act.2

no moon : no room

category : tags : posted :

no moon

「バツ」

 突然の声に不意を打たれ、見ると浮いていた本がパタンと閉じた所で、一瞥するだけで深い詮索は入れない。いつものことだった。声の主は本を投げ(るように机に置いて)冷蔵庫を漁る。缶チューハイ二本が取り出される。一本は僕の前に乱暴に置かれ、もう一本はソファまで浮遊し、プルタブが開いて缶が傾く。中身は宙に消える。僕は活字に伏せていた目を上げ彼の微妙な好意を受け取る。同じくプルタブを開けて一口。すると斜めに座っていたセレスタも本を置き、冷蔵庫からジンジャーエールのボトルを取り出す。彼女なりの晩酌だった。

「バツ?」

 読み終えたその本を指したらしい。

「マルバツを付けている」

 多少荒れた口調で男が言った。口調が荒れているということは全てが荒れているんだろうと解釈する。セレスタは依然として淡々と『変身』の頁をめくる。ここにいるザムザは騒々しい。しかし彼は沈黙の方が恐ろしい。その時彼の存在は完璧にゼロになる。本当に拗ねた時はそうなり、回復が面倒くさい。多少自暴自棄とは言え口数が減らないうちはまだ健康なのだった。

「前例もクソもないけど前例を調べてんだよ。それと、何に認知されて何に無視されるのか」
「どうだったんですか。『透明人間』」
「文学は辛辣だね」

 それで透明人間が×だったと言いたいらしい。今までに虫と虎と棒が彼の言う×だった。前例の取り方がおかしいとは思うが、そもそも彼がフィクションのような存在なので口出しはしない。それにそれ以外の前例を知らない。
 ちなみに例に挙げた全冊がうちの書斎にある。父の蔵書だったが、両親は家を離れるときに全てをここに置いていった。三部屋のうち一室は本の海と化し、僕はその海に浸かって育った。

 自室以外の二部屋を物置に潰している。……否、蔑ろに潰しているのではなく、人が去った部屋は物置としかならない。この家は三人で住む為の家であり、ここは僕の家ではない。

「マルってあったんですか」

 尋ねると男は「ない」と即答。

「認知されるのは声だけらしい。持ち物は見えるけど衣類装飾品は不可視。ポケットに入れた物は見えない。体内に入った食物も同じく。猫をかまってみたけど出来なかった。鳥もバツ。自動ドア無視。赤外線にもシカトされてるんだろう。あと何があったかな……。水の中に入ったら、見えるのかな」

 トンと机を叩く音がして、セレスタがノートを見せる。
『公開入浴』してみたら、と、少し意地悪く笑う。

「キモチワルイよ、見えないって分かってても。おれは、自分のこと見えるから」
「そうなんですか」
「言ってなかったっけ? 自分で自分のことは見えるんだよ。……それも見えなかったら倍ぐらい不便だと思う」

 いよいよ人体構造が分からない。僕達は暫定的に見えない彼を透明人間と呼んでいる。あるいはザムザとしか呼べないのかもしれない。彼に架せられた不条理さなら毒虫のザムザに似ている。
 彼が世界に映らないなら、彼の目に世界はどう映るのか。

「存在を認知されないんでしょうか。まず人体が見えないから透明人間と呼ばれる」
「視覚以外もなかったことになってる気がする。犬はどうなんだろう」
『お酒くさくない』よね、とセレスタ。
「嗅覚も無視なのかな……声だけ?」

 レコーダーの話を切り出せない。それには僕が録音していたという負い目があった。

「あれ、五感って何があったっけ」
「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」
「味覚って、やだな、何か」
「自分では分かるんですよね」
「味、分かるよ」
「触覚……触れますよね?」
「おれを?」
「はい」

 ソファの缶はふわりと立ち上がり、つかつかとダイニングテーブルの僕へ寄った。何をするかと見えないなりにそれを見ていた。何かを持っていなければ、そこに何者かがいるようには思えない。
 グッと側頭部に力が掛けられ身体が傾いた。体勢を持ち直した。

「なにするんですか」
「……透けてはいないよな」

 すると上方から押さえつけられる感覚があった。僕は座り見えない男は立っている。事象の予想はつく。彼は僕の頭を悪意なく叩く。

「おれからは触れるんだよね」

 僕が払った手は虚空をかすめるばかりだった。当てずっぽうだから仕方がない。僕は彼を見上げたと思う方を見た。

「実はまだ触られたことないんだよね」
「構ってほしいんですか」
「暇なんだからいいだろ」

 視線をセレスタに向けても彼女は苦笑いを浮かべるばかりだった。そして正しい『変身』の方へ再び目を遣った。僕のことは無視して。贋作のザムザがしつこい。態度の冷静さを大人であると呼ぶなら、セレスタの方が大人だった。

「だからさあ、こういうことでしか、分からないんだよ」
 話だけは聞き続けた。テレビもラジオも点けていないしセレスタは語らない。夜間だから音もない。止まない波音が僕へと伝わる。夜、水は黝い。深い。だからカーテンを閉める。

「自分じゃ見えてるつもりでも人から見えないからさ、喋ったり触ったりしないと分かんなくなるじゃん」

 宙に浮かぶ缶がぐっと持ち上がり、傾き、空になって軽く机上に着地する。

「さみしいっつーか」

 僕の頭は小突かれ続けた。身体が揺れた。

「……ヤじゃん」
「……はい」
「女々しいなーとは思うんだけどさ」
「はい」
「いつまでこうなんだろうとか思うんだよ」
「はい」
「どうしたら戻れるかなって」
「はい」
「でもきっといつまでもこうなんだろうなあって、おれは何となく分かってるんだよ」
 ……答えられない。
「分かって欲しいっていうのは絶対無理だと思うし、それは図々しいし、おれだって自分のことが分からないから分かりたい」
「……そうですね」

 僕にも貴方を理解することは出来ない。それなのに僕は彼を認めている。不確かなものを好きこのんで招いている。そのくせ僕は何もしない。救わない。
 僕は異常者なのだと思う。

 見えない男は僕の缶まで手に取って、ぐっと持ち上げて傾け、水嵩を半分に減らした。こういう所は図々しかった。滴が降りていた表面に五本の指の形が残り、人間がそれを持った事実を証明した。どんなに理解出来なくても彼はただ存在している。

「座ったらどうです」

 頷いたか頷かないかは分からない。
「全部飲んでいいですよ」と言うと缶は今度こそ空になった。その辺りに遠慮は無い。
 隣に立ち尽くす男の姿を思い浮かべる。

 セレスタが大きく伸びをし、なにか晴れやかにこちらを見る。ぱたんと文庫本を閉じて横に遣る。

「読み終わった?」

 ふと、ザムザの問いに彼女は頷く。

「ごめんなさい、騒がしくして」

 彼女は首を振る。隣の空席をひいた。
 僕も言った。

「座って下さい。ザムザ君」

 すこしの沈黙の後椅子が前後に微動した。彼が座したことを理解した。
 語らない彼をセレスタはじっと見た。そしてしずかに手を伸ばし、きっと彼の背中の辺りを触れた。彼は前傾して机に伏しているらしかった。

『さわれますよ』

 彼女は無音で語り掛けた。グレーゴルにいたという妹を思い出した。
 彼女はもう少し上部に触れた。頭部だろうと思った。

『ながい』

と言って後頭部の何かを引っ張る。

「髪ですか」

 頷く。

「伸びきってるんだよ……切らなきゃだなあ」

 見えない手櫛を通す彼女はなにか満足げというかたのしげだった。

『髪の毛いじるの好きなんです 頭なでるの好きです』

 男も従順だった。眠たいのだろうか。いや。

「酔ってますね?」
「……うーん?」
「吐くならここで吐かないで下さい。ちゃんとトイレまで行って下さい」
「いや、まだ二杯だからまだへいきだけど、そんときは連れ添ってくれるとウレシイなあ」
「行きたいんですか?」
「……吐寫物って透明かな!」
「止めて下さい」
「まだ吐かないけど、吐きそうになったらぜひ確認を」
「お断りします」
「……手遅れって言ったら怒るか」
「怒る前に殴ります」
「冗談だって!」
「殴りますよ」
「殴られたらやっぱ痛いよなあ」

 ひひひ。と、見えない男は悪趣味に笑った。

 ふと全くの憶測が頭に浮かび、気付いた時には口に出していた。

「貴方、そんなんだから、透けてしまったんじゃないですか」

 ザムザは笑うばかりで答えない。
 彼は再び僕の頭部に手を乗せた。今度は正面から。

「本当に、まだ酔ってないぜ」

 押したのち、反動を付けてぱっと手が離される。笑いの吐息が漏れるのを聞く。

「もうちょっと飲もうよ。話したいことが色々見つかった」

 目の前に、見えない笑みを浮かべる男を見た。

「……飲みましょう」

 深く椅子に掛け直した。
 次にやることも見つかった。海鳴りがうるさいのは今日が新月だから。

twilight

category : tags : posted :

twilight

 日差しは斜めで、日陰の坂を少し急ぎ足で上った。昨日気付いたときに取りに行けばよかったものをと後悔している。無くなっていたらという可能性も否定できない。テキト-な性格の僕が悪い。藪道はなにか不快だった、と言うよりもちょっとした恐怖を感じた。霊的なものというより悪い者につけられているような不安を妄想した。夜明けも日暮れも暗さは変わらないのに、この気分差は何なのだろう。坂を上りきった僕は辺りを見渡す。
 先客がいたことに驚いた。それがさらに、制服を着た警察官だったから驚いた。なぜか気まずさに襲われて、引き返そうかと思ったけれど、別に負い目はないのだからそのまま昨日の崖を歩いた。この場所は僕しか知らないと思っていたのに。

「捜し物ですか」
と不意に尋ねられて、ひやりとした。警察官の制服のせいだ。

「本を、落としてしまって」

 相手はまだ二十代らしい人当たりのよさそうな男で、強さおそろしさは感じない。職業権力と顔が釣りあっていないのかもしれない。とか、失礼な事を考える。

「文庫の『変身』なんですけど」
 警官は目を丸くした。
「でしたら、これじゃありませんか?」
 そうして取り出した、カフカの表紙。よかった。
「それです!」
「丁度ここに落ちていましたよ。一応、本人確認をしたいから、学生証かなにか見せてもらえないかな?」

 突然くだけた口調になったことが舐められたようで不満を感じたが、扉に名前を記入しといてよかったと思う。鞄から学生証を取り出した。

 八月一日 夏生

 相手はまじまじと僕の字面を見る。初見で読めた人はほとんどいない。しかし本と学生証の名前は合致しているから問題はないはず。
「ありがとうございました」
 確認を済ませると、ちょっと困ったように返してくれた。読めないのも困られるのも慣れている。
「すいません、名前、なんと読むんですか? ハチガツ……」
 申し訳なさそうに尋ねられるのも慣れている。生まれてこのかたずっとこれだった。もうなんとも思っていない。出来るなら、もっとかんたんな名前が良かったけど。
「八月一日って書いてホズミで、夏に生まれるで夏生。ホズミ、ナツオ」

「夏生まれ? もしかして、8月1日生まれとか」
「いや、六月なんですよ」

 相手も苦笑する。名前と誕生日の面倒臭さなら自慢出来る。荻原にも何年罵倒されたきたことか。十年位だろうか。
「初めて見ましたよ、『八月一日』なんて。僕なんてただの高田ですから、おもしろくも何ともない」
「いや、でもフツウの名前の方がいいと思いますよ。何度も間違われるのって正直面倒です」
「そういえば高校のとき、同級生にすごい珍名の奴がいたな」
 高田という男はなぜかそのとき鼻で笑ったように言った。親しい仲ではないんだと思った。

「生徒手帳見たけど、M高なんだ?」
「あ、はい」
「僕も実はM出身なんですよ。柔道部だったんだけど。きみ、何部?」
「帰宅部なんです、今は」
 何だか申し訳ない気分になった。
 割と進学校のMから警察官になるとは、高田氏はちょっと変わった経歴なのだと思った。
 パトロールの途中に崖に寄ったのだろうか。込みいった場所だから地元民でなければ分からない。

「高田さん、地元の人なんですか?」
「ああ、そうだね。小中高ずっとここに住んでて、配属されたのがなぜかそこの、公園のそばの交番。すごい地元だよ。偶然」
「公園って」
 言いかけたところで高田は含みげな顔を見せた。さっきまでの人の良さとは違う、珍名の同級生に対してと似た表情だった。
「ホズミ君は、見たことある?」
 知ってるんだと思った。おまけにこういう訊き方をするってことは、詳しいんだろう。
「直接には、ないです」
「どこまで知ってる?」
 誘導尋問という語が頭をよぎった。
「celestaの件まで」
 言うと、相手は驚いたような、満足したように目を見張った。
「掲示板見てた?」
「はい」
 相手も見ていたらしい。さすが地元掲示板。
「高田さんは……誰ですか?」
「ホズミ君は?」
「……ROMでした」
 嘘、その一。言ったら弱みになる気がした。
「僕は、K缶。警官だからケーカン」
 高田は笑った。眼下の街は薄桃色で、空は橙色の雲が浮かび、昨日朝陽を見上げたビルのあたりはもう夜の群青がひろがっていた。ああ、どうしてこんなに気分が違うんだろう。
「celestaはどこへ行ったんだかねぇ」
「最初からうそだったんでしょうか。彼女の存在さえ自作自演だったりして」
 嘘その二。彼女自体は(彼女が本当に女子で学生かは確定出来ないにしても)存在している。だって僕は彼女とあの事件の前から直メを交わしている。掲示板の別のスレッドで出会ったのだ。IDも一致している。事件前から実在する彼女はなりすましの存在ではない。
 しかしそれとは関係なしに、高田はcelestaを確信していた。
「celestaは実在する。確実に中高生として。……ホズミ君くらいの年齢だろうね」
「なにか、証拠とか、あるんですか?」
 高田は彼女の足取りを掴んでいるのだろうか。

「この辺りで痴漢があったことは知ってるよね?」
「はい、なんとなく」
 地元民だからそういうニュースは届く。この界隈は街路樹が植えられて緑が多いが、街灯が木々で遮られることもあって夜間はひっそりしているために、痴漢変態のたぐいは減らない。
 核心に迫る予感に気がついて、僕の顔はゆがみそうだった。

 高田は
「それがcelestaだったんだよ」

 足もとが沈んだような気がした。

「そんなこと、あったんですか」
「celestaはそんなことは一言も書かなかった。現場に行ったら>>1に痴漢されたなんて、言えないだろう?」
「スレ主……悪霊に?」
「その男が自首してきたんですよ。その日」
 彼女が語るはずがない。そんなこと。
「そいつが言った。今日ネットで女の子と会う約束をした。その公園で。確定だろう?」

 僕はかすかに頷くばかりだった。

「約束通り何も知らないcelestaは来た。彼女も無鉄砲だった。独りでやって来て、まんまと男に襲われかけた」

 高田は一言一句噛みしめるように、celestaをもわらうように、僕の知らない話をする。
 ……襲われかけた。

「襲われかけた。しかしそこに、ホンモノが、現れた」
「本物?」
「その、公園にいるという“なにか”がね」

 ……悪霊。

「証言によると、悪霊は男の声で、celestaの目前でスレ主を蹴っ飛ばし、正直血祭り寸前までしたあげく、スレ主は命からがら逃げ帰った」
「それじゃ、その後celestaは」
「それは分からない。悪霊とcelestaがどうなったのか。彼女はその件は一切書き込まなかっただろう? “それ”が女性を襲った例はまだ無い。しかし性犯罪は泣き寝入りのパターンが多いから、本当の所は分からないよ」

 言うべきことが分からなかった。

「ホズミ君、彼女を心配してるのかい? 僕は独りで夜中に出かけていった彼女の自己責任だと思うけどね」
「それは、確かにそうですけど」
「とにかくcelestaは帰ってきて、まず掲示板に報告を入れた。しかし彼女は“それ”のことは一切触れなかった。それどころか公園へ行くなとまで書いた。彼女はそうして姿を消した。
 おかしいと思わないかい? 全部近所の人のいたずらだなんて言って。書きたくないんだったらはじめから『悪霊には会わなかった。>>1はガセ』で済むはずだ。彼女はわざわざ、それこそ、口裏を合わせたかのように発言した。『全部イタズラだし、ポタージュ様はもう止めるから、公園には行かないでください』と」
「口裏合わせ……誰と」

 予想がついているくせに僕は尋ねる。聞きたくなかった。聞きたかった。

「本物の“悪霊”と、だろう」

「……もともと、関係があった訳じゃあ、ないですよね」
「そうだろう。あの場所で、celestaと悪霊ははじめて出会い、なにがしの交渉があったことは確かだ。同盟を組んだのか脅されたかは知らないが、恐らく今も続いている。彼女をかばったことで弱みを握ったのか。それとも好意からかは分からない。
 しかし彼らは徒党を組み……その証拠に、celestaが蒸発してから、同時期に、悪霊も公園から姿を消した!」

 警察官というだけでここまで情報を掴めるのか、と、僕は圧倒された。そして。
 恐怖感といかりも覚えた。

「ホズミ君」
 改めて名を呼ばれた時にはもう最初の『高田さん』の姿は無い。居るのはほのぐらくわらう男の姿だった。
「僕たちも徒党を組まないか? 彼らはグルになっているというのに、僕らがバラバラというのは分が悪い。向こうは真相を隠そうとしている。ならば僕たちは真実を見極めようじゃないか。彼らのヴェールを引き剥がすんだ」
「……どうして、僕なんですか。僕なんてただの高校生ですよ。期待されるようなことなんて、何にも持っていません」

 大嘘。僕はきっと、celestaに唯一つながっている。
 それをこの人には言っちゃあいけないと思った。
 きっと彼女を傷つけるって思った。

「まあ、もしも進展があったら、連絡をくれよ。ゆくゆくは奴らを捕らえよう。真実を晒すんだ」

 奴らと呼ばれた中にcelestaも含まれている。
 でもこんなに内奥の話を聞いて協力できない訳がない。僕はうやむやに頷いた。彼女のことは沈黙して。アドレスを交換しあった。仕方なしに本アドを渡した。
 ばれてはいないかと急に心配になった。僕がVIIIIだということ。彼女と連絡をとっていること。K缶の頃から、あんたに好意を抱いてないってこと。
 パトロールの途中だった、と高田氏は坂を下りていった。僕はまだここに残ると言って別れた。ひとりで冷静になる時間が欲しい。

「……ああああ!」

 崖の上から叫んでしまった。
 誰も居ないって寂しい。昨日の朝の寂しさを思い出す。あの時は、でも、心地よくもあったのに、今は猫も居ない。僕はたったひとりで行かなければいけない。
 高田に味方する気はない。しかし“それ”の正体は知りたい。でも、と、まるで踏ん切りがつかない。
 僕はcelestaにまだ打ち明けていない。本当に聞きたいのは悪霊の話で、あなたは誰で、そこで何があったのか。でもそれを話したらきっと今の関係は破綻する。それを聞くことは彼女への裏切りじゃないかと思う。僕ははじめから裏切っていたくせに、今更裏切ることがこわい。

 初めから崖なんて来なければよかった。昨日目覚めた時から何かが破綻してたのかもしれない。何に怒りをぶつければいいのか分からない。僕? celesta? 公園の幽霊?

 どこか違うところに落ちていくようだった。
 何者かによるいやがらせをも疑う。
 僕の過ぎた妄想を、荻原に笑って終わりにされたい。
 夕暮れの空の下、誰もいない高台に、しょうもない高校生が独り、始まったばかりの苦難に頭を抱えている。きっと絵になる構図だと思う。もし僕が主人公なら、誰か小説にでも書き起こしてほしい。

blueseat

category : tags : posted :

blueseat

 思い出話。

 少年と呼ぶには背丈の足りない幼い男の子。その父。この家庭に母はいるけれど、あまり出かけたがらない人で、外出はいつもふたり旅だった。
 海へゆこう、と父は言った。
「お父さんのともだちも連れて」
 まだ七月のことだった。

 人工砂浜。どことは言えない。知人に紹介してもらった私有地の中だから、行こうと思っても行ける場所ではない。

 駅でその友人を拾うために二人は車を降りた。
「帆来! 久し振りだなあ」
 派手なアロハシャツの男がいた。
「高橋も元気そうでよかった」
 高橋の隣に小さい人影。これまた、幼い女の子。父は神妙な顔つきで尋ねた。
「誘拐か」
「馬鹿な」
「僕は友人を犯罪者にはしたくないし、犯罪者を乗せる車もない」
「……娘だよ!」

 運転席の父は笑い、高橋も助手席で笑い、後部座席にこどもふたりが座った。

「塔子ちゃん、いつの間に大きくなって」
「ごさいです」
「そっか、汐孝と同い年だもんな……」

 川沿いのジャンクションから高速道に入った。
 こどもたちはうたた寝をして、大人は大人の話に盛り上がる。

 大きな橋を渡る。巨大な銀色の橋。高橋氏はしずかに目を細める。
「すばらしい橋だよ」
「……僕たちのチームがはじめて手がけたプロジェクトだった」
「技師がよかったんだ」
「よせよ」
「おまえじゃない、おれだ」
「それはないだろ」
 帆来氏はわらいながら五年前の開通式を思い出す。それぞれの五年間が今、後部座席になかよく並んでいる。

 橋からは首都が一望できた。塔子は窓を開けたが、その父に「あぶないよ」と制止された。
「あれはパパが建てたビル?」
「パパと、仲間が建てたビルだよ」
 塔子の長くかよわい髪が風にそよいだ。汐孝は東に見える港を見た。
 巨大なコンテナと、外国から来た白い船。
 見えるものはどんどん後ろへ流れていく。

 六叉路につづく三叉路につづくトンネルと二叉路を迷うことなく走り抜けた。
 巨大なジャンクションはおもしろかった。こどもたちは笑った。車窓のうねる景色はまるで飛行機かジェットコースターのような速度だった。
 降りた所は工業地帯の大きな道路で、巨大なトラックが脇を過ぎるたび、ファミリーなこの乗用車が場違いで浮いているように思えた。コンビニで昼食と飲料を買った。工業団地の透間を縫って走った。広くて高い建造物の数々にこどもたちはただただおどろいた。尖った巨大な鉄柵が敷地を隔てて、『立入禁止』の看板もあった。
「いいの?」男の子は父に尋ねた。
「はいっちゃいけないんだって」
「いいんだよ」ハンドルを握る父は答えた。
「関係者だからね。お父さんたちは」

 そうして、とある施設に車を入れた。誰も見あたらなかった。広すぎる敷地のなかは、知らないレールが地面を走り、パイプラインが壁に迷路を這わせていた。
「こっちだったかなあ」
 私道の中をさらに走った。白黒の小鳥がおもちゃみたいに走っているのが見えた。どんどん、奥の方へ向かう。
 突き当たりの駐車場に出た。車を停めてアスファルトへ降り立った。こどもにとって車高はたかく、女の子はパパの手を借りた。
 なかなか降りようとしない男の子に父は手を貸そうとした。
「もう海?」
 数十センチの段差を見つめて男の子はつぶやいた。父は一瞬返答に詰まった。
「埋立地だよ。昔はここが海だった。
 今の海岸線までは、もうちょっと歩くよ」
 分かったのか分からないのか、男の子はきょとんとしていた。

 日陰のない道を一行はてくてく歩いた。

「ねえ、海!」
と女の子が指さした前方を、うつむき歩いていた男の子はふしぎそうに見た。
「もう、ここ海だよ」
「だって、まだ海ないよ」
「もう、海だよ」
 男の子は目をふせた。足下にない石をけとばした。
「海、ないよ」

 ちょっと強い口調で女の子は言った。
「あるよ」
「ないよ」
「あるもん」
「どこに?」
 男の子ははっとして――女の子の顔を見つめたが、すぐに視線をアスファルトの上に落とした。

 もめた様子のこどもたちを父はやさしくいさめた。
「どうしたんだ、何かあったのか」
「きよたかくんがうそをつくの」
「うそ、ついてないよ」
「ここが海だっていうの。ここ、まだ海じゃないよ。地面だよ」 <
「だって、ほんとに海だよ」
 父はふたりの肩に手をおいた。
「ふたりとも合ってるよ。
 ここは海を埋め立ててつくった場所だから、汐孝が海って言うのもまちがいじゃないし、塔子ちゃんが海じゃないっていうのも正しい。
 とにかく、もう少し向こうまで歩いて、そこでお昼を食べよう。
 わかったらふたりとも仲直りして」

 ふたりは、目を合わせにくそうにしつつも、
「ごめんね」
と男の子が言ったから、
「ごめんね」
と女の子も返して、手をにぎった。
 二人の影がアスファルトに灼きついている。

 高橋が先頭に立ちこどもらを呼んだ。
「ごらん。本当に、海だよ」
 塔子は息を呑んだ。
 そこは工業団地にはあるまじき砂浜だった。

 向かいの海に、高い灰色の煙突だとか、回る風車や観覧車が見えた。湾に架かる吊り橋の下を遊覧船が渡っていく。
 高橋は大きなパラソルを立ててシートを敷いた。昼食を済ませるとこどもたちは波間に立った。

 僕はあなたと違うんだって幼な心に理解した。

 こどもふたり大人二人では十分すぎるシークレット・ビーチ。とある研究に使った跡地だという。運転に疲れた父はブルーシートにうつ伏せて、高橋がこどもたちを見守っていた。空は晴れて水は涼しくやわらかだった。
 よせる波に足をひたした。もっていかれそうだって男の子は思った。
 男の子は地上で息を止める練習をした。
 女の子はそんな男の子の手をひいた。
「あそぼう?」
 サンダルをぬいでもっと沖まで歩いてみた。ひざぐらいの水位。
「あんまり遠くに行くなよ」
とパパが言った。ふくらました浮輪をふたつ投げてよこした。
 浮くということはとてもふしぎで、ふたりの足は海底についていたのに、普段あるくときとはちがって、身体がとてもらくだった。よせる波にたゆたって、もちあがったり、まるで空を飛ぶように。だれかが押してくれてるようだった。だれかが引いてくれてるようだった。

 ぷかぷか浮かびながらぼんやり見上げる男の子のとなりで、女の子も宙をあおいで見た。そこを大きな飛行機がよぎった。珍しいくらい低いところを飛んでいて大きい。
「パパ、ひこうき」
 陸にいるパパに塔子は呼びかけた。
「空港が近いからだよ」
 離着陸のために飛行機は低空を飛ぶ。

 見上げた水面は網目のように白光りしてゆれていた。光がいくつものまるい輪になって、僕たちにそそがれるのが、見えた。

 飛行機が去ったあとも男の子は見上げたままだった。
「なにが見えるの?」
 女の子は尋ねた。男の子は青空を目で追ったまま、
「海」
 とひとことだけで答えた。
 海? 女の子が見上げた先は、空だったけど。

 あなたと違うんじゃなくて、僕がちがうんだって気付いた。
 かなしいというよりもそれは冷ややかな感情だった。僕は冷たくなってしまった。

 浮輪の女の子はバタ足で泳いで男の子の浮輪によりそった。
「海、たのしくないの?」
 汐孝は少し暗かった目を塔子に向けた。
「たのしいよ。僕、海すきだよ」
 塔子はにっこり笑い、「よかった」
「とうこも、海、すきだよ」

 ふたり、同じリズムで、呼吸するみたいに、しずかな波に浮かんだ。

「きよたかくん」
 そう言った塔子は光の網目を身体にあびて見えた。
「ともだちになろう?」
 汐孝はしずかにうなずいた。

 ……。

 救われるということばは知らなかったけど、それでも少しだけ、救われたような気がした。

voice

category : tags : posted :

voice – a

 放課後、教室に二人の生徒が残っている。教室掃除の班だった。本来はもっと人数がいるはずなのだが、みんな部活やバイトで散ってしまい、結局ここには男子一人と女子一人。

「マジだるい」

 女子生徒が箒を手に嘆いた。つやのある黒髪の短髪だが、髪型は左右非対象でエキセントリックな印象を受ける。性格もさばさばとした方で、“よくある”女子高生とは一線を画していた。

「なんでホズミしかいないんだよ」

と言われ、黒板清掃をしていた男子は顔をしかめた。

「荻原に言われたくねえよ」
「あたしだってホズミに言われたくないし」
「つーか、荻原仕事しろ」
「やってる」

 荻原というその女子高生は大げさなため息をついた。ピロティからチア部の練習が聴こえてくる。彼らは二人とも帰宅部だったが、

「あたしだって帰宅部インターハイに向けて頑張んなきゃいけないのに」
「……はぁ?」
「いかに帰宅路を有意義に寄り道しながら帰るか。帰宅部の活動。今日は活動日だからとっとと寄り道したい」

 二人とも雑な割に手は遅かった。すこし蒸し暑い教室で、残された二人はぼやいていた。

「青木先生、筆圧強くて、蛍光チョークが消えないんだが」
「ほんと青木さんの筆圧何とかしてくれないかなあ。授業中もチョークめっちゃ折れてるし。板書雑だし。
 あーあ糸川先生ならこんなことなんないのに」
「荻原、まだ糸川先生好きなのか」
「あたし糸川先生の嫁になるから」

 荻原は窓を開けはなって風をあびた。制服のスカートが空気をはらんでふくれた。カーテンがゆるやかなリズムの深呼吸を打っている。同じく開いた教室のドアへ、室内を循環して吹き抜けてゆく。そろそろ毎日暑くなってきたから、この風は心地よい。

「糸川先生超かっこいいじゃん。ロマンスグレー、紳士! って感じ」
「でもそれつまりオッサンじゃん」
「オジサマです」
「はいはい」

 ホズミは荻原の趣味をかいま見た。分かるけど、分からないな、と苦笑した。ホズミの知る限りでは、荻原の嗜好は変化していない。年上趣味なのである。
 そうそう、と荻原が切り出した。

「読書課題やった?」
「ああ、一応、昨日に読み終わった」
「本当?」

 荻原の一言にホズミはどこかぎくりとした。

「あたしまだ読んでないから」
「まじで? やばくね」
「だから今日はやく帰宅部してブックオフ寄って買おうと思ってたから、正直掃除とかしてる暇ない。あたし最初図書室で借りようって思ってたんだけど、全部貸し出し中だったし」
「そりゃみんな借りて済ますよ」
「ブックオフにも無かったらどうしよう。だからホズミ、読み終わってるなら貸してよ」

 彼の嫌な予感は的中した。やっぱり、とも思った。荻原は訝しんだ。

「もしかして、貸したくない」
「いや、そうじゃないけど」
「あたし自分の持ち物はきたないけど、他人の物は絶対汚さないよ」

 それは真実だった。ホズミは頷いた。

「イヤ、読み終わったんだけど……」
「まだ書いてない?」

 ホズミは言い渋る。しかし荻原の追求からは逃れられそうにないし、特別自分に負い目がある訳でもない。彼は、もういいや、と呟いた。

「……本をなくした」
「……はあーっ?」

 荻原の視線が刺さった。やっぱり、そういう反応だよ。ホズミは何かを諦める心地だった。どうにでもなれとも思っている。

「家の中で?」
「……外」
「なんで?」
「外で読んでたら、たぶん置いてきたっぽい」
「なんで外で読むの?」
「……読みたかったから?」
「いつ?」
「日曜の、朝。五時ぐらい」
「なんで?」
「……読みたかったから?」

 荻原は突如として黙りこみ、箒をロッカーに戻すと、つかつかとホズミの方へ歩み寄った。
 笑ってるのか怒ってるのか無表情なのか、ホズミは荻原を形容出来なかった。

「ホズミってさ」

 真面目なのか冗談なのかも分からない。

「……ロマンチストでしょ?」

 そう言われると笑うことも怒ることも恥じることも出来なかった。いったい荻原はどういう顔をしているのだろう。いったい自分は荻原にどう見えているのだろう。ホズミは
「……知ってる」
と、力なくぐにゃぐにゃに頷いた。
 はじめて荻原は笑った。吹き出すようだった。晴れやかでもあった。

「変わんないよなー。ホズミんのロマンチスト」
「荻原だって、年上好きとか変わんないだろ。おまえ、ミナトさんに初恋……」
「ちょ、うるさいっ! ホズミだって中一の時占星術にはまって……」
「ばっ馬鹿やめろ! そうだよロマンチストだよどうせ!」
「知ってるし!」

 言い争いが結局楽しいことを彼らは分かっている。

「……ホズミ、まだオカルトやってんの?」
「まだやってるよ、全然」
「今は何やってる?」
「……幽霊、調べてる」
「ふうん」
「でも、荻原、幽霊信じてないだろ」
「あたし科学的なので」
「そうか?」
「ねえ、もうそろそろ帰らない? あたしはブックオフ行くし、ホズミんも、本探すんでしょ」

 いつの間にか荻原は鞄をまとめていた。ホズミも黒板消しを置いた。
 帰るか、とホズミは鞄を背負った。黒板にはチョークの残り粉でまだ白くくすんだ所がある。サボりと妥協の結果だった。よく見れば壁際にほこりの吹き溜まりがある。教室の清掃は中途半端に終わった。掃除係二人は、久しぶりにC駅までの帰路をともにした。

広告 (SPONSORED LINK)

PAGE TOP