Cipher

Happy Holiday

 祝祭気分の表通りから横町を分け入っていくとぼくらの住まう世界が広がっている。客席や演目の喧騒の届かないはりぼての向こう側。訪れた子供たちが今日も風船をうっかり空に放ってしまっていた。しっかり捕まえていないと駄目なのだ。

 深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いている、とは古い言葉だけど、ぼくら街の従業員だってお客の見物に出向いたりもする。年中パレードに飽和したこの街は、意外に思われるかも知れないが、12月の生誕祭の祝賀ムードに便乗することは全くない(この街は無宗教だ。徹底的に)。「クリスマスやってないんだね」と幼い子供が無邪気に尋ねていた。きみのお父さんお母さんは答えられなかったけど、ぼくには分かる。神様も妖精もここにはいない。いい子にしていれば奇麗なお洋服でお芝居を見ることが出来て、悪い子のところには鴉が来る。

 例えば15歳で煙草の味をしめると鴉に連れて行かれる。禁煙しても後の祭りだ。おまえの戻る場所はどこにもない。おまえにはお父さんもお母さんも友達も恋人もいない。

 真っ白い吐息をついて遊ぶ。あらかた眺めた今日の喧騒を尻目に、人気のない抜け道を通って、着飾っていないもう一つの街へ、ぼくが暮らしている領域へ戻る。通りの角の売店に入って、思いつきのままいくつか買っていく。

「包装って出来ますか」

「包装、ですか?」店番の女の子が怪訝に尋ねる。

「ああ、じゃあ、紙袋を分けて貰えませんか。こっちが自分用で、これは人にあげる分なので」

 紙袋は何の色も絵も印刷されていない、見慣れた茶色いクラフト紙だったが、店員さんはJUST FOR YOUというシールをわざわざ貼ってくれた。そんなものの常備があるのかとぼくは少しだけ感心した。

 はいどうぞと店員さんが品物を差し出してくれたとき、ぼくは彼女の背後の棚に見入って返答が遅れた。一拍置いてぼくが言う。

「それもくれませんか」

「それ?」と彼女。同じ規格の小箱がいくつも並んでいる。

「その赤いの」ぼくは大して確かめもせずに注文した。さきの包装の依頼と相まって彼女は不審そうにしている。

 レジに通して貰ったあと、また一拍置いてぼくは、思い出してマッチも買った。

「包装はいかがされますか?」

 彼女の問いに答えず、ぼくは小箱を外套のポケットに突っ込んでちょっとだけ笑んで店を出た。

 そして欲しかったのは赤ではなく緑のパッケージだったと、思い出したけれど、ぼくにはどうすることも出来なかった。

 横道に折れる。細い道を縫うように歩んでいく。街にとって裏通りがほころび隠しのバックヤードに相当するなら、裏通りのなかの細道はゴミ溜めも同然だった。しばらく歩み、ぼくの店の脇で足を止めて壁にもたれる。ポケットから赤く彩られた箱を引っ張りだして見つめる。

 クソガキが、と罵られた気がする。あの時ではなく、今ぼくの傍で、ここにいない筈の人物によって。どうしようもない少年時代を経てここに辿り着いたものだ。一度はきっぱり捨てたというのに、ぼくはまたぶり返そうとしている。あのひとの隣に立つもうひとりのぼくがぼくに問いかける。厭な笑みを浮かべている。重ねているのか? 今更憧憬をぶり返すのか?

 ぼくは思う。あれは憧憬だったのか?

 おまえがそう信じたくないだけだ。

 ああそうさ。ぼくは銀紙を破いた。憧れてたんだろうよ。

 憧れ以上だった。ぼくを叱ってくれたあのひとの面影は頭の中からとっくに掻き消えてしまって、ただぼくの声だけがぼくに語りかけた。

 ぼくが列挙する自嘲には相槌を打たず、ぼくはかつての手慣れた手つきを思い出しながら一本を咥え込み、さっき買ったマッチで火を付けた。

(俺がいるうちは吸うのをよしとけ。)あのひとはそう言ったけど、ぼくが火を付けた最後の一本は燃え尽きるまで待っていてくれた。

 立ち上る煙が鼻に入って咳き込んだ。思いのほかタールが重く、結局違うものを買うんだったらもっと軽くしておけばよかったと、数字も見ずに衝動買いした過去の自分を恨んでいると

「えっ」

「……あっ」

 横町を覗き込む見知った男がぼくを目撃していた。

 悪い友達と付き合って、悪い遊びを教わった。がさつながら面倒見の良かったぼくの師はティーンエイジャーのぼくから煙草を取り上げた。

 クソガキ、「お前に味が分かるのか?」

 いたずらっぽい挑発でぼくを諌め、当人は禁煙中のぼくに見付からないよう隠れて一服していたらしい。そんなことをしなくてもぼくはすぐに止められたし、止めた後にはそういう気遣いをしないでくれた方が良かったのにと、今は思う。

 目の前の男は禁煙中だと聞いている。

 無造作に下ろした前髪と帽子で容貌を伏せているが、あの刃物的な眼差しでぼくが咥えた紙巻きを間違いなく見据えていた。

 純粋な驚きの声が上がった。

「吸うんだ」

 そう言ってぼくの向かいに立った。狭い道だ。男二人並べば殆ど塞がってしまう。

 ぼくがもっとスマートな人間だったら、火をもみ消してすぐに応対できたんだけど、生憎貧乏性なので、火を付けたばかりの煙草を捨てられなかった。

「随分渋いの吸ってるな」

「趣味じゃないんだよ。ただ──気まぐれで」

「店ん中で吸えばいいのに」

「秘密なんだよ。止めたことになってる。……ティーンの時に」

 誰にも言ったことのない過去なのに、彼は驚きを口に出さなかった。ただ、「時効だろ」と顔色一つ変えずに呟く。薄水色の副流煙が彼を取り巻いた。

「時効なんだけどね」

 約束相手はもうここにはいない。ぼくは二十歳をとっくに越し、相変わらず至らない人間ではあるが、もうクソガキではいられない。

 見せてというふうに手を出すから開けたばかりのマルボロを差し出した。鮮やかな赤い包装はぼくよりも彼によく映えて似合った。格好良い男に似合う。彼は印字を眺めたのち、何食わぬ顔で一本を抜き取って咥えた。

「火」

 と催促され、マッチをどこに仕舞ったっけと外套のポケットをごそごそやっていると、不意に彼が覆いかぶさるように距離を詰めた。驚きに息が止まりそうになる。伏した銀色の眼がすぐ傍に迫り、互いの顔が近いことに粟立つような心地がする。端正な顔である。でも人を殺しそうな目つきである。落ち着かないその長い数秒の間、彼はぼくの咥えた煙草に自分のそれを宛てがっていた。何の事はない。直接火種を攫おうとしていた。

「吸って」

 と彼が囁いた。火種が弱く火が移らないらしい。言われるまま、ガキの頃ならルーティンだった筈の呼吸を行う。ぎこちないのが明白だった。

 互いのマルボロの先が灯り、彼は身を引き、美味そうに吐息した。さすが伊達なものだと思った。さりげない仕草や些細な表情の移り変わりが。狂人奇人の配役ばかり背負わされることにはぼくも疑問を抱いているが、彼自身の性分がワルに傾いているのは疑いようがない。大胆不敵でいて炎を思わせて、他人も自分も燃え尽くしながらいつか燃焼してしまいそうな男。

 禁煙中じゃなかったのかと意地悪く訊いてみようとした。でも他人のことを言えた立場ではなかった。12月の外気に晒された指は寒く、火種はぼくらを温めない。彼は空を仰いで煙を吐き出した。粟立つ気持ちが照れくささに変わり、隠しもせずに声を上げて苦笑すると、彼はまるで我関せずというふうにそっぽを向いて黙り込んでしまったので、気を引くために語りかけた。

「ハッピーホリデー」

 彼が向き直る。

「知ってる?」

「ああ」

 奇妙なことに、この街では祝祭が黙殺されている。クリスマスも、謝肉祭も、ハロウィンも、イースターも、街全体がはるか昔から密約を結んでいたかのように、見事なだんまりを決めていて、市街地ではまず声に出されない。

 クリスマスなどターキーを囲んでプレゼントを貰いたいだけだ。この街を脅かす程の魔力があるとは思えない。殆どの人間が覚えてはいるだろうに、なぜか話題に挙がったことはなく、似たような習慣もない。

 神などいないことは明白だ。空をとぶトナカイも魔法の老人もいない。飯を喰らい贈与をし合いたいだけで、それはこの街が望んでいる欲望的な生活態度にぴたりと合致するのではないかと思っていた。でも誰も祝祭を講じなかった。あるいは今のぼくらのように、ひっそりと祝いの言葉を囁き合っていたのだろうか。そんな気がし始めた。

 思わぬタイミングではあったが彼が来てくれたのはありがたかった。それに包み紙を渡す理由をでっち上げなくても良いと分かった。

「それで、今日はどうしたの?」

 彼もぼくを探しに来たんだろう。

「ああ。おれはさ、変なんだ。どうという訳じゃないんだが、昨夜から分厚いパンケーキが食べたくて仕方がない」

「重篤だね」にっこり微笑んで灰を弾いた。灰皿など無いが気にすることはない、もともとゴミ溜めも同然の場所だった。

「そう、異様なんだ。ホイップクリームが嫌というほど乗っていないと気が済まないし、苺を豪勢に飾り付けていないと満たされない。おまけにチョコレートソースを回しがけして欲しい。イライラするぐらいきらびやかなのが食べたい。おまけに自分じゃ絶対に作りたくないんだ」

「聞いてるだけで腹が減ってくるね」

「そう、だから、ランチに来てくれないか。誘いに来たんだ。独りじゃ胸焼けしそうだし。勿論用事がなければだが」

「行く」

 煙が辛くなる前に最後の一息を吸い込み、煙草をもみ消して、吸殻はその辺のゴミ山へ放った。

「あのさ、ぼくは一応禁煙中の身だから、服の臭いを消したいんだけどどうすればいいかな」

「歩け」軽く言い放って彼は笑う。「コロンでもつけたら?」

「つけてんの?」

「ごくたまに」灰を弾いて、考え込みながら、「ここぞという時はな」

「つけてきてよ」ぼくは口を滑らせて楽しむ。祝祭を共に享受する相手がぼくには足りない。

「いや、買ったのがさ、思ったより甘ったるいんだ。もうちょっとすっきりしたのが好いんだけど」

「でも時々どうしようもなく甘いのが欲しくなるんだろ」

「そう」彼も火を消し、吸殻をゴミの中へトスした。「発作的なんだろうか、いや破壊衝動かも知れない。ある種のリセットに通じるのかもな」

 でも、今、互いに広がる後味は苦い。舌がぴりぴり痺れている。

 触れ合いそうになったことが脳裏をよぎった。そのごわついた感覚を、違和感の正体を探ろうとしても、思案は煙に遮られた。おまえがそう信じられないだけだと、紫煙を吐くぼくが言った。それならそれで、もう、いい。ぼくは思う。でも信じたところで叶わないんだろ。

 口の中に残留している苦味もすぐに掻き消されるに違いない。消えるのはあっという間だ。さっきまでの匂いも感覚も忘れるんだろう。何度でも忘れるんだろう。忘れては繰り返して浮かれて消える。

 暗すぎる。

 ぼくはちょっと笑んで彼を見た。「腹減ったな」当たり障りない台詞を吐いて。叶わないのであればせめて今さえ楽しければ十分なのだと思う。

 何食わぬ顔で横町をすり抜けて、例のパンケーキ屋へ向かう。

 抱えた紙袋の中身を彼が尋ねる。

「あとで」とぼくは笑んで煙に巻く。もう少し祝祭ムードになったら差し出してやろう。彼にはとびきり甘いのを用意してやった。もう一つの袋は店の皆にあげるからカウンターの上に残してきた。きっと察してくれる筈だ。



未成年者の喫煙は健康に対する悪影響やたばこへの依存をより強めます。周りの人から勧められても決して吸ってはいけません。

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