」
「さあ、はっきりとは分からないんですけど、それっぽいことは仄めかしてるそうですよ」
 礼を言って二枚のチケットを鞄に仕舞った。
「じゃあ、また何かあったら連絡します」
 と、彼は次の講義の為に立った。去り際に「お幸せに」と言われたが鈍く頷くことしか出来なかった。

 チケットの表の題名を見た。

汀線ていせん

* * *

 降りはじめた。今はまだ小雨だった。霧雨に近い程度だが、傘を差す姿をちらほらと見かける。鞄の折り畳み傘を取り出す。これが旧式の造りで、骨が自動に開かない為、人の手で間接を折らねばならず時間がかかる。知人からは買い換えを勧められているが、不便なだけで使用自体に不具合は無いから壊れるまでは使うつもりでいる。
 夜には本降りになると予想される。こんな日に外出すると言ったザムザは大丈夫だろうか。しかし遠方の塔子さんにも心配されるような自分に、他人を案じる資格などあるのだろうか。ましてや彼。きっと虫よりもしぶといのだろう。

 駅までの長い橋を歩いている。この界隈はかなり早くから橋化した地区で、自動歩道や雨避けが無い。ビルとビルの透間を縫うように橋が繋ぐ。土地不足ゆえである。しかし繁華街やオフィス街を抜けて住宅地に出ると、こういう橋は殆ど見られない。T市はC駅前のみ橋化しているが、丘陵地帯の為郊外にも架橋されている。父は橋の技師である。そして僕もいずれはそう成る。

 眼下の水面はビル風でさざ波立ち、現実の雨の干渉に震えていた。橋の下の車道は低地で水が流れ込むらしく、さながら運河のように思った。見慣れた光景だった。平常より水位が増しているらしい。雨天のせいだと思ったが、はたして両者の関係を知ることは出来ない。
 風景を嫌いにはなれない。悲しむことはあっても憎むことは出来ない。悪いのは僕ひとりで、僕はそれに黙従している。
 視界の隅に水面を臨みながら歩く。街は霧雨で白く霞み、すべてが遠くにあるように見えた。どこまでがほんとうの景色なのだろう、と、ぼんやり考える。肌寒い。ビル風に背中を押される。靴が少し濡れた。

* * *

 ずっと長雨が続いた。C駅からの帰り道も白く霧雨だった。傘はささずに帰ってきた。悪い気分ではない。霧を浴びて、妙に穏やかな心地だった。夕食はありあわせのもので簡単に済ませることに決めた。
 丁度家に着いた頃に雨は強さを増した。鍵を開ける。革靴が一足隅に寄せられていた。しかし物音はせず部屋は暗かった。気配が無かった。明かりを点けて、僕ははじめてソファに眠る彼女に気が付いた。

 セレスタは制服のまま眠っていた。軽く身体を屈してソファに小さく収まっていた。人形と見誤りそうな程に彼女は深く寝入っていた。そして胸には一冊の図鑑を抱きかかえていた。『水の生物』、僕が幼い頃に読み耽った、僕自身も所在を忘れていたとても古い本だ。何故彼女がこれをもっているのか分からない。

 幾度か寝返りを打ったらしく衣服は少し乱れていた。短いプリーツスカートの腿は白く寒そうに見えた。直すか否か躊躇ったが、僕は密やかに裾を正した。
 不図「髪を触ることが好き」と言ったことを思い出した。眠る彼女を見た。瞼に掛かっている髪を指で払った。そのまま手櫛で軽く調えた。そして止めた。まるで人形のように扱ったことにひとなみの罪悪感が痛んだ。彼女は少し震えるように脚を屈めた。やはり寒いのだと思った。僕は寝室から使われない毛布を引っ張りだした。結局あの部屋で寝る者は居ない。僕はそっと障りの無いように毛布を掛けた。

  ん

 その時声を聴いた。声ともつかないような微細さであった。それは、僕が毛布をかぶせた瞬間、眠る彼女が無意識に発したものらしかった。僕はどきりとし、沈黙し、彼女の次のことばを待った。何も無かった。彼女はまた微弱な寝息をたてて毛布の中に顔をうずめた。

 僕は確かに彼女の声を聴いた。眠る彼女を盗聴した。

 しばらくカウチの傍に立っていた。意識せずとも、眠る彼女の呼吸を聴いていた。

greysky

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greysky

 午後から、急に違和感とか気だるさを感じて、寄り道もせずにはやく帰ることにしました。午後の電車は混雑こそしていないものの満席で、壁際にもたれて窓を見て気をまぎらわします。本当は座りたいです。ぼんやりします。けれども痛みは重くわたしにのしかかります。雲は厚く、切れ切れになった透き間から弱々しい青空が覗くのを、わたしはただ眺めていました。乗換駅では次の電車に座れたので、そこでわたしはその人からのメールを読み返します。

 いいことの次には悪いことがある。悪いことの次にはまたいいことがある。

 少し沈んでしまっている、とわたしがこぼしたことへのメッセージ、だけれども、励ましという感じの直球ではなくて、わたしは好きです。

 あれからわたしたちのメールはだんだんと長文になりました。最初はとりとめのない日々の報告だったのが、じょじょに内面・思考を語り合うようになり、一通受け取ったらその日は一日返信を考えて、一通送ると翌日また一通が届きます。議題は深くふかくなってゆきます。いろいろなことを考えます。きっと現実の友達とは語らえないことだと思います。出会わないから語れるのです。気負いせずに語れる哲学ごっこ。

 ふと、現実のともだちを思い返します。ともだちと呼べるのかはあやしいのですが。
 毎日家を訪ねて一緒にごはんを食べる仲は、ともだちと呼べるのでしょうか。録画した映画をみんなで見たり、ザムザさんの変な話を聞いたり、寝ている帆来くんに二人でイタズラしてみたり、たまにケーキも焼いたりして、毎日、ふつうにすごしています。

 普通? 血の繋がらない関係で、知り合いだった訳でもなく、友達とか恋人でもないことは、普通ではないのでしょう。目に見えない人がいて、わたしは喋らない人で、……そうすると、彼だけがふつうの人なのかもしれません。けれどもふつうなら、普通は他人であるわたしや透明人間という人を招かないと思うのです。
 でもわたしも本当はふつうの人なのです。ザムザさんも見えないだけのふつうの人です。やはりわたしたちはこれでふつうです。

 いつものホームのいつもの場所に電車は停まり、いつものわたしは家まで歩くのですが、今日だけはバスを利用しました。ゆっくりと揺れる車体が眠気を誘います。寝てしまえば嫌な気分も忘れると思いましたが、今は眠気よりも痛みの方が勝(まさ)っていました。無理をしているという訳ではありません。耐えられる痛みです。マンションはバス停からすぐの所にあります。久々にエレベーターを使い、一度かばんの中身を整理して色々整えてからひとつ上階へ向かいます。自室に居るという選択肢は浮かびませんでした。
 ドアに手をかけようとしたら、それよりも前に向こうから開いて
「ああ、おかえり」
と、声だけが聞こえます。ザムザさん。

 見えない人との接し方をわたしは学びました。居場所の予想をつければさほど困ることはありません。そしてわたしは彼のことをもうひとつ知っています。

『でかけるの』と、わたしはメモなく口パクします。
「うん。帰りが遅くなるから……夕食はふたりで食べててくれないかなあ。おれは今夜帰るか分からない。雨降ったら帰らないかもしれない」
『どこ?』口パク。
「えーと……川沿いのほう。旧地区。ちょっと用があって」
 いったい何の用かと不思議でしたが、わたしは尋ねませんでした。透明人間コミュニティでもあるのでしょうか。
『あるき?』と訊くと「一時間ぐらい」と返ってきます。会話はとてもふつうです。
『バス のれないもんね』
「そうだね。まあ、歩けない距離じゃないし」

 このひと、どうやら読唇術が使えるようです。
 いったい透明人間がどうして読唇術を会得したのか全く想像に及びません。しかし事実は事実なので何も言えません。スルーです。そもそもなぜ透けてしまったのかも聞いていないし本名も伏せられたままです。わたしはそれに甘んじています。だからわたしはまた口を開きます。

『ほらいくんは?』
「まだ帰ってないよ。出かけるって伝えてたけど、一応連絡入れといてくれないかな」

 ザムザさんは携帯を持っていないので伝達事項はわたしたち任せです。分かったとわたしは頷きます。

『でかける かえるかわからない ゆうしょくつくって』
「うん」
『かさは?』
「いや……持ってても、ホラーだし」
 確かに、傘だけが宙に浮くようです。でも水に濡れても輪郭だけが見えてしまいそうです。
「なんとかするよ。うん」
『かぜひかないでね』
「ねえ。医者なんて行けないもんね」

 診療を受ける透明人間を見てみたくもあります。
 なんて思っていたら頭をわしわしとなでられました。犬のような扱いです。

「行ってきます」と言って彼は去りました。届かないけど『いってらっしゃい』を言いました。

 彼がいなくなって、急に痛みがうずくのを思い出しました。誰もいないのか。さびしさを感じます。お邪魔して、鍵をかけて、誰もいない家を見渡します。わたしの家と間取りは変わらないのに、家具の位置や部屋の使い方がちがうだけでまったく違う印象です。勝手は分かるのですがルールが違います。そして匂いが違います。保健室とか理科室の冷えに似た、ひんやりと鼻の奥をつくような匂いです。最近は慣れなのかうすれてしまったけど、ときどき、ふと、その匂いを思い出します。
 誰もいない家はとても殺風景でつめたい匂いがします。
 わたしだけがじんじんと痛みを覚えます。

 かばんから薬を取り出します。数錠しかありません。わたしのグラスで水を飲みます。シャツに水を少しこぼしました。
 頭痛薬なら帆来くんが常備してそうです。睡眠薬もありそうです。そして貸してといっても貸してくれなさそうです。「効きすぎるから」と言って。

 なんにもやることがなくて、ソファに寝ころんでも何にもならなくて、携帯を見ても何も起こりません。ただ体だけが重くていかりのようでした。思い出して、わたしは帆来くんにメールします。

『ザムザさんは旅に出ました 雨が降ったら今夜は帰らないそうです 夕食はほらいくんがつくるそうです(´∀`)』

 送信。
 しばらくして返ってきたのは『了解』の一言だけ。句読点以外の記号を見たことがありません。VIIIIさんとのメールとはまるで真逆です。
 言うこともなく『(`・ω・´)』とだけ送りました。返信はありません。

 ふらふらと意味もなく部屋を見て回ります。帆来くんの部屋にはあまり入りません。ベッドを借りて寝たことは何度かあります。机、椅子、本棚、PC機器、オーディオがあるだけでした。クローゼットは据え置きです。うちと全くかわりません。客間という、ベッドが二つの部屋も結局あまり活用されません。クローゼットはザムザさんが使っているそうなのですが、もともと私物も少なく、おまけに見えないものばかりなので、わたしが触ることもありません。リビングにもものは少ないです。四人掛けのダイニングテーブル、TV、ソファ、電話台に電話は無くてインターホンだけ。壁には時計がひとつしか架かっていません。全体的に白っぽいです。閑散としています。この静けさが、時折感じる冷たい匂いの原因じゃないかと思います。

 けれどもひとつだけ、雑多で密集した部屋があります。わたしは敬意を払って書斎と呼びますが、帆来くんは物置と呼ぶ部屋です。
 二つの大きな本棚が壁の一面を埋め、物書き机の上にも本が積まれています。本棚には名前だけ知っているような名作、専門書籍、図鑑、古い科学誌や写真集が並んでいます。『変身』と『透明人間』が隣り合わせなのはわざとです。本は机の上と周辺にまであふれ返っていて収拾がつきません。わたしよりも帆来くんよりも年上の本がありそうで、そう考えると奇妙な気分です。
 そして本棚の向かいには楽器、旅行鞄、古新聞の束、サーフボード、壁にかかっているのは自転車のタイヤ、かんたんな竹の釣竿からしっかりとしたつくりのものまで。古めかしいキャビネットには空瓶と貝殻のコレクションらしきものが飾られていて、きわめつけは部屋のすみで帽子かけになっている、薬局の前にあるような大きな蛙の置物。などなど、深くさぐってゆけばきりがなさそうな数々の品。もちろん、きっとただ片づいていないだけなのですが、リビングや寝室とはまったく異質な空気を感じます。薄暗く雑然としたこの四畳半が、この家では異空間でした。
 この真下にわたしの部屋があります。
 そういう理由から、わたしはこの部屋にふんわりとした思い入れがあって、帆来くんも「好きにして良い」と言ったので、読書課題が終わったあともわたしは書斎を利用しています。

 ですが今日は品定めするほどの元気がありません。活字を追う気力もなさそうです。わたしは床に座りこんでそびえ立つ背表紙を眺めていました。
 ふと、一番下段が目に留まりました。隅に一冊の図鑑を発見しました。他の書籍と違ってその本は子供用です。『水の生物』と題されたたたずまいの幼さがわたしの興味をひきました。『水の生物』を棚から引っ張りだしてカウチソファへ連れ込みました。

 子供用のその図鑑はとても読みやすいものでした。持ちやすく疲れない重さです。よれたページをテープで補修した箇所がいくつもありました。わたしはぱらぱらとページをめくります。てっきり、魚の図鑑かと思っていたら、そうではなくて軟体生物、無脊椎動物の方でした。少し色あせたカラーページに奇妙な生物のかたちと名前がたんたんと整列しています。スベスベマンジュウガニ? スカシカシパンを背負うキメンガニ? グロテスクと一言で片づけられそうななかに純粋な好奇を覚えました。
 殻のないやどかりの尾はとてもやわそうで、触れたら弱って死んでしまいそうです。テヅルモヅルという名の唐草模様に似た植物のような姿のヒトデ。ゆれるイソギンチャク。海底を這うアメフラシやウミウシの毒々しい鮮やかさと形状。
 彼らが海の生物でよかったと思います。たしかに、うつくしいけど、こわいです。夢に出そうな曲線でした。わたしの沈鬱な不調のようです。
 わたしは巻き貝よりも二枚貝を好みました。ページにならんでいたのは貝殻ばかりでしたが、ときどき、生前の肉を持った姿も描かれました。そのやわらかさを想像してしまいます。
 桜貝の名前と見た目のきれいさは承知していましたが、あたらしく紫貝とシオサザナミ貝を知りました。薄紫色の殻です。シオサザナミという名前が妙にわたしのなかに居座りました。漢字で表すと、汐漣貝。きれいだな、と思います。

 くらげが波にたゆたっています。泳いでいるのではなく、浮かんで水にまかせるままというふうです。
『透明なからだで……』と一文がそえられているのに、わたしはおかしな気分になりました。透明でもかたちが見えるものは、透明と呼べるのでしょうか? ……と考えて、透明なものを思い出しても、水とかガラスとか、透けていても目に見えるものばかりです。逆に、透明人間という呼び名が奇妙なのかもしれません。空気人間? しかし彼は触ることができます。固体です。するとやはり透明人間なのでしょうか……?
 わかりません。
 くらげが透明ということは間違いありません。内部構造が見えますから。なかには赤や紫という色どりゆたかな種もありますが、無色透明な方がわたしは好きです。尾だとかレース飾りのような繊細な触手を水中にたなびかせています。水と同化したようなからだです。水のためにつくられたデザインです。
 そして毒があります。出会いたくはありません。

 もうすこしくらげのページがあるかと思いきや、生物の紹介はそこで終わり、あとには白黒の解説文がそえられていました。観察の仕方、水中微生物、毒のある生物について、潮汐力、渚、干潟。

 ページをめくりつづけるうちに、わたしはずいぶんと眠気を覚えました。泳ぎ疲れたあとのような鉛のような眠気です。重い下腹部にともないまぶたも重くなります。あらがう必要もなくそのままソファに横たわりました。もともと、眠るためのソファです。十五分だけ眠るつもりで、わたしはまぶたを閉じます。あわいくらやみにつつまれます。

* * *

 あわいくらやみのなか。あわいあたたかさのなか。身体をつつんでいるあわい触覚。湿度。水。

 夜のプールに浮かんでいることを思い出しました。なまぬるい温度と感覚はそれゆえでした。室内プールです。高いガラス天井に無色の明かりがこうこうと整然と並んでいます。しかし明るいのは天井だけで、わたしのいる水面は夕暮れのようなうすぐらさです。水底に足がつきません。あおむけに浮いているからです。水深と広さをはかるためにわたしは身体をもちあげました。思わず息を呑みました。
 底が見えませんでした。足もつかず、どこまでもくらく、果てが無いのです。あまりにたよりない闇のなかにわたしはぽっかりと浮かんでいました。50mプールの水面にもプールサイドにも、見える限りにはわたししかいません。水中はいっさいが謎でした。なにが泳いでいるのか、なにが這っているのか、何もいないのか、何も分からなくて、くらい空想ばかりが膨張してわたしを追い立てます。人を食う生き物や毒をもった生き物をわたしはたくさん学びました。怖いです。噛まれることや刺されることが怖いのではなく、ただ、彼らがいることが、それが目に見えないことが怖いのです。
 わたしはプールサイドにあがろうとしました。泳ぎは得意ではありません。ふだんと勝手が違うのでよけいに疲れてしまいます。水音は思いのほか反響しました。ここにはわたしの音しかありません。水の中に静かでいることは不可能だと知りました。
 ようやく岸にたどりついたときにはもうくたくたでした。水の反動をつかって陸に上がると、そのままプールサイドに倒れ込みました。あまりに疲れて身体が重く、わたしはびしょぬれのまま横たわります。そうしてそのままそこにいました。

 人がいることに気がついたのはそれからです。疲れはてたわたしは目線だけを動かしてその人の存在を知りました。
 その人はわたしのそばに立っていました。わたしはその人を知っています。声をかけようとして、わたしは、自分が発声できないことに気付きました。その人はわたしに視線を落とします。動けないわたしはただ目線だけを彼に返します。見上げた彼の眼はくらがりのなかの更なる影のように、わたしが浮かんだプールのように、奥底を見いだせないような暗黒色でした。
 彼は口を開きます。でも何を語っているのか分かりません。そこに音声がありませんでした。二言三言同じことを言い続けているようですが、わたしはそれを受け取ることができません。

 彼はわたしの隣にかがみました。人形のようにどんな表情も波立つことがありません。ただとても静かな目をわたしに向けます。わたしは目を反らしました。少しだけ怖かったのです。

 ……ほんとうはずっと怖じけていました。わたしはあなたのなかに居座るほどの勇気がありません。わたしは卑怯です。

 思いがけず、触れられたことに、わたしは驚きこわばりました。しかしおびえたことが全く無駄なくらいに、彼はとても静かな手つきと瞳で、わたしの濡れて乱れたスカートを正しました。事務的ということばよりも更に無感情に見えました。彼はわたしの前髪も手ぐしで整えました。深意が読めません。どうして? と問いたいのですが、わたしはサイレントです。依然として彼は何かを話しかけます。わたしを撫でる彼をわたしは見つめていました。

 不意に彼は新たなことばを口にしました。それは音を伴いました。新たな口調でもありました。冷えきったナイフのようでした。

 ――分かりますか?

 彼はそう言ったのです。

 呆気にとられたわたしを彼は怒りも笑いもしません。突然目が合います。底無しの黒。わたしは動けません。

 ――ここは僕の場所です。

 彼の手はわたしの瞼をなぞり、無理にわたしの視界を閉ざしました。くらやみにつつまれます。彼はそのまま、わたしの鼻孔と口を塞ぎました。冷たい手でした。
 彼の均質な声が音さのように響きます。

 ――ここは僕の場所です。

 わたしは答えられません。わたしは、遠く、くらくなってゆきます。

【暗転】

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