act.3

ブラックアウト

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ブラックアウト

 帰宅して手を二回洗った。一度しか洗うつもりは無かったのだが、気付いたら二度石鹸を出していた。無駄なことをしてしまった手を水の滴るままに眺めていた。視界の隅に歯ブラシと剃刀があった。剃刀が僕を見ている気がした。僕は逃げた。仮眠を取る旨を伝え自室に籠もった。上着だけ椅子に掛け、ネクタイは弛めずに、そのままベッドに倒れ伏した。
 漠然とした頭痛を感じた。さりげなく締め付けられるような痛みだった。こうして安静にしていなければ気付かなかったかも知れない。次にめまいを覚えた。冷と熱の波が頭の中を交互に押し寄せては引き、視界は透明なむら模様に波打った。腹の中には嘔吐の残留感があり、游泳のあとに似た眠りを誘う倦怠が全身にのし掛かった。しかしどれも休養には到らない。活動しようと思えばできる筈で、まだ耐えられる不調だった。だから僕は僕を癒す為というよりも彼らを安心させる為に休養している。それに今はリビングの明かりの下よりも、薄暗いこの部屋で、病人か遺体のように眠り続けている方がお似合いだろう。
 羞恥にかられ嘆息した。敬司君にも伝えきれなかったと思い出す。セレスタにも言えず終いだった。そうして彼らの目前で吐いた。あまりに見苦しい。昨日、浴室で吐き出してしまうべきだった。
 治せ。敬司君の苦言が響く。何よりも塔子さんの為に僕は治療すべきだと分かっている。
 しかし、本心を言えば、僕には治療する気が無いのだった。僕は自身の知覚を疎んではいない。沈黙を守っていれば主観は誰にも伝わらない。けれども嘔吐は人の目に触れる。いずれ秘密に留めることは出来なくなる。最近は吐気を催すことも無かったから慢心していたのだろう。
 毛布は僕を落ち着かせたが、僕にとってはそれよりも、広い浴槽に水を張り、ぷかりと身体を浮かべる方がふさわしい休養のように思う。どんなに寝台がやわらかくても重力は僕に重荷だから浮力に身体を任せたかった。若しくは溺れてしまいたい。誰にも気付かれないように黝(あおぐろ)い水の中にひっそりと沈没していたい。
 溺れてしまおうか。シーツの中で。あるいは今夜のバスタブで。自死の意図は無いつもりだ。ただ単純な望みとして、自分自身が気泡となり失せ溶け流れたい。消え失せたい。生死以前の存在を無くしてしまいたい。
 とても失礼なことだとは分かっているが、僕は透明人間という存在に憧れている。僕こそ風景の中に透き通るべき者だと思う。誰の目にも見えぬように、誰にも気付かれぬように、僕はひっそりとどこかへ居なくなりたい。それはひどく無責任な願いなのだけど。

 目を開けたのは日没後のことだった。ノックの音がして顔を上げ、僕は自分が本当に眠っていたのだと知った。

ブラックワーム

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ブラックワーム

 家に着くと帆来くんは「仮眠を取りたい」と言った。顔色はまだ蒼く見えたから「それが良い」と返した。

「夕飯時になったら起こそうか」
「ありがとうございます」
「食べられるか? 魚も焼いていい?」
「お願いします。あと、大根おろし……」
「分かってるよ。……お休み」
「……失礼します」

 そう言って家主は自室に閉じこもり、リビングにおれとセレスタが残された。
 食料品を冷蔵庫に移し替えていると、卵が幾つか割れていることに気が付いた。橋の下で吐いた時に袋をどこかにぶつけたのだろう。病人を責めても仕方がないから黙っておくことにした。
 セレスタはソファに座り俯いていた。ただ静かに座っているのが、患者の手術終了を待つ面会人のたたずまいに見えた。病院のヴィジョンが頭から離れない。

「大丈夫だよ」

 隣に座るとセレスタはおれに身を寄せた。

「ちょっと体調が悪いだけだよ。少し休めば落ち着くだろ」

 彼女は言葉に詰まって黙りこくった。でも、橋の上の件は知りたいと願っている筈。

「さっき、行きに会った人、帆来くんの古い友達らしい。公園の交番の巡査なんだって」

 目の前で見たことを最小限に伝えるに留めた。おれも事態を把握していないし、おれが見たものはいわば盗撮映像であり、この不正な身体で目撃した以上黙秘義務があると思っている。
 セレスタは何も言わなかった。

「持病があるみたいだけど、話を聞いていて、どういう病気かは分からなかった」

 不安げにスカートの裾を握りしめ目を伏せていた。目の前で人が嘔吐したら、誰だって彼の健康を案じる。腫れ物に触るような態度も取る。

「でも、本人に訊かなきゃ分からないね。今すぐ命に関わるような、深刻な状態ではなさそうだけど。
 一時的に気分が悪いんだろう。すぐに良くなるよ、きっと」

 一見は信憑性のある台詞だが、実の所、真実は本人しか知らないし、おれよりも巡査の方がこの件の理解は深いだろう。
 少なくとも過去に彼の体調を巡るいざこざがあり、巡査と、高橋という人物がその中心人物で、高田氏と帆来くんは長く決裂しているらしい。
 風邪でもなしにここまで不調を訴えるのはおれとセレスタが知る限りこれが初めてだった。慢性の病ではなく発作的なものではないかと思われる。医師にも説明つかないという。その時、患者と医者のどちらが病を理解しているのか。
 消化物も胃液も無い、純粋な水だけの嘔吐症状が存在するのか。

 セレスタは落ち着いたようだった。ソファを立ち、棚から紅茶を取り出した。

「おれの分も注いでくれる?」

 呼びかけるとこっちを向いてちょっと笑った。ケトルに水を汲んで沸騰を待った。

「ああ、そうだ、魚焼くときに、大根おろしを手伝ってくれないかな。あとフライパンの試しにだし巻き玉子でも作ってみない?」

 セレスタは全てに頷いた。

「じゃあ、お茶飲んだらご飯つくろう」

 他愛なく喋り他愛なく笑った。何でもない夕方の光景。

ブラックボックス

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ブラックボックス

 結局セレスタは繁華街まで辿り着いてしまっていて、花壇に座ってクレープを食べている所を発見した。さすが休日のC駅近辺は人出が多く、おれは身をかわすことに油断がならない。特に走り回る幼児などは行動が読めないから気を遣う。セレスタに近付き、隣に座り、帆来くんは傍に立っていた。セレスタは『いる?』と食べかけのクレープを帆来くんへ差し出した。彼は「いいえ」と物静かに否定した。

「じゃあ、一口貰っていい?」

 耳打ちするとセレスタはひそかに頷いた。ごく自然な風にクレープをおれの方に傾けた。丁度、前に立つ帆来くんが目隠しになり、道行く人からは目立たない。身を乗り出して少々無理な体勢で一口頂いた。定番のチョコバナナクレープだった。「ありがと」と礼を囁いた。
 座りなよ、とセレスタはおれの反対側に帆来くんを座らせた。彼は何も言わなかった。未だ考え込んでいると見える。いつにも増して沈んでいる。あの場を離れたセレスタもそれは感づいているようで、誰も、何も語らなかった。そんな中ふと思い立ったように「急がなくてもいいですよ」と帆来くんはセレスタに呟いた。道行く家族連れ、男女、学生達、それら幸福そうな人々を眺めながら、セレスタが食べ終わるのを待っていた。口の中にホイップクリームの白い甘みが残っている。クレープなんて久しく食べていなかったと気付く。娯楽を味わうことが無かった。

 本当は色々見て回りたかったが、家主が意気消沈の為、菜箸とフライパンと食料品だけを買って早く帰ることに決めた。服などはまた次回皆でゆっくり回ろうと思う。食べ終えたクレープの包みを折り畳むと、セレスタは家主の手を取り立ち上がり、励ますように笑みを見せた。家主はまるで表情無く、されるがままに立ち上がった。「行こう」と囁くとかすかに頷いた。『どこ?』とセレスタ。当初の目的だったデパートに入り、五階の家具雑貨店で台所用品を品定めした。フライパンや箸のほかにも、大概の食器と大概の家具、ベッドやソファやテーブルや鏡台が並んでいた。

「なんでもあるんだね」

 と、店内を見渡しているセレスタに囁いた。

『すめそう』
「ああ、確かに。……いけるな」

 そういえばウェルズの原作『透明人間』にもデパートに潜伏するシーンがあった。人の目を掻い潜れば衣食住には困らないだろう。公園よりもよっぽど良かったのかも知れない。
 冗談を囁く傍らで家主は相変わらず上の空といった風で、棚を見定めている振りをして実は心ここに在らずらしい。彼がぼんやりしている間にセレスタとフライパンを選んでしまった。菜箸は百均で買うことにした。セレスタは手にしたフライパンで帆来くんをつついて会計へ向かわせた。彼が荷物持ちにしてお財布にして最高責任者なのだから、しっかりして貰わなくてはならない。
 フライパンの柄がはみ出た袋を提げた家主を引っ張り、同階の百均で二本で105円の菜箸を買い、隣の棚にあった砥石も買った。その頃には彼も大分落ち着きを取り戻したらしいが、如何せん表情に乏しい為判別しがたいし、日頃から上の空な気もあるから確証は持てない。
 エスカレーター前の休憩ベンチに並んで座った。セレスタが携帯画面に

『どこか行きたいとこ ある?』

 と打ち込んだ。帆来くんは頭(かぶり)を振り、おれは無言で否定を表した。すると彼女はエスカレーターの上階を指さした。そこはワンフロアを占めた書店だったが、

「今日はいいです」

 家主は呟いた。

「寄りたい?」

 そっとセレスタに囁くと彼女もまた頭を振った。

「じゃあ、食料品買って、早く帰ろうか」

 そう言っておれはベンチを立つ。それは二人には見えなかった筈だが、

「貴方は、いいんですか」

 まさしく、引き留めるにふさわしいタイミングで、帆来くんは目を伏せ独白のように呟いた。

「おれに言ってんの?」

 答えは無かった。

「別に、おれは、用事なんて無いし、カフェで一服なんていかないから、君達に合わせようと思うけど。ていうか、おれは荷物持ちも出来ないだろ」

 だからおれのことは気遣わなくていいし、おれはお前の方が心配なんだ、とまでは発言しなかった。話し相手はフライパンと箸の袋を手に提げベンチを立ち、

「行きましょうか」

 とセレスタを誘導し、エスカレーターを下った。

 食料品はデパートの向かいの総合店で買う。自分でカゴを持つことや商品を手に取ることが出来ないから、いつも耳打ちで指示を出すか彼らの判断に任せている。何がいいかと尋ねると「何でも」と返される。それが一番困るというのに。
 適当に主菜を探して歩き回っていると、鮮魚売場で帆来くんは足を止めた。目線の先には、サンマがあった。言葉の代わりに脇を小突くと、彼は三尾を袋に詰めた。そしてぼそりと、「大根おろし」と呟いた。

「魚、好きなの?」

 彼はわずかに頷いて、野菜売場の方へ向かった。セレスタはキョロキョロとおれを捜し、おれは彼女に触れてそれに応じた。彼女は、口パクで一言、

『さかながすき』
「セレスタが?」

 そっと尋ねる。セレスタは小さくNOを示し、家主の方へ駆けて行った。昨晩おれが不在の間に彼らはちょっと仲良くなったらしい。
 セレスタは三つ入りのプリンをカゴに入れた。他にもパンとか卵だとかをいくつか買った。重くなった食料品の袋を帆来くんが持ち、フライパンをセレスタが持った。本当はおれが代わって持ちたかった。ここでは出来ない。目立つ訳にはいかない。来たときと同じように、駅前はまだ人出で賑わっていた。

 意識したことは少ないのだが、この近辺は丘陵地帯で高台が連なって一つの街になっており、巨大な橋が地上をシームレスに繋いでいる。マンションからC駅までは橋を二回渡り一回くぐり、一、二回また渡る。旧地区はというと、川沿いの平地の為平坦な街並みで、ビルとビルを渡す橋ぐらいしか無い。C駅街の通りや橋は全てレンガで統一され、突き当たりには屋内テーマパークがあり、お土産の大きな袋を抱えた家族連れと何度もすれ違った。彼らはレンガの道を通り駅へ向かうが、おれ達は駅を離れうちへ帰る。テーマパークの脇の橋をくぐる。橋の下でレンガは終わり、アスファルトの車道と歩道で、交差点まで下り坂になっている。この道はもう地元民しか通らない。人通りが減り、少し息苦しさが薄らいで、やすらかな気分になった気がした。

 そういう、ある種の油断だったのかもしれない。

 ガサ、
 ビニール袋が擦れる音がした。家主は買い物袋を手にしたまま、レンガの橋脚に手をつきもたれ、もう一方の手で口を塞いでいた。幾度か、堪えるように咳き込んで、彼は道路に背を向けた。声を掛ける間もなかった。荒い呼吸を衝き、沈黙ののち、微かなむせび声が聴こえ。
 彼は、橋の下に吐き出した。
 吐瀉物でも喀血でもなかった。唾液よりも粘性のない、透明な液体。どうやら、水のようだった。吐き出した水はサラサラと勾配に沿って道を流れた。
 日陰になった橋の下でも明瞭に分かる程、彼は蒼白な顔をして、口から滴る水をぬぐった。涙が一滴、頬を伝った。

「大丈夫か」

 彼は、自らの吐いた水を凝視したまま、

「見苦しい」

 と忌々しげに息衝いた。
 セレスタがそっとティッシュを差し出した。彼は一枚抜き取って口元を拭いた。

「……ありがとうございます」

 彼女は携帯画面を見せた。おれにその文字は見えなかったが、恐らくは体調を気遣う言葉が書かれていて、

「一応は……大丈夫です」

 しかし、どう聴いても、頼りない病人の発言だった。

「無理してたのか」
「……いいえ」
「バスを待とうか」
「平気です」
「荷物、持てるか」
「持てます」

 何を言っても譲る気はないらしい。

「……歩けるのか?」

 彼は襟に手を掛けて喉元を広げていたが、ボタンやネクタイを弛めることはしなかった。

「……ごめんなさい」

 水たまりを見つめ呟いた、彼の呼吸はまだ少し乱れていた。

「謝るくらいなら、はじめから無理するな」
「帰ったら、休みます」
「途中で、辛くなったら、言えよ」

 控えめながら彼は確かに頷いた。
 セレスタは彼の背に触れようとしたが、手を止め、水たまりに目を伏せた。
 吐いた水の脇を通り帰路を歩いた。水は下り坂を伝っておれたちと同じ方に流れた。互いに一言も口にしなかった。ただ、巡査の放った「病院」の二字を、おれは否が応でも反芻していた。

ブラックチェンバー

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 事象は風のように前触れも痕跡も無く突発し終息する。しかしその認知は人によりけりで、一切が始まらない者も居れば、一切が片付かない者も居る。始まったと思っていたら終わっていたこと、終えていたつもりが始まりだったこと、いくつもある。齟齬。
 これは、そのような齟齬を来したひとびとの物語である。
 嘘。
 これは物語ではない。

ブラックチェンバー

 朝のうちはじんわり濡れていたアスファルトももう乾き始めていて、日陰に水たまりが残り落葉の吹寄せになっていた。住宅地の遊歩道、前を歩く者のうち、ひとりは休日も学生服の女の子で、もうひとりは休日もブラックスーツの男。けったいな組み合わせだなあとそれを眺めている自分。C駅迄は徒歩だった。バスも出ているが路線が妙に遠回りで時間が掛かり、かつ透明人間はバス車内の立ち回りに苦労する。
 外へ出たおれ達は喋らない。セレスタは立ち止まらなければ発語しづらいし、おれは目立つ訳にはいかないし、家主も喋る必要がなければずっと黙っている。沈黙のまま歩く。時折セレスタは帆来くんを見たり、恐らくはおれを捜してキョロキョロと辺りを見回した。心配しなくてもちゃんと居るよ、と、伝えられずにそのままだった。彼らにはこの道がいつもの通学路だという。おれが居ても居なくてもこんな感じに殆ど無言に違いない。おれは、居ても居なくても変わらないような存在だが。
 感傷にひたりはじめていたせいでぼんやりとし、結果、前を歩いていた二人にぶつかりそうになる。帆来が立ち止まったのだ。何やってんだと発語しそうになり、口をつぐんだ。丁度橋を渡る所だった。下を広い車道が走るひらけた道路橋の上、向こうから来る若い男の姿があった。
 橋の中央、二人の男は、対峙するにふさわしい距離で立ち止まった。
 不測の事態。ひそやかな吃驚。
 セレスタも立ち止まり、男と帆来を交互に見た。
 場が硬直する。さて、唐突に何かしらの出来事が始まったらしい。誰も動けない。動こうとしない。当事者の男二人はともかくとして、セレスタは解放されていいだろう。雲行きの怪しさに圧され不安げに立ちすくんでいる少女にそっと忍び寄り、驚かせぬよう名を囁きながら両肩に手を添えた。かすかに目線が揺れたことを確認し、
 先に行ってろ
 と耳打ちした。当然、困惑の表情を浮かべたが、背中を押すとセレスタは一度振り向いて、すぐ足早に去っていった。おれは、追わない。二人の男を改めて見た。その頃にはもう相手の人物は第一声を発していた。きっとセレスタにも聴こえた。

「ひさしぶり、帆来くん」

 その声と顔立ちにようやく気付いたのだが、私服だから分からなかったのだが、彼は公園を訪れたあの若い巡査だった。彼は口角の上がった顔立ちの為、常に微笑しているように見え、若さも相俟ってけして印象は悪くない。

「……お久し振りです。高田君」

 対する帆来は愛想とは全く無縁の無表情で、友人関係にしてはあまりにも機械的な仕草で返した。

「本当にひさしぶりだね。もうかれこれ二、三年は、全く音沙汰無かったんじゃないか」
「そうでした」
「まだここに住んでいるとは思わなかったよ」
「ええ、僕もです」
「俺は××の派出所だから、ここを離れられないんだよ」
「そう、なんですか」

 両者のおおよそ中央に立ち、声音や表情を見比べた。おれが帆来の知人に出会うのはこれが初めてであり、しかも“偶然にも”おれは相手を知っていた。ということは相手、高田氏も公園の怪異としておれというものを知っている筈。成程この場には知り合いしか居ない。
 おれの思考に構わず高田巡査の台詞は続く。

「普通に、生きているんだね」

 帆来は声にも出さずかすかに頷いた。その反応に確信を覚えたらしく、更に彼は台詞を放つ。

「良かったよ。誰にも迷惑かけてないみたいで。ずうっと君のことを見なかったから、てっきりとうとう入院したかと思っていたけど?」
「……そうですね」
「通院はしているの? 薬は?」
「今は……ありません」

 巡査は、口角に笑みを浮かべたまま眉をひそめ、

「治ったの?」
「……いいえ」

 帆来はいつもの伏目で答えた。

「駄目じゃないか、それじゃあ、いつ、人に迷惑かけるか分からないだろ。もし普通に生きるのなら、君には努力義務があるはずだけど」
「守っています。ちゃんとしっかり生きられるように……」
「また病院に行けばいいじゃないか。治るまで。どうしてそうしないんだ?」
「……行きました、けど」
「けど?」
「……話が噛み合わないんです。僕が考えていたものとは全く違う病名で処方されて……薬ばかり溜まっていって……思った通りの話が出来ないし、行っても無駄なんじゃないかって……」
「それこそ患者の妄想なんだよ。ひとりの患者とひとりの医師の、どちらが正しく症状を知り、治療の方法を理解しているか、それぐらい分かるだろ?」
「でも、医師には説明がつかないことなのです。内科と精神科をたらい回しにされて……」
「高橋にまで迷惑かけるのか?」

 高橋という名が放たれた瞬間、帆来は、今までに見たことの無い、引き攣った表情で高田巡査を見た。恐れが伺えた。巡査は「高橋」という名の作用を熟知して発語したと見える。

「高橋が帰ってきたらまた甘えるの? またあいつの善意に漬け込んで、生かして貰うつもりなんだろ?」

 肯定も否定もせず、彼は俯いていた。顔色を伺い知ることは出来なかった。
 対する巡査もサディスティックに微笑むでもなく、苦々しい怒りを見せるでもなく、これでいて平常心を保っているらしい。まるで、何年もこのシーンの練習を積み重ねてきたかのように。
 反応無しという反応を確認して巡査は言う。

「まあ、高橋が帰って来たら、また二人水入らずで暮らせばいいよ。高橋もお前のことが好きなんだろ? 親同士も親友なんて全く恵まれた環境だと思うよ。技師は技師で仲良くやってればいいじゃないか。
 でも今日会えたことには驚いたな。連絡がなくなってから、入院してるか、もう死んでるかって思ってたから」

 そこで、帆来ははじめて、絞り出すように声を発した。

「……死ぬにも、お金が掛かりますので」
「そうだね、正論だ。おまけに余計な迷惑も掛かる」

 俯いた帆来はサイレントで何か発語したがおれには聞こえないし見えなかった。
 すたすたと巡査は帆来に歩み寄り(動線に立っていたおれは一歩退いて道を空けた)親しげに肩に手を乗せた。

「でも良かったよ。君はずっとここに居るんだろう? なら、俺はずっと、君を見届けることが出来る。君が治ろうが、塔子と結婚しようが、発狂しようが、自殺しようが、俺は最後まで見届けたいんだ。だから、また何かあったら連絡しろよ。
 俺は、君達を最後まで見届けるからね」

 手を離し後方へ歩み去る高田氏を帆来くんは振り返り見た。

「あ、そうだ」

 巡査も立ち止まり振り返った。また対峙する距離が保たれた。

「そういえばさ。最近、うちの派出所の傍の××公園に、怪奇現象と言うのかな。悪霊とか言われている奇妙な事件が起きてるんだけど……。君もけっこう近所だよね。まさか、さすがに君のせいだとは思ってないけど、何かそれに関する情報があったら教えてほしいな。公務って訳じゃないけど、一応、町の安全を守るために」

 帆来は静かに首を振った。

「そうか。なら良いんだ。じゃあ、また何かあったら連絡するように」

 そう言うと巡査は今度こそ振り返らずに去っていった。帆来くんは暫く巡査の背中を見つめ動かなかった。下の道の車通りはあるものの、橋を人が渡る気配は無い。おれはやっと沈黙を破る。勿論、とてもささやかに。

「……モテモテだな、全く。困っちゃうよ」

 帆来は隣に立つおれを気にも留めず、目を伏せることもなかった。ただ、巡査の去った向こう岸から目を離さず、

「……彼のせいではありませんよ」
「分かっているよ、そんな事」

 巡査が触れたのと同じように肩に手を置いた。帆来は答えない。

「誰も悪くないよ」
「貴方も……何も悪くない」

 その目線が何を見ているのか、おれには何も見えなかった。消失点を見つめ口を開きかけたのを、おれは「言うな」と制した。

「でも」
「いいから。つもる話はあとにしよう。今は、セレスタが待ってるよ」

 やっとそこから目を逸らし、彼はかすかに頷いた。言葉を選びながら、とつとつと、

「僕が思っていたことを、あまり、上手く伝えられなかったのが、かなしいんです」
「……そっか」

 向きを変え、彼は一歩、歩き始めた。おれはすぐ隣を歩く。存在が分かるように背中に触れる。

「練習をするといい。何度でもリハーサルを積んでおけ」
「……映画撮影みたいですね」
「フィクションは、みんなそうだ」

 そうして互いに口を閉ざした。それぞれ自らの思考の中に潜った。橋を渡り坂を下り交差点を渡る。

 誰のせいでもない。
 おれはそう言ったけれど、それは慰めの為についた嘘で、どう考えても帆来くんのせいだろうし、どう見ても巡査のせいだろう。つまるところ、全部、これを傍聴したおれのせいだ。

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