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ポタージュ神社

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ポタージュ神社

 公園のことは避けて通っていた。駅へ向かうにもバイト先のファミレスに向かうにもこの道は通らなくてよい。バイト先と家をつなぐ道はいくつかあり、どれをとっても同じぐらいの長さで、もしかしたら公園の通りが一番近道かもしれない。そう思い立ったこともあって、そろそろほとぼりも冷めただろうしと、バイトの帰りに公園を見ていくことにした。夜も更けたから高田氏にも出会わないだろう。文字上のK缶は嫌な奴だったが、結局あれから互いに連絡は無く、色々と冷めてしまったせいで今はもう憎いとは思えない。文字でしか知らない相手が実在することに感動したのかもしれない、今となっては。あの人はあの人で何をやっているんだろう。そういう対象がちらほらいる。顔も名前も知らないひとが。
 空想しながら歩いているうちに公園の傍に着き立ち止った。夜になるとうっそうとしたのが際立って、一本しかない街灯と自販機だけがこうこうと明るく、何もしないでも悪い噂が立ちそうな場所ではある。蛾みたいに、街頭に引き寄せられる。勇ましい足取りとは言えない。ぐるりと見渡した僕の目は、ふと、ある一点に留まる。自販機の隣の暗がりに何かがあった。小さくはない四角い何かだ。以前には無かっただろうと思い、近づいて確かめた。
 おやしろだった。稲荷神を祭るような小さな祠だ。さすがに鳥居はない。見たところ新築だ。その隣には神社のいわれを記した看板が立つ。木目を模した偽物の素材で、観光地めいて安っぽい。

 その看板が、ヤバい。

『ポタージュ神社』

 八百万の神々ってこんなにアバウトなものなのか。氏神みたいなものか。ニュータウンの氏神か。平将門と同じ処理法ではないか。

“超常現象がお怒りだ。よし、祀ろう。”

 馬鹿だ。
 この民族は馬鹿だ。千年間も変わらない馬鹿だ。変態だ。これを祀る町内会も祀られている“ポタージュ様”も変態だ。暫く見ない間にこんなことになっていたとは。見なくて正解だったかもしれない。

 あきれ、立ち尽くしていた僕の背後で物音がする。心臓が跳ねあがり、反射的に振り返る。居たのは――男だった。通りすがりらしいサラリーマン風の男が、多少驚いたふうに僕に会釈した。驚かせてしまった僕もばつが悪くて会釈した。これでは無愛想だと思いなおし、「こんばんは」と声を掛けた。

「こんばんは」

 落ち着いた若い声だった。スーツで、偏見だが新卒っぽい。その人も数歩歩み寄り、やしろといわれの看板を見つめていた。近隣住民だろう。彼は首を傾げる。

「どういう事なのでしょうか」

 知らないのだろうか。あるいは知っていてからかっているのかもしれない。返答に気を使う。迷いながら、控え目な高校生を装いながら、

「ちょっと前に、この公園で色々変なことが起こって、ここの町内会がそれを祟りだって言って祈祷師呼んでお祓いをやってたらしいんですけど、多分それを鎮める為につくられたんだと思います」

 いかなる奇妙な業であったかは看板にあらましがある。もっとも、決定的事項だった痴漢事件は記載されていない。何故今更祀る必要があるのか分からない。町おこしという奴だろうか。ゆくゆくはゆるキャラと化しグッズを販売して女子供に愛されて、C駅前のあのテーマパークで猫と一緒にパレードするのか。……変態だなこの街は。

 新卒氏はカメラでやしろや看板を撮影していた。変なの写ったりして、と言いたくなったが、冗談が通じるほどの親しみやすさはこの空間には無い。そのうちに氏から話しかけられた。

「御神体はポタージュ缶でしょうか」
「それ、御利益とかあるんですかねえ」
「御利益があるのですか、これに」

 新築のやしろには威厳も神秘も無い。だいたいネーミングからして不純だ。新卒氏は携帯をライトにしてやしろを眺めた。扉の向こうの空間に真っ黒な影が落ちる。こうして見ると夜のやしろなんてなかなか怖いものだろうに、他人が居ると心強い。氏はやしろの格子戸の向こうへもライトを当てて覗いていた。いくら新築インスタント神社と言えどさすがに罰当たりな気がして僕には出来ない。

「賽銭がありますよ」おもむろに氏は口を開いた。
「そうなんですか」

 みんな、募金か貯金箱だと認識しているのではないか。

「この金額は町内会へ回るのですね」
「そう……ですよね。まあ、超常現象がお金持ってても仕方ないですよ」
「成程」と氏が呟いたきり会話は途絶え、ブウンと自販機が鳴った。無理にでも会話を繋げるべきかためらう。氏はやしろから離れ遠景で撮影した。僕も写真を撮っていなかったことに気付き、一枚正面から撮った。

 とうとう形を得てしまったこれについて考える。形無く噂でしか語られなかったものが公的にかたちを得てしまったことについて。当の“もの”はもうどこにも現れていないというのに建てられた(一応)祭事施設。やるせないものがある。好きなバンドがヒット曲を出した瞬間報道されはじめるような、漫画がアニメ化した途端にみんながファンになるような……いや僕はポタージュ様ファンなどではないが、内輪でひっそりと楽しんでいた方の人間であることは間違いない。小さい枠の中でいつかすたれることを知りながらこそこそ話をしていたというのに、無理矢理公衆の面前に引きずり出されたような……

 ともあれ形無く煙みたいに不確定なあれはこうしてやしろに閉じ込められた。勿論これは比喩だけど、やしろによって封印されたというか、土地に足枷でくくりつけられたような、とにかくこの一帯で“これ”は名前をつけて保存された。枷をつけたと言っても野放しであることに変わりはない。これは正体不明の獣を檻に入れたのではなく、ネームプレートをつけただけなのだ。そして当の“それ”は行方知れず。順番が、違うだろうに。

 思考ばかり増殖分裂させながら僕はまだここに立ち尽くしていた。馬鹿みたいに。もしかして僕は何かが現れるのを待っているのではないかと考えた。都合の良い話だ。待って現れるくらいなら、これに携わった誰もがもっと楽な思いをしてきた筈だ。等思いながらも僕はまだ立ち尽くしている。

 隣で小銭の音がして、自販機で飲料が一本売れた。自販機なんて割高だよく買える、と僕は社会人に称賛の目を向ける。

 ピピピピピピピピピ……ピ、ピ、ピ

 あ。

「同じのでいいですか」。発言にとっさに「はい」と答えてしまって、何が何だか分からないまま隣のその人を見ると、既にコーヒーの缶を二本両手に持っていて、片方を僕に差し出した。「どうぞ」。そこではじめて自販機のくじが当たったのだと気付いた。

 え、あ、「いいんですか?」
「ええ」

 小さく頷いて差し出された缶は微糖のアイスコーヒーだった。自分じゃ買わない。正直気分ではないのだが、奢られる身分で断ることも出来ず「ありがとうございます」と会釈した。氏はプルタブを開けて一口飲み、僕と同じくやしろの方を見ている。ここで飲みきってしまうのが礼儀だろう。タブを開け、不安に思いながらも口を付けた。飲めなくはない苦さだった。空きっ腹に酸味が沁みる。

「結局何を祀ったのでしょうか」と氏が呟く。結局やしろを建てて祀っても怪異は解決していない。正体どころか手がかりも無い。
「迷宮入りですね」
 わざとあきれた調子で返した。
「迷宮入り?」
「原因も結果も分からないで、でもこうやって記録として神社のモニュメントだけが残された……って、感じかなって、思ったので」
 苦みと酸味と甘みが口を満たす。
「解決」、氏は繰り返す。解決、そういえば僕は解決を目指していたのだっけ。氏は、ぽつりと言葉を零した。

「解決しない気がするんです」

 ……え?
 突然の言葉に立ち止まる。

「それは、どういう」
「失礼」
「いえ! ……あの、」
 氏はコーヒーに口を付け、何でもないという風にごく自然に、
「持論です」
 そう言われると黙るしかない気がする。

 氏はやしろの前に屈みこんで空になった缶を供えた。立ち、手を合わせ、祈る。僕はまだ飲み終えられない。酸味がきつい。氏は鞄を持ち直して、

「喋りすぎてしまいました」
「いえ、僕も、知ったかぶりしたみたいで、恥ずかしいです、なんか、すいません」

 氏は答えなかった。ただ小さく礼をして去ろうとした。

「あの」、僕はとっさに声を掛けた。氏が振り返る。

「あの。
 もしも、僕が、これのこと、自分なりに決着つけられたら、その時はお話したいんです」
「僕に、ですか」

 僕は頷く。氏は一瞬間動きを止める。

「僕でよければ」
「コーヒー、ありがとうございました」
「構いません」

 酸味がつらいけれども一気に飲み干して、同じように御前に並べる。二礼二拍手一礼。馬鹿らしいけれども正式な方法で祈る。具体的に願うことは無い。世界平和?
 振り返ると氏は待っていてくれていて、ありがたいと思った、この公園に独りはやはりつらい。公園を出るまでの数歩を何も語らずに歩き、それぞれ別方向だというのでそのまま会釈して別れた。名も連絡先も聞かなかったけれど、これは、それでいいと思う。
 空腹を引きずって帰る。コーヒーで胃が荒れそうだ。明日も学校なんだ。今日の所ところは変な結果に落ち着いてしまったけれども、紆余曲折の果てに結果らしきものにたどり着ける気がしないでもない。
 たとえ何一つ解決しなくても。

エポソロジー

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エポソロジー

 頭がおかしいと言われる。日曜日の朝八時半。

 目の前に居るという彼が、一体どれを指しておかしいと言ったのか、一言だけでは判別出来ない。心当たりは多々あった。それを問題にするのは今更だと思ったが、頃合いだろうかとも考えた。それも判別が付かないからまずは手を付けかけの朝食を優先する。ハムエッグとサラダのプレート、三皿は目の前に居るという彼が作ったいつもの朝食で、僕は白飯をよそい冷蔵庫から納豆を出し、醤油と付属のからしを加えてかき混ぜていた所で、

「うん。まず、手を止めろ」
「あの、切りが悪いです。まだ固まっているでしょう。混ぜ終わってからでいいですか」
「混ぜ終わる? 終わるって、何?」

 混ぜ終わりとは何だろう。大して考察せずに答える。

「気が済む位に均一になることではないでしょうか」
「気が済むの、それで?」
「憂さ晴らしの為に混ぜるのではありませんよ」
「じゃあ、なんなの、その、それ」

 これ位の会話を交わせば相手の言わんとする事は推測出来る。
 思うに、頭がおかしいは言い過ぎである。

「納豆はお嫌いですか」
「いや、好きとか嫌いとか言う以前に、なんでそういうものを食べるのか……
 ……あー……」

 茶碗に納豆を流した瞬間に、彼の落胆の声。のったりと糸を引いて落ちる納豆。
 トースターが鳴り、セレスタが焼けたパンを取り出し、新たなもう一枚を入れた。彼女はパン派。二枚食べる。
 いただきます。
 僕に散々けちを付けたザムザは「余った方を食べる」から今朝は白飯。そして納豆は好まないらしい。

「貴方にも好き嫌いあるのですか」
「え?」
「失礼ですが、雑草も食べてそうで」

 セレスタがちらと見る。トーストにマーガリンを塗っていた。

「食ったよ」

 と、彼は何も掛かっていない白飯を箸にはさんで虚空に消す。

「都会のはね、駄目だよ、よろしくなかった」

 そう呟きながら彼はトマトに塩を振る。セレスタが浮かぶ塩に手を伸ばす。彼女の手に塩が渡る。彼女は頷き、トマトに振る。そして僕にも差し向け、僕は小さく礼を言って同じ動作を繰り返す。

「だからね。手間暇と農薬をかけて人の為に作られたものをちゃんと食べられるのは安心なんだよ」

 そういう独り言めいた口調の隣でセレスタはサラダに手をつけている。

「でもまあ、人の為に作られたとしても」

 彼の言葉は続く。

「それは、なんなの」

 向かいの箸の先端が僕を指す。

「そんなに納豆お嫌いですか」
「好き嫌いの前に思考停止、てか、信じられん」
「におい」
「ちがう。……ねばついている」
「食感?」
「そもそも、ねばついている。糸を引いている」
「駄目ですか」
「駄目だろ、見た目駄目だろ。……なあ?」

 セレスタはちょっと首を傾げただけで特には応じない。パン食の彼女には関係のない話だ。
 醤油を目玉焼きの黄身に注ぐ。目玉焼きは半熟だった。僕は完熟を好む。黄身が流れ落ちるのが嫌だから。箸を刺す。案の定こぼれる。結局ハムや白身ですくい取りながら食べる。

「不満?」
「いいえ」
「今日は詰めが甘かったんだ」

 彼はというと、ソースを垂らす。

「相容れませんね」
「一回試してみなよ」
「今日はもう出来ません」
「予めかけておいてやる」

 セレスタは二項対立に参加しない。塩胡椒派だった。パンに乗せて食べていた。

「まあ、ありふれた議題だよ。目玉焼き論争は。
 それよりその、それの方が気になる。ねばねば」
「そんなに嫌ですか」
「だってそれ、食べたい?」
「好んで毎日食べようとは思いません。ただ、時折欲しくなります。月に数回で十分です」
「じゃあ、なんで」
「貴方こそ、何故そんなに」
「だから、ねばついている」

 セレスタが彼を小突き、何かを語った。

「ええ、いや、でもさ、腐ってんじゃん、要するに」
「発酵食品」
「いや、分かるよ。そうじゃなくて、例えば……ウナギとか山芋は生まれ持ってぬめってるけど、それは、作意的にわざわざ腐らせてねばつかせてんじゃん。その必要はあるの?」

 セレスタの言。

「保存? ああ……でも……
 セレスタは、好き?」

 彼女は少し考え込んで、それからいつもより長く発言した。僕に聞き取れない彼女の言葉を彼の相槌から遠回りに聞き取る。この間に僕はサラダとハムエッグを食べ終える。
 意外に早いのはセレスタで、口を開くことが少ないから僕と彼が語る間に黙々と食していたのである。
 彼女は目に見えない彼を見つめ喋る。補完し合うような印象。笑顔。
 彼もまた食べながら聞いていたが、一段落したらしい彼女に対し、

「やめとく」

 苦笑めいた口調だった。セレスタは大袈裟に肩をすくめる。

「何を」
「ねばっこいもの食べたいんだって」
「モロヘイヤ」
「モロヘ?」

 頷く彼女。おそらくは把握出来ていない彼。知らないらしい。考え込む。

「要するに帆来くんはねばついているという訳だ」
「それは違います。撤回して下さい」
「嫌いか、嫌いじゃないかで言えば嫌いじゃないだろう?」

 否定しない。

「でもおれは好き嫌い以前にぬめっているものをどう扱ったらいいか分からない」

 僕は茶碗の最後の一口を食した所で、彼がそれを見たかは分からない。

「相容れないね」
「全くです」

 ごちそうさまでした。手を合わせ、食器を流しへ遣る。

「やりますよ」
「え。ああ……」
「嫌でしょう」、今日の食器を洗うのは。
「まあね。じゃ、お願い」
「セレスタさんも。流しに、置いて」

 先に口をゆすぎたかった。コップに水を注いだ。

「ねえ。よくまあ暮らせたものだ」

 背後で二人が喋っている。
 相容れずとも語ることは出来る。

ブラックバード

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ブラックバード

 さすがに一番風呂は家主に譲った。家主はかなりの長風呂だがおれは烏の行水が常だった。ただ今日の湯加減は素晴らしいものだったから珍しく長々と浸かったと思う。湯船の中、手で水をすくって遊んだ。
 夜間着に家主のジャージを借りた。背丈が近くて助かっている。彼はやわらかな綿のシャツにセットしていない髪型で、昼間よりずっとラフな格好だったけど、几帳面にも喉元まで第一ボタンを閉めていて、しかしこれが彼にとってのラフなのだろうから口出しすることは無い。入浴して機嫌を直したらしく、おれの姿を認めると彼は冷蔵庫からチューハイを二本取り出した。無言で一本差し出され、滞りなく受け取った。
「ありがとう」席に着き、おのおの適当にプルタブを開け適当に喉に流した。今日も長く短い一日だった。自分が帰宅したのはつい十二時間前だった。

 ちらちらと帆来くんの目線が刺さる。

「なに?」

 見返すと彼は思索の為に目をそらし、

「僕の服を着ていると、胴体の量感が見えるので……存在している、と思ったので」
「存在してないと思ってた? 幽霊みたいに、実体が無いって」

 冗談めかしながら顔を近づけると、相手は身を退き、惑いながら、

「嫌でも、存在していると思えます。人間の形があり、会話が出来て、触れることが出来ます。それ以上に僕だけでなく、セレスタさんも、過去の公園での出来事も、多数の人間が貴方を認識しています。だから貴方は確実に存在しています」

 ふうん。
 率直な意見というのはどうしてもくすぐったくて笑ってしまう。相手はいつでも真面目だから尚更だった。
 席を立ち、冷蔵庫の中で肴になりそうなものを探したが見つからなかった。プリンは三時のおやつだから却下、新たに一品拵えるのも面倒くさい。結局何も持たずに戻ってきた。

「じゃあ、認識は多数決原理なんだ?」

 彼の言葉は滑り出しこそ重いが、ある一点を越すと途端に流暢になる。会話が暫く流れた所でまた停滞する。また流れる。緩急を繰り返すリズムで、浮き沈みとも呼べた。

「普遍性が必要です。僕ひとりだけなら見間違いの可能性も否めませんが、人や他の生物も認識に加わっていれば、見ているものが本当に存在すると断定して良いのだと思います」
「でも、もしかしたら皆が嘘をついているかも知れないよ」

 と、おれが言ったとき、彼は丁度瞬きした。

「その時は、きっと、誰も信じられませんね」
「困ったねえ……」

 困ったと言いながらも本当はわらっていた。どこからどうやって何を話そうか考える。ちびりちびり呑んでいたらいつの間に呑み干してしまった。すっからかんになったアルミ缶を机に立てた。彼は缶に口を付けながらおれを透かして遠くを見ているらしかった。

 話を振っ掛けようとする時は、ある程度反応を予想するもので、予想と結果が一致するとなかなか楽しい。ふと思い浮かんだ一言をどう切り出せばいい反応を得られるか、いい反応とはどういうものか、一秒のうちに巡らせる。出し抜けに問い掛けた時、彼はチューハイを口に含む所だった。

「タカハシさんって、いい女?」

 成功。吹いた。
 昼間よりずっと愉快な動揺だった。もっと盛大な反応も期待していたのだが空咳数回で彼は落ち着いた。沈着な態度は失わないが、疑念でいっぱいの眼差しで、

「どこで、塔子さんのことを」
「タカハシ トウコ、っていうの?」
「そうですけど、それを、何処で」

 内面の動揺は静まりきっていないようだ。

「昼間、巡査が出してた名前だから、いい人なのかなあって」

 高田氏の名を挙げると帆来くんはまた塞ぎ込むかも知れなかったが。

「いや、おれさ。前にあのお巡りさんに会ったことがあって、というかかなり悪戯しちゃって。だから、あの人の顔と警察ってことは知ってるんだよね」
「悪戯?」
「ヒザカックン、しちゃった」

 ウインクを飛ばす必要も無かった。呆れと苦笑の入り混じった空気だった。

「よくやりましたね」
「あのときは気が立ってたから誰彼構わずやっちゃってたねえ」

 頬杖をつきしばしの沈黙。

「で、高橋さんは?」

 と、遠くを見ていた彼を呼び戻すと、彼はまた一口嘗めてから、静かで長い吐息と共に缶を置いた。
「塔子さんは」、と言いかけてから、いや、と訂正し、

「高橋さんは……高橋さんと僕の父親同士が親密な仲で、それで僕と高橋さんも付き合いが長いんです。高校、大学も同じでした」

 ゆえに名前で呼ぶ程の仲なのだと知る。

「で、どんなひと?」
「どんな人、と言われましても」
「きれい?」
「綺麗と言えば……綺麗なのでしょう。一般的には」

 本人不在で相手を語ることへの懸念がちらちらと伺えた。

「女優なんです。大学の映画サークルの作品で主演をつとめたり、劇団にも所属していたそうなのですが、詳しいお話は聞いていません」
「へえ……女優。どんな感じの」
「僕は映画も演劇も疎いので彼女の評判は分かりませんが……きっと巧いのだと思います」
「でも、俳優で食っている訳ではない」
「そうですね、それに今は活動していないそうです」
「成程ね」

 と、おれは考え込む振りをして、適当な間を空けてから、

「つき合ってんの?」
「は?」

 今度は吹き出すものも無い。疑問符だけ発音したらこうなるであろう腑抜けた返答。

「何を、いきなり」
「親しいんでしょ?」
「親しい、親しいのでしょうけど……」

 他人の動揺を目の当たりにするとどうしてもわらいを堪えきれない。これが醜悪な趣味であることは分かっているが、今となっては治す気も無い。

「昨日も後輩に同じことを尋ねられたんです。それに僕はそういう気は全く無かったので……」
「それ、盗られちゃうんじゃない?」
「盗られる?」
「皆、高橋さんはお前と付き合ってるから手え出せなかったけど、そうじゃないって分かったら人気殺到じゃないかなあ、って」

 見えないながら意地の悪い笑みを浮かべてやる。そして向かいの呑みかけの缶に手を伸ばし――

「空ですけど」
「あれ?」

 予期していた重さには全く足りないアルミ缶は、左右に振るとピチャピチャと安い波音をたてた。

「何故いつもいつもひとの分を呑もうとするのですか」
「貧乏癖が根付いてるのかな?
 あ、もしかしなくてもお前、回し飲みとか嫌いなタイプ?」
「不衛生じゃないですか」
「じゃあ、吊革触るのとか、鍋とか銭湯とか駄目だろ」
「別に、それは、平気です」
「え?」
「潔癖症ではないんです。他人が直接口を付けることに抵抗があるだけです」
「なんか、お前、面倒くさいな」
「そんな事を言われましても」
「まあまあまあまあ、では改めて、もう一杯……」

 などと管を巻く間にドアベルが鳴って、セレスタだろう、と返事をしながら玄関へ向かうおれを、

「ザムザ君!」

 家主は引き留めた。

「何だよ」
「貴方今、普通に出ようとしていましたけど、傍から見たら首の無いジャージ姿ですからね。忘れていたでしょう、透明だって」
「……ああ、うん、忘れてたねえ」

 だっておれにはおれが見えるから。そう言ったら呆れの吐息をつかれた。形勢逆転の気がしてくやしい。

「僕が出ます」
「どうせセレスタだろ? 大袈裟なあ」
「隣人に見られているかも知れないでしょう? いくら家の中とはいえ、貴方はもっと警戒して下さい」

 ピンポン、ピンポン、チャイムが連打される。あーあ、待たせている。悪意はないけど悪態をつく。

「分かったよ、ほら、待たせてんだから、さっさと出てこいよ、下僕」
「その呼び方は止めて頂きたい」

 不承不承彼は戸を開け、予想通りに現れたセレスタを招いた。彼女もかんたんな室内着だった。宣言通りに枕を抱いている。小さなかばんに携帯やノートをつめているらしい。なんとなくさっきまでと違う雰囲気なのは、

「あ、そっか。コンタクトなんだね」

 ジャージ姿のおれを見て、茶色い目でセレスタは頷いた。目配せのあと意味もなく誰からともなくハイタッチした。流れでセレスタは家主にもハイタッチした。更におれと家主もハイタッチした。すべて完璧なタイミングで成功した。このささやかな達成感はアルコールのせいだと思った。

「何だったんですか、今の」

 セレスタは親指立ててスマイルを見せた。自分にもよく分からないよとどこか困って諦めた笑い方だった。まあまあ、と適当に取り繕い、

「明日もお休みなんだし、まだ寝ないよ、な?」

 困って立ち惚けていた家主の肩をたたいた。

「何をしましょうか」
『トランプ?』
「ある?」
「あります。物置に」

 彼は書斎に探しに行き、おれはそれぞれの二本目の缶を出した。セレスタは無炭酸のただの蜜柑水をグラスに注いだ。持ってきたのは何の変哲もない、マジシャンが使うようなトランプだった。かんたんに、ばば抜きをしようということになった。

「不正していませんよね?」

 カードを配るおれに念押ししているらしい。

「不正するように見える?」
「僕の目に見えても見えなくても、貴方は不正しかねない質だと思ったので」
「まあ、でもそういうのって、袖や手にカードを隠すのが基本だから、逆に、今は出来ないよ」
『すける』
「そうそう。……と、順番どうする?」
『じゃんけん?』
「じゃあ、口頭で」

 二人はグーを出し、パーと言ったおれの勝ちで、帆来くんの方を引いた。帆来くんはセレスタを引いた。セレスタがおれを引いた。三人しかいないからカードの回りが早く、すぐにセレスタが抜けてしまった。そうしておれと彼でジョーカーの奪い合いになり、何周もの間サドンデスが続いた。

「二分の一の確率に負けていますね、僕達」

 互いに何度も二択を誤り続けた。相手の顔色やカードの並べ方のクセを読んだり、手札を覗いて笑っているセレスタを観察すれば正答は導かれる筈なのだが、この場にはそれほどトランプに真摯に取り組む者はいない。何よりもアルコールが進んでいた。

「ニケに嫌われてるんだよ」

 と心にもない台詞で返答しながらカードを引くと、やっぱりジョーカーの絵札で、尖った帽子のモノクロ道化師がにやついている。どうせ二分の一なのだから、札を伏せて、自分でもどちらか分からないようにシャッフルした。

「永久に続くような気もしてきました」

 彼は右のカードを取り、自分の一枚と見比べ、やはり札を伏せてカードを切る。

「このまま朝になっちゃったりして」

 引いたカードはやはりジョーカーで、また、分からないように混ぜる。セレスタは身を乗り出してジョーカーのラリーを眺めていた。
「どっちだと思う?」と尋ねてみる。
『ジョーカー?』
「うん」
 小首を傾げながらセレスタはおれから見て左を指した。なんとなくですよと言いたげな顔。家主も、どちらにせよ二分の一の確率なのだが、セレスタがジョーカーでないと言った方を、絵を伏せたまま手元に引いた。

「せえの、で見ようよ」

 その瞬間に決まるのだから。掛け声と一緒にカードをめくる。
 セレスタの予言は的中し、家主がクラブとダイヤの四を揃えて終わった。
 互いに気の抜けた声をもらした。負けたことより終わったことの方が重要だった。

「セレスタの勝ちだね」

 彼女はまたあいまいに笑った。

 そうしてばば抜き二セット大貧民二セットを終えたが、ばば抜きは再びサドンデスにもつれこみ、大貧民はそもそも大貧民か大富豪か話が折り合わず、ローカルルールの調停にも手間取った(『イレブンバック』「何それ」)。
 次第に遊びが尽きて缶も開け尽くして、飽きてソファによりかかって、身を預けて、結局今夜も何も変わらない。何もしない。並んで座っていた。

ブラックジョーク

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ブラックジョーク

 サンマがきれいに焼けた。セレスタは大根を摺り卸してくれた。昨日オムライスだったことを考慮してだし巻き玉子は止め、玉子とじのスープに替えた。

「帆来くんを、起こしてきて」

 セレスタに頼むと遠慮がちな目で

『じゃまじゃ、ないかな』
「起こして欲しいって言ってたし、あいつ寝起きいいし、もう起きてるかも知れないね。でも、目覚めの透明人間より、美少女の方がスッキリするじゃん?」

 冗談にセレスタは笑い、家主の部屋へ入っていった。お茶を淹れ少しした頃にセレスタは帆来くんを引き連れ戻ってきた。セレスタは含み笑いを浮かべながら。

「おはよう、帆来くん」

 呼びかける。

「おはようございます」

 返事がある。彼の瞼はまた少し腫れている。覚醒しきっていない面持ちでダイニングの椅子に腰を下ろした。

「食欲あるの? 食べられるか?」
「大丈夫です」
「体調は?」
「落ち着きました」

 目線はしっかりサンマを見据えている。

「セレスタが、大根おろしを作ってくれたよ」
「そうなんですか」

 彼の目はちらとセレスタを見た。セレスタは照れたようだった。

「魚、好きなの?」
「好きです。魚」

 そうか。
 少なめに装った飯、玉子とじのスープ、大根おろしを添えたサンマが一尾。手を合わせ、いただきますを言う。
 彼はサンマに箸をつけた。腹を開き、背骨を剥がし、骨と皮を避けながら黙々と可食部だけを口に運んだ。器用である。しかしそれ以上に丁寧だった。そうやってじれったい程にゆっくりと食すから、彼が汁物や白飯を食べ終えてもなお皿にサンマが残っていた。小骨を除き、身をほぐし、おろしを乗せ、口にする。自宅での食事にしてはひどく真面目に、淡々と、集中し、真剣に。
 飽きてしまう映像だった。おれ達はそこまで丁寧に食べることは出来ず、とっくに食べ終えて食器も流しに片付けていた。セレスタはソファに座り自分の携帯画面を見ていた。おれは飽きる方を選んだ。目の前で彼の挙動のすべてを窃視していた。その光景は味わっているというよりも、一口も残さず食べ尽くそうとする執拗な意志が見え、これは食事というよりこの男なりの儀式なのではないかとまで考えた。血合い肉も骨の周囲も食べられる所は全て食べ、大根おろしも無くなった。皿の隅に寄せられた骨と、全てをついばまれたサンマ。やっと彼は箸を置き、ごちそうさまと手を合わせた。彼は皿を持って流しに立った。茶碗を水に浸したのち、箸でサンマの頭と背骨を三角コーナーへ捨てた。それから小骨と皮を寄せて同じように袋へ放った。そして箸と皿を水につけた。これで儀式を完遂したらしい。ごちそうさまでしたと声が聞こえた。

 お茶を飲もう、と、緑茶を淹れた。セレスタをテーブルに呼び戻した。

「どう、体調は」
「悪くありません。今は良くなりました。魚もおいしかったですし」
「魚、好きなんだって」
「はい。食べるのも見るのも好きです」
「釣りは?」

 確か書斎に釣竿もあった筈だが。

「幼い頃にはよく連れていって貰ったのですが、今は、めっきり」
「魚、好きだけど食べるの?」
「それとこれとは分けて考えています」
「飼いはしないんだ、金魚とか」
「責任を負える気がしないので飼いません」

 成程。
 帆来くんの好みを聞くことは少ないからなかなか楽しい。素面で多弁な事も珍しい。先程塞ぎ込んでいたときの反動を考えればより。

「魚というより、水生生物が好きなんです。だから、貝や微生物や鯨も好きです。今思えば、無脊椎動物の方が好きなのかも知れません」

 セレスタをちらと見て、

「昨日、クラゲが好きというお話をしました」
「クラゲ?」
「佇まいがとても好きです。やわらかで不定形で、透明であるところとか、ただ存在として浮游するだけの生態が。
 僕はクラゲが好きで、……」

 唐突に彼は口籠もった。おれは嘔吐を心配したが、そうではなく、

「洗い物をしますね」

 と、どこか逃げるようにして、顔も上げずに台所に立った。おれはセレスタを見た。セレスタのノートとペンを借り、筆談を試みた。

『昨日 何かあった?』

 セレスタは少し考え込んだ。蛇口の音にかき消され、筆談の必要は無さそうだった。

『夜 魚とかくらげとか海 好きって、色んなことおはなししてもらいました』
『くらげの本を見せてくれて 今度いっしょに水族館いくって約束』
『手つないでいっしょにねました』
『いっしょに海いこうって約束 さそってくれました』

 言葉に詰まり筆を置いた。唇をかすかに震わせたが何を言おうとしたのか分からなかった。やっと顔を上げ、訴えることには、

『びょうき?』

「おれには、分からないよ」

 意地悪をする気はないから頭をなでてごまかした。やがて水流が止まり静かになった。彼が会話に勘付いているかは知らない。ただ、セレスタに目を向けない。

「浴室も洗ってきます」
「……いいよ、おれがやる」
「いいんです、洗い物、好きなので」

 固執しているのだろうか。「あっそ」とおれは適当に片付けた。

「僕は入浴したいので沸かしますけど……」
「好きにしろよ」

 黙っていたセレスタが、ふと口を開いた。帆来くんには分からなかった。

『わたし、かえる』

 そう言って立ち上がった。

「帰るの?」

 おれの声を聞き帆来くんも彼女を見た。セレスタも彼を見た。彼女は首を振った。苦笑混じりの笑顔を浮かべて、家主に対し語ったが、相手は読唇を心得ていない。

『おふろはいれないのでかえります。めいわくかけてすみません。わたし、じゃまですよね。ごめんなさい。ありがとうございます。おやすみなさい……』

「……セレスタさん?」

 伝わらず、呆気にとられる反応を分かっていながら、セレスタは荷物をまとめて玄関へ立とうとした。
 その手を、驚かれるとは分かっていたが、とっさに掴んで引き留めた。セレスタ、と名を呼んでいた。少女の手はおれの予想よりもずっと細く、だから少し痛かったかも知れない。おれは自分の手元が見えるけれども彼女は何をされているのか分かっていない。戸惑いおびえた目で見つめられるとさすがに良心が痛む気がした。――良心? プライドの間違いではないか。

「……別にいいよ、気遣わなくて。いいんだよ。こいつ、気付いてないから。遠慮なんていいんだよ。食事と召使い付きの別荘だと思って好きにしてやればいいんだ。ここでは楽しくていいんだから、こき使ってやろうよ。な?」

 ここは笑顔で抱擁するシーンなのに、伝えられなくてもどかしい。言葉にすることしか出来ない。手を離し、髪をなでた。セレスタは俯いていた。大きな青い目がこぼれ落ちそうだった。沈黙ののち顔をあげ、そこには新しい笑顔をつくり、明るい早口で、

『でもやっぱりおふろはわるいのでうちでシャワーあびます。コンタクトとかクレンジングとかあるし。ぜんぶおわったらまたこっちにかえってきます。じぶんのまくらもってきます。そしたらいっしょによふかししましょう』

 安心した。

「ごめんね。おれも気遣えなくて」

 セレスタはかまわないよと笑い、そしておどけた敬礼を見せ、今度こそあっという間に去っていった。把握していないのは家主のみである。何か言いかけては狼狽している。残念な奴。それでも紳士かよ。

「お前、彼女いないだろ」
「え……?」

 やはり呑み込めていないらしい。肩をすくめることは出来ないから代わりに大げさに呆れてみせる。

「セレスタはコンタクトのお手入れしたり化粧おとしたり諸々忙しいから帰るの。またこっち来て、こっちで寝るって。女の子なの。乙女は大変なの!」

 しかし何故おれが乙女を代弁しているのか。疑問は後回しにして続ける。

「でもあいつにとってお前がプレッシャーになってる。あの子は、ちゃんと頭がいいから、お前に遠慮しちゃってるの。お前の家に行ってご飯食べてくつろぐことにちょっと罪悪感があるんだよ。お前もお前で、今、セレスタに遠慮してただろ。
 昨日は仲良しだったんだろ? なら、今日も明日も仲良くなれよ」
「……でも」
「なに」

 家主は口ごもった。逆説だが、これでようやく対話が出来る。

「でも、昨日と今日は違うんです。昨日上手くいったとしても今日は勝手が違うんです。日付は連続しないんです。今日は、明日に繋がらないんです。上手くいかないんです。僕も、セレスタも、きっと違うんです」
「知ってるよ、そんな事」

 言うと、男はほんの一瞬だけ、驚きに目を見開いた。

「でも」
「知ってるっつうの。夜とか朝とか日付とかあんなもん当てになんねえよ。毎日毎日どこかでリセットされてんだろ。だから歩み寄るんだよ。昨日みたいに。改めて。何度でもさあ。今日また一から仲良くなればいいだろ」

 家主は黙り込みまた考えた。

「そう思いますか」
「ああ」
「昨日と今日が一緒じゃないって」
「思うよ、すごく」

 彼は床を見つめていた。

「僕だけだと思っていたんです。昨日と今日は本当は連続していないのに、そういう感想を口にすると、変な風に扱われるんです」
「皆本当は気付いてるんだよ。でも毎日が違うって認めたら生活が成立しないだろう。気付いていない振りをして、同じってことに決めてるんだ。不文律だよ。暗黙の了解ってだけ」

 感傷気味に俯いていた男は、ふう、と溜息を一つもらした。

「僕だけじゃ、ないんですね」

 この男はそんなことを気に病んでいたのか。

「そうだよ。特別でも異常でも何でもない。意識してもしなくても普通に生きていけることだし、お前が悩まなくても変わらない。
 ……分かったら早く風呂洗ってこい。この、下僕」
「……下僕?」

 言うや否や、男はキッと顔を上げ、心外だという目つきで見えない筈のおれを睨む。喜ばしいが、どうでもいい。おれは傍若無人の台詞を吐きながら見えない笑みで微笑み返す。台詞と表情と心情は必ずしも一致しない。

「そうだよ下僕。おれは自由に棲み着くって言ったんだからな。これは契約だぜ、忘れたとは言わせねえよ。分かったらさっさと働け下僕。風呂上がったら洗いざらい聞かせてもらうからな、下僕」

 家主は最後まで話を聞かなかった。何も言わず浴室へ向かい、バタン、と扉を荒々しく閉めた。人並みの自尊心を居候ごときに傷つけられれば人並みに羞恥心に憤るだろう。
 おれは、鼻で笑う。ソファに深くかけ、足を組み、浴室から聞こえる怒りのシャワー音に耳を傾ける。自然と口元がゆるんでいく。
 まったく。喜劇俳優も楽じゃない。

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